11月28日に書いた「セ・パ誕生の裏事情と近鉄」の続き。
■セ・パ両リーグが誕生したのは、1949年(昭和24年)11月26日。
この日、日本野球連盟顧問各代表者会議が開かれ、翌50年からセ・リーグと
パ・リーグの2リーグ制で行うことが決定された。
■49年という年は、春に正力松太郎が「2リーグ制移行構想」をぶち上げて
以降、既存球団や新規参入を希望する球団がそれぞれ「利権」を求めて抗争に
明け暮れた1年でもあった(前述)。
また、読売と南海が遺恨を残し、その後のプロ野球の勢力図を大きく変える原点
となった年でもある。
■その顕著な事例は、一年前(1948年)に起きた「別所引き抜き事件」。
1946年(昭和21年)に19勝、翌47年(昭和22年)に30勝を挙げて南海の
エースに成長していた別所毅彦(当時、昭。のちに改名)だったが、南海の待遇
には不満を持っていた。
そのことを聞きつけた読売は48年のシーズン中にもかかわらず、第三者を通じて
別所に10万円を貸与。さらに契約金50万円と東京都内の住宅(50万円相当)の
条件を提示した。
日本野球連盟はこの事件が発覚後、シーズン中に行われた引き抜きであることを
重視。読売に対し10万円の制裁金の支払いを命じ、さらに別所本人には翌シーズ
ンの2ヶ月間出場停止処分を命じた。だが、結果として別所の読売移籍を認める
裁定であり、その裁定内容に多くの疑問の声が上がった。
■当時南海の監督だった鶴岡一人は著書で次のように述懐している。
「別所の引き抜きは(昭和)24年度の勢力分野をいっきょに逆転した。26年以降
の、いわゆる巨人の黄金時代は、これによって達せられたものであるといっても、
いいすぎではないだろう。別所引き抜きに対して、南海が釈然たりえなかったのは
当然であった」 (『御堂筋の凱歌』)。※『三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師』195頁
(立石泰則著、小学館刊)
そして、別所引き抜き事件の仕掛け人は、読売新聞社常務取締役だった武藤三徳
と言われていたが、鶴岡は当時読売の監督だった三原脩が首謀者だと読んでいたし、
たぶんその読みに間違いはなかった。このことは次回に。
※文中、敬称略。
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