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あま野球日記@大学野球

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2007.05.08
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テーマ:高校野球(3593)
カテゴリ:高校野球
<訃報>栽弘義さん65歳=沖縄水産高野球部監督

栽弘義氏。
高校野球ファンなら誰でも知っている有名な監督さんだ。

1941年糸満市生まれ。糸満高校から中京大学へ進学。
大学ではずっと控え選手に甘んじたが、そのかわりに
「監督のノウハウ」を学んだ。

76年から78年は豊見城高校を春夏連続で甲子園出場。
90、91年の夏は沖縄水産を率いて2年連続の準優勝。

初めて沖縄の高校が甲子園に出場したのは58年夏。
この大会は、首里高が沖縄を代表して出場、仲宗根主将
が選手宣誓をした。

当初は沖縄だからという理由だけで、ある意味での物珍しさ
や同情の目で見られることが多かった。

が、以降に栽監督が率いる豊見城高、同じく沖縄水産高
旋風を巻き起こし、90年と91年には連続準優勝することで、
「沖縄の実力」が本物であること全国に示すようになる。

そして99年センバツ、沖縄尚学高の全国制覇することで、
沖縄県民、そして栽監督の夢は結実する。沖縄尚学高監督・
金城孝夫氏は栽監督の教え子だった。

有名なエピソードを↓

上述した58年の首里高校、甲子園に出場したものの1回戦
で敗戦。「甲子園の土」を沖縄に持ち帰ろうとしたナイン、
可哀想なことに、土が港で海に捨てられる事件が起きる。
高校時代の、そして野球をやっていた証としての最高の宝物
であるはず。なのに、「外国の土」が植物防疫法に抵触すると
いう理由で、問答無用で捨てられてしまう。

あまりに理不尽な話だが、当時の沖縄は日本返還前。
沖縄から甲子園に行くためにはパスポートが必要な時代だった。
この事件、日本ではセンセーショナルに取り上げられ、大きな
波紋を呼んだ(らしい)。

話は遡り、その58年の沖縄予選。
甲子園に出場した首里高と準々決勝で戦い、涙をのんだ糸満高
の捕手は、栽弘義氏その人だった。

(参考)「チバリヨ、沖縄野球」



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Last updated  2007.05.09 02:25:17
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