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2005年09月15日
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みたち
 牧者二三人の幇《たすけ》を得て、ベネデツトオは戸口なる水牛の屍《むくろ》を取り片付けつ。その日の物語は止むときなかりしかど、今はよくも記《おぼ》えず。翌朝|疾《と》く起きいでゝ、夕暮に都に行かんと支度に取り掛りぬ。数月の間行李の中に鎖されゐたる我|晴衣《はれぎ》はとり出されぬ。帽には美しき薔薇《さうび》の花を挿したり。身のまはりにて、最も怪しげなりしは履《はき》ものなり。靴とはいへど羅馬の鞋《サンダラ》に近く覚えられき。
 カムパニアの野道の遠かりしことよ。その照る日の烈しかりしことよ。ポ丶ロの広こうぢに出でゝ、記念塔のめぐりなる石獅《せきし》の口より吐ける水を掬《むす》びて、我涸れたる咽《のんど》を潤《うるほ》しゝが、その味は人となりて後フアレルナ、チプリイの酒なんどを飲みたるにも増して旨かりき。〔北より羅馬に入るものは、ボルタア、デル、ポ丶ロの関を入りて、ピアツツア、デル、ポ丶ロといふ美しく大なる広こうぢに出づ。この広こうぢテヱエル河とピンチヨオ山との間にあり、両側にはいとすぎ、亜刺比亜護謨《アラビアゴム》の木(アカチア)茂りあひて、その下かげに今様《いまやう》なる石像、噴水などあり。中央には四つの石獅に囲まれたる、セソストリス時代の記念塔あり。前には三条《みすぢ》の直道あり。即ちヰア、バブヰノ、イル、コルソオ、ヰア、リペツタなり。イル、コルソオの両角をなしたるは、同じ式に建てたる両|伽藍《がらん》なり。欧羅巴《ヨオロツパ》に都会多しと雖《いへども》、古羅馬のピアツツア、デル、ポ丶ロほど晴やかなるはあらじ。〕我は熱き頬を獅子の口に押し当て、水を頭《がしら》に被《かうぶ》りぬ。衣や潤はん、髪や乱れん、とドメニカは気遣《きつか》ひぬ。ヰア、リペツタを下りゆきて、ボルゲエゼの館《たち》に近づきぬ。我もドメニカも、此《この》館の前をば幾度となく過《よぎ》りしかど、けふ迄は心とめて見しことなし。今|歩《あゆみ》を停《とゞ》めて仰ぎ見れば、その大さ、その豊さ、その美しさ、譬《たと》へんに物なしと覚えき。殊に目を駭《おどろ》かせるは、窓の裡《うち》なる長き絹の帷《とばり》なり。あの内にいます君は、いま我等が識る人となりぬ。きのふその君の我家に来給ひし如く、いま我等はそのみたちに入らんとす。斯《か》く思へば嬉しさいかばかりならん。中庭、部屋々々を見しとき、身の震ひたるをば、われ決して忘れざるべし。あるじの君は我に親し。彼も人なり。我も人なり。然《しか》はあれどこの家居《いへゐ》のさまこそ譬へても言はれね。聖《ひじり》と世の常の人との別もかくやあらん。方形をなして、いろ<なる全身像、半身像を据ゑつけたる、白塗の廻廊のいと高きが、小き園を繞《めぐ》れるあり。(後にはこゝに瓦を敷きて中庭とせり。)高き|蘆薈《ろくわい》、覇王樹《サボテン》なんど、廊《わたどの》の柱に攀《よ》ぢんとす。檸檬樹《リモネ》はまだ日の光に黄金色に染められざる、緑の実を垂れたり。希臘《ギリシア》の舞女《まひひめ》の形したる像二つあり。力を併《あは》せて、金盤一つさし上げたるがその縁《ふち》少しく欹《そば》だちて、水は肩に迸《ほとばし》り落ちたり。丈《たけ》高く育ちたる水草ありて、露けき緑葉もてこの像を掩《おほ》はんとす。烈しき日に焼かれたるカムパニアの痩土《やせつち》に比ぶるときは、この園の涼しさ、香《かぐは》しさ奈何《いかん》ぞや。
 濶《ひろ》き大理石の梯《はしご》を登りぬ。寵《がん》あまたありて、貴き石像立てり。其一つをば、ドメニカ聖母《マドンナ》ならんと思ひ惑ひて、立ち停《どま》りてぬかづきぬ。後に聞けば、こはヱスタの像なりき。これも人間の奇《く》しき処女にぞありける。(訳者のいはく。希臘の竈《かまど》の神なり。男神二人に挑《いど》まれて、嫁せずして終りぬと云ひ伝ふ。)飾美しき「リフレア」着たる僮《しもべ》出で迎へつ。その面持《おももち》の優しさには、こゝの間《ま》ごとの大さ、美しさかくまでならずば、我胸の躍ることさへ治りしならん。床は鏡の如き大理石なり。壁といふ壁には、めでたき画を貼《てう》したり。その間々には、玻■鏡《ばりぎやう》を嵌《は》め、その上に花束、はなの環など持《もち》たる神童の飛行せるを、画きたり。又色美しき鳥の、翼を放ちて、赤き、黄なる、さま/゛\の木の実を啄《ついば》めるを画きたるあり。かく華やかなるものをば、今まで見しことあらざりき。
 暫し待つほどに、あるじの君出でましぬ。白衣着たる、美しき貴婦人の、大《おほい》なる敏《さと》き目《まみ》を我等に注ぎたるを、伴ひ給へり。婦人は我額髪《わがひたひがみ》を撫で上げ、鋭けれども優しき目にて、我面《わがおもて》を打ち守り、さなり、君を助けしは神のみつかひなり、この見ぐるしき衣の下に、翼はかくれたるべしと宣《のたま》ひぬ。主人。否。この児の紅《くれなゐ》なる頬を見給へ。翼の生《は》ゆるまでにはテヱエルの河波あまた海に入るならん。母もこの児の飛び去らんをば願はざるべし。さにあらずや。この児を失はんことは、つらかるべし。媼《おうな》。げにこの児あらずなりなば、我小家の戸も窓も塞《ふさ》がりたるやうなる心地やせん。我小家は暗く、寂しくなるべし。否、このかはゆき児には、われえ別れざるべし。婦人。されど今宵しばらくは、別るとも好からん。二三時間立ちて迎へに来よ。帰路は月あかかるべし。そち達は盗《ぬすびと》を恐るゝことはあらじ。主人。さなり。児をばしばしこゝにおきて、買ふものあらば買ひもて来よ。斯く云ひつゝ、主人は小き財嚢《かねいれ》をドメニカが手に渡し、猶何事をか語り給ふに、我は貴婦人に引かれて奥に入りぬ。
 奥の座敷の美しさ、賓客《まらうど》の貴さに、我魂《わがたま》は奪はれぬ。我はあるは壁に画ける神童の面の、緑なる草木の間にほゝゑめるを見、あるは日ごろ半ば神のやうにおもひし、紫の韈《くつした》穿ける議官《セナトオレ》、紅の袴着たる僧官達《カルロテナアレ》を見て、おのれがかゝる間に入り、かゝる人に交ることを訝《いぶか》りぬ。殊に我眼をひきしは、一間の中央なる大水盤なり。醜き竜に騎《の》りたる、美しきアモオルの神を据ゑたり。竜の口よりは、水高く迸《ほとばし》り出でゝ、又盤中に落ちたり。
 貴婦人のこはをぢの命を救ひし児ぞ、と引き合せ給ひしとき、賓客《まらうど》達は皆ほゝゑみて、我に詞《ことば》を掛け、議官僧官さへ頷《うなづ》き給ひぬ。法皇の禁軍《まもりのつはもの》の号衣《しるし》を着たる、少《わか》く美しき士官は我手を握りぬ。人々さまざまの事を問ふに、我は臆することなく答へつ。その詞《ことば》に、人々|或《ある》は誉めそやし、或は高く笑ひぬ。主人入り来りて、我に歌うたへといふに、我は喜んで命に従ひぬ。士官は我に報《むくい》せんとて、泡立てる酒を酌みてわたしゝかば、我何の心もつかで飲み乾さんとせしに、貴婦人|快《はや》く傍《かたへ》より取り給ひぬ。我口に入りしは|少許《すこしばかり》なるに、その酒は火の如く焔《ほのほ》の如く、脈々をめぐりぬ。貴婦人はなほ我傍を離れず、笑《ゑみ》を含みて立ち給へり。士官我にこの御方の上を歌へと勧めしに、我又喜んで歌ひぬ。何事をか聯《つら》ねけん、いまは覚えず。人々はわが詞の多かりしを、才豊《ざえゆたか》なりと称《たゝ》へ、わが臆せざるを、心|敏《さと》しと誉めたり。カムパニアなる貧きものゝ子なりとおもへば、世の常なる作をも、天才の為せるわざの如く、愛《め》でくつがへるなるべし。人々は掌を鳴せり。士官は座の隅なる石像に戴かせたりし、美しき月桂冠を取り来りて、笑みつゝ我頭の上に安んじたり。こは固《もと》より戯謔《ぎぎやく》に過ぎざりき。されどわが幼き心には、其間に真面目なる栄誉もありと覚えられて、又なく嬉しかりき。我は尚席上にて、マリウチア、ドメニカ等に教へられし歌をうたひ、又|曠野《あらの》の中なる古墳《ふるつか》の栖家《すみか》、眼の光おそろしき水牛の事など人々に語り聞せつ。時は惜めども早く過ぎて、我は媼《おうな》に引かれて帰りぬ。くだもの、果子《くわし》など多く賜り、白銀《しろかね》幾つか兜児《かくし》にさへ入れられたるわが喜はいふもさらなり、媼は衣服、器什くさ/゛\の外、二瓶《ふたびん》の葡萄酒をさへ購《あがな》ひ得て、幸《さち》ある日ぞとおもふなるべし。夜は草木の上に眠れり。されど仰いでおほ空を見れば、皎々《けう<》たる望月《もらつぎ》、黄金の船の如く、藍碧なる青雲の海に泛《うか》びて、焦れたるカムパニアの野辺に涼をおくり降せり。





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最終更新日  2005年09月16日 00時34分13秒
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