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カテゴリ:Science/Medicine
大学の先生が授業のあり方について議論しているところで、「これは試験に出すから」というと眠っていた学生まで急にノートを一生懸命取り出すと言っていた。
よって、一番大事なことはこの決めぜりふで教えれば大丈夫だと。 これにちょっと違和感を感じてね。 いや、別に彼らが異常なのではなくて、私が異常なんだけどねw 私は今まで試験対策で勉強したことはほとんどないわけ。だから試験範囲が決められている学校の中間試験なんかはぼろぼろの成績だったし、受験だって受ける大学の問題の傾向は考えなかったし、対策も取らなかった。だから、過去問もいよいよ最後になってやることがなくなったときにちょっとやった程度だ。大学の授業も基礎は全部自宅でひとりやっていたし、上に上がってからは面倒なので一応授業は全部受けたが、自分で勉強していたのは絶対試験に出ない専門書や各論の本だった。おかげで今でも覚えているのは自分でした勉強で、授業で受けたことはほとんど覚えていない。 なんで、そうするのか。逆にだから、そうなのだとも言えるけれど、私の好きな三つの言葉が関係している。それは、 無駄、無謀、無理 論理的に考えるとそれらは無駄な勉強だ。本来の試験勉強をせずに絶対試験にでないものを勉強しているわけ。最初に設定する目標も絶対無理なところに設定する。 でも、それは無謀でできないことを勘案した上での目標だ。そこまで到達できないだろうけど、それでもある程度のところには行くはずである。そこまで行ければよいと考えてやっている。 また、仕事に関してもそれは言える。我々の仕事は論理性を最重要視する。しかし、全ての生物学的な現象がすでに分かっている事実と考えられているもので説明できる方が無理があるし、過去常識とまで考えられていたことが逆転したことは枚挙にいとまがない。 よって、一見、無駄で無理で無謀に見えるようなことでも、意外な新発見につながることもあり得るし、逆に常識と考えられていたことがひっくりかえることもある。 この世界で成功している人はよく論理的に考えることが大事だと学生に教えている。それはこの世界で論文を発表するにはその論文の中で論理性に破綻があってはいけないからである。逆に言うと、嘘でも良いから、AはBになる、BはCになる、よって、AはCになると言えれば通ってしまう世界なのだ。論文では最後にディスカッションのところがあって、別の可能性も考察するのだが、自分の論理を否定するようなことまでは踏み入れない。 しかし、いつかその論理性が崩壊する可能性はあるわけ。そのことを恐れているなら、「論理性が一番重要だ」なんて言葉は出てこないはずである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.07.08 13:17:48
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