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月の旅人

月の旅人

世界で唯一のメスキータ

世界で唯一のメスキータ




花の小路からいちばん近い外壁の出入口をくぐって『メスキータ』に入った。
レストランへの道中、城壁のように高い壁が続いていると思っていたら、それがメスキータの外壁だったのだ。知らなかった……。←(;^_^A ボケボケ?
そのまま『オレンジの中庭』を抜け、厳かな黒い大扉のある寺院の入口『シュロの門』へ。
『オレンジの中庭』は60m×130mの長方形の中庭で、かつては糸杉や月桂樹、オリーブが植えられていたが、イスラムの面影を一掃するためにオレンジの木へと植え替えられてしまったそうだ。その並びは屋内の円柱と同じ方向に整然と並んでいる。
イスラム教徒はまず中庭の池で体を清め、この中庭に面して19箇所あったアーチ型の出入口から直接寺院へ入ったらしい。だが今ではその池はなくなり、10世紀の噴水『アルマンソールの泉』が残されているだけだ。そしてアーチ型の出入口もキリスト教時代になって塞がれてしまい、現在は『シュロの門』だけになっている。外壁も同じく19箇所あったが、5つを残して塞がれてしまった。
訪れたときはちょうどオレンジがたわわに実っているときで、まるでオレンジ色の花が咲いているかのように中庭に華やぎを添えていた。……と言いたいところだが( ̄▽ ̄;)えへ、メスキータの周りの街路樹にはオレンジの実がたわわに実っていたのに、なぜかこの中庭には全然実がなっていなかった。なんで? 種類が違うのかなぁ?
鐘楼『シュロの門』から寺院内へ入る前に、ちょうど直線上に聳えている鐘楼『アルミナールの塔』を写真に収める。この塔はもともとイスラムのミナレット(尖塔)だったが、17世紀にキリスト教徒によって鐘楼へと改築された。といっても、ミナレットは壊されたのではなく塔に内包されている。12の鐘とは別に、時計部分にも2つの鐘が取り付けられていて、頂には13世紀にペストの流行から救ってくれたというコルドバの守護天使ラファエルの像が立っている。鐘は12時、13時などの各時間にその数だけ鳴るらしい。
……あれ? ということは私たちがいる間も鳴ってたのか? 気づかなかった……。(ーー;)
………さっ、気を取り直して。(笑)
鐘が鳴ったかどうかわからなかったアルミナールの塔(←気を取り直せてない(笑))の下が現在の主要門、『免罪の門』である。1377年にキリスト教徒によって造られた、スペイン独特の典型的なムデハル様式の馬蹄形アーチと装飾壁画が特徴のイスラムとカトリックが混在した門だ。その昔この場所に参事会があり刑罰の許しを申し渡していたことから、この名がついたとか。


『メスキータ』はサウジアラビアのメッカに建つカーバ寺院に次ぐ大きさのイスラム教寺院で、ウマイア王朝のカリフ(イスラム教の教主)でもあるアブデラマン1世が「西方のメッカをつくる」と計画し、それにふさわしい世界最大のモスクを建立するため785年に着工され、793年に完成した。ちなみにメスキータとは、スペイン語でモスク(イスラム教寺院)のことである。
メスキータの建っている場所にはもともと西ゴート王国の『サン・ビセンテ教会』があったため、コルドバがイスラム王国の首都となった当初はキリスト教徒との話し合いのうえ半分だけをモスクとして使用していた。この頃のイスラム教徒は、キリスト教徒を同じ“啓示の民”として尊重していたのだ。
今も互いにそうであれば、戦争など起こることもないかもしれないのに……。
だが王国が繁栄するにしたがって半分だけでは信者が入りきれず狭くなり、785年にアブデラマン1世が教会の残り半分も買い取って壊し、8年の歳月をかけて最初のメスキータを完成させた。その後も2世紀にわたって歴代の王により増築され、987年に時の宰相アルマンソールが3度目にして最大規模の増築を行ってメスキータの規模は当初の4倍にもなり、東西約130m、南北約180mのこの面積を誇って、イスラム教発祥地であるメッカのモスクを上回り一度に25000人もの信者たちが祈りを捧げることができたという。当初の目的どおり、世界最大のモスクとなったのだ。
そんなメスキータも1236年にはコルドバを奪還したキリスト教の支配下となったが、キリスト教徒はイスラム文化に敬意を表してメスキータを破壊せずそのままの威容を保った。
なのに16世紀になってコルドバ市民の「モスクの美しさが台無しになる!」という狂わんばかりの猛反対を押し切る形で大改築が強行され、中央部分の多数の円柱が取り除かれてカテドラル(大聖堂)が新築されてしまった。オーストリアのハプスブルク家派だったマンリケ司教が立案したことだが、これにはコルドバ市民ばかりかキリスト教の聖職者たちまでも一致団結して猛反対。そこでカルロス5世に訴え出たが、現場を見たことがなくメスキータの価値を理解できなかった王はあっさりと司教に工事許可を与えてしまったのだ。Σ( ̄□ ̄;)なんて軽はずみやねんっ
が、ポルトガル女王イサベルとセビリアで結婚式を挙げた後にコルドバを訪れてメスキータを初めて目にしたカルロス5世は、「このような建物だとは知らなかった。どこにでもある建物のために、世界で唯一の建物を壊してしまった。知っていれば決して手をつけさせはしなかったものを……」と嘆いたという。o(`0´メ)今さら言うかこら~っ
それに懲りず、アルハンブラ宮殿の一部を壊してルネッサンス様式の建物を建ててみたり眺望を壊す位置に増築してみたりと、カルロス5世っていったい……。(+ ̄- ̄)o゛ぷるぷる…
でも、カルロス5世の浅慮で着工することになったカテドラルの建築主任エルナン・ルイス父子は、その価値を大いに承知していて設計や施工にたいそうな苦心を重ね、その破壊をなんとか最小限に抑えたそうだ。( ̄- ̄*)ちょっと救われた気分
今ではキリスト教徒とイスラム教徒の間で翻弄されてきた祈りの場であり世界でただ1つのカトリックとイスラムが共存する建造物として、1984年に世界遺産に登録されたメスキータ。
どちらにしても世界唯一の建造物となったわけで、カルロス5世がにやりと笑う顔が見えるようだ……。ε=(ー"ー)ふぅ… ←顔知らないけど(笑)


シュロの門の前でガイドをしてくれるスペイン人のIさんから入場券を手渡してもらう。Iさんとはレストラン前で合流したのだが、最初はただの現地の人だと思っていた。(笑) 花の小路でもすっかり存在を忘れていて、ようやくここで「ああ、そういえばこの人がガイドさんやったなぁ」と認識した。ごめんなさいIさん。( ̄▽ ̄;)えへ
円柱の森シュロの門から中に入ると、そこはもう大理石の柱が林立する『円柱の森』だった。その数は856本にもなり、カテドラル建築以前は1114本あったとか。花崗岩や赤レンガと白い石を組み合わせた二重アーチが続いている様は、まさに圧巻である。(* ̄- ̄*)すごいわぁ…
シュロの門を入ったところはメスキータのいちばん古い場所で『アブデラマン1世の身廊』と呼ばれており、チュニジアにあったローマ遺跡の大理石や西ゴート王国の教会の資材が転用されている。他にギリシャやエジプト、セビリアなどからも運ばれたため、材質や色、太さや高さなどは一様ではない。中にはギリシャ神殿風の柱のある所も。この身廊の床はもともと漆喰でそれをござで覆っていたが、1920年の修復時に大理石が敷かれた。
ちなみに、シュロの門は王のための入口として造られたものだったそうだ。
それにしても薄暗い。太陽の向きがいけないのか少し翳っているのか数少ない採光窓からの明かりも頼りなく、おかげでうまく写真が撮れずに悪戦苦闘する。
本来のメスキータは各所に入口が設けられて開け放たれアルハンブラ宮殿のように光と影がうまい具合に織り成す明るい空間だったのだが、キリスト教徒が聖人の装飾画や彫刻を壁面に配し側面部分にはいくつもの礼拝堂を設けたため、開口部のほとんどが塞がれてしまい薄暗くなってしまったのだ。
まぁ、メスキータを破壊しないために端に遠慮したから、ということだろうか。明るい当時のメスキータを知らないからか、この薄暗さのおかげで神秘的で荘厳な雰囲気が増しているような気にさせられる。
アブデラマン1世の身廊で円柱に囲まれて立ち止まってIさんから説明を受けたのだが、Iさんが英語での説明だったため、添乗員のKさんがそれを訳すといった方法になった。その間も私たちは、特にみきちゃんと私はとにかく写真を撮るのに必死である。いや、私たちばかりではない。何人もが同様に真剣な表情でカメラを構えていた。みんな、うまく撮れただろうか。私たちは……まずまずといったところ。f^_^;)

説明が終わって進むと、早くもキリスト教徒に改築された部分になった。本来は833年にアブデラマン2世の時代に築かれた身廊だが、この部分は大半がカテドラルに姿を変えられてしまった。
左が聖職者席の裏側私たちが先導にしたがって通った所もカテドラルの聖職者席の裏側で、2つの大きな鍵を持った司教の姿が中央上部に彫刻されていて、周囲の天使像や柱の感じからまるで神殿のファサードのような雰囲気だと思った。その前を通って奥へ進むと、『アブデラマン2世の身廊』が少し残されていて、アブデラマン1世の身廊の馬蹄形アーチとは違い小さな円が5つある多弁形アーチになっている。
多弁形アーチここもやはり2重アーチになっているのだが、2重アーチは単なる装飾から生まれたものではなく合理的な理由がある。背の低い柱が多かったローマ神殿や西ゴート王国の聖堂の柱を転用したためそのままでは高さが足りず、アーチを重ねることによって高さを確保したのだ。つまりもし背の高い柱が使われていたら、メスキータの2重アーチの美しい景観が生み出されることはなかったことになる。アーチになっているのにも理由があり、9.3mの高い天井を支えるために受ける強い重圧を建物の壁に分散させているのだ。
ただ美しいだけの建物ではなく、あちらこちらで節約したり計算されたりしていることに感心する。( ̄- ̄*)すご~い
でもローマ神殿や西ゴート王国の聖堂から資材を転用したということは、そちらは崩されたわけで……ちょっと複雑。(ーー;)

ミーラブさらに進むと961年にアルカハム2世によって築かれた身廊になり、最奥にイスラム教寺院では祭壇の代わりとなる重要な『ミーラブ』いう窪みがあった。これは必ずメッカの方向に造られる。が、何か間違いがあったらしくこのミーラブは15度ほどメッカの方向からずれてしまっているとかいないとか。
近い場所なら15度くらい大差ないかもしれないけど、コルドバとメッカの距離を考えると少しのズレでもかなりのズレになるよねぇ……。
ミーラブと信者たちの間にはカリフ(王・教主)や高僧たちの礼拝場である『マスクラ』という空間があり、彩色格子の木彫りになっている天井のモザイクはスペインで唯一のビザンチン帝国から贈られたモザイクであるらしい。なのに、先へ行ってしまう人たちの後を追って急いだため、天井まで見ることなく移動してしまった。/(>_<)\なんてことっ
このアルカハム2世の身廊の部分が、メスキータで最も美しく豪華な造りとなっている。王国が絶頂期にあったため、新しい芸術や技術も取り入れられたそうだ。大理石の柱もどこかの転用ではなくこの身廊のために造られ、明り取りのためのクーポラは大きな貝殻の形が彫られているそうだ。
このクーポラも、見上げることなく通過してしまった……。(T_T)


続いて見学したのは宝物庫(聖器室)。枢機卿の小聖堂だったところを利用して宝物が展示されている。
聖体顕示台入ってすぐ、ガラスケースに収められた黄金に輝く聖体顕示台が中央を占領していた。聖体顕示台とはキリスト教の聖具の1つで、中央部分に聖体の一部を収める透明な部分があり、主に聖体拝礼のときや聖体行列のときに使用されるものである。この聖体顕示台は16世紀に作られたもので、3月から4月に行われる聖週間や5月に行われるパティオ・フェスティバルで引かれる山車の頂に取りつけられる。
絵の中の聖母マリアがやさしく見下ろす次の間への扉をくぐると、そこにも聖具やキリスト像、マリア像、天使像、水晶の十字架などがそれぞれにガラスケースの中に収められていた。
もっとゆっくり見たかったが、先へ先へと行ってしまうガイドさんやツアーの人たちを見失わないように急ぎ、顔よりも大きな冠をかぶった黄金の聖母子像とそのガラスケースに映る自分たちを一緒に写しただけに終わった……。
これらの黄金はもしかして、エル・ドラドから持ち帰られた金でできているのかなぁ。
ちなみにエル・ドラドとは、アンデスのどこかに眠っているという伝説の黄金の王国のこと。16世紀にその富を略奪するためにスペイン人が押し寄せたと伝えられている。ちょうどカテドラル建築時期と重なることを思うと、エル・ドラドの黄金である可能性もあるに違いない。d( ̄ー ̄)ねっ

次は、メスキータの中央にある『カテドラル』へ。
このカテドラルの最初は、カトリック教徒がコルドバを征服した1236年にカトリック両王によって造られた小さな礼拝堂だった。いや、アーチの下に造っただけの“祭壇”だった。
マヨール礼拝堂だが、前述したとおり1523年にカルロス5世がカテドラルへの改築を許可し、243年をかけて祭壇、聖歌隊席、聖職者席(説教壇)が造り上げられた。スペイン・イスラム王国の信仰と精神の中心だったメスキータは、こうして名称も『聖母マリア被昇天』に捧げるカテドラルへと変えられてしまう。それでも尚、現在も人々からメスキータと呼ばれているのは、そこにメスキータへの賛美が込められているかのだろうか。それともイスラム文化がスペインに及ぼした影響の大きさを物語っているのだろうか。
243年間にわたって造られたカテドラルゆえに、様式も各時代のものが取り入れられている。翼廊と祭壇のある後陣はゴシック様式、後陣の円天井はルネッサンス様式、そして聖歌隊席と聖職者席はバロック様式である。
聖職者席両側の壁面に53席ずつずらりと並ぶ聖歌隊席はマホガニー材を使用し、高い背もたれには右にイエスの生涯、左に聖母マリアの生涯が旧約聖書に基づいて浮彫されており、聖職者席も共にマホガニー製で上部にイエスの昇天、右にアビラの聖女テレサ(神秘神学)、左にマリアマクダレーナ(禁欲主義)が、頂にはコルドバの守護神聖ラファエロの等身大の像がある。1747年に完成。
祭壇の部分には、上部に聖母被昇天画がある。その両脇下にはローマ時代の殉教者でコルドバの守護神である聖アシスクロと聖女ヴィクトリアの宗教画があり、天井から下げられている銀製の誓願ランプはコルドバの細工師によって1629年に作られたもの。16のアーチからなる化粧漆喰のクーポラは聖人と司教たちの像が、中心には聖三位一体が浮彫されている。
祭壇は長い間改修工事がされていたそうで、その間は完成予想図が祭壇を隠した幕に描かれていたらしい。改修工事が終わったのはつい最近のことなのだとか。完成予想図じゃなくて本物の祭壇を見られて良かった。ε=(*^。^*)ほっ
メスキータの豪華さに対抗しようとしたためか、カテドラルの豪華さもかなりのものだ。でも何もメスキータの中に造らなくても良かったのにねぇ、とはやっぱり思う。別の場所じゃ駄目だったのかなぁ。
ぼんやりと生きてる私には、そういう争いはちょっとわからない。←自慢にならない(笑)

カテドラルを後にし、最後に時の宰相アルマンソールが987年から大増築を行った身廊に出た。ここは最も大規模な増築が行われた場所ではあるが、王朝はすでに絶頂期を過ぎ財政的に余裕がなかったため、壁が薄いなどの手抜き工事がされたそうだ。アーチも赤レンガや花崗岩と白い石を組み合わせたものではなく、石灰石を赤と白に塗り分けて造られている。費用を削るためか、天井にもこれといった装飾はない。
アルマンソールの身廊それでも二重アーチが続く様は壮観で、明かり取りの天窓からまるでスポットライトのように床に落ちる光の中に立って写真を撮ってみたり、列柱の間に3人並んで自分たちでもアーチっぽいポーズをして撮ってもらったりと楽しんだ。


アルハンブラ宮殿といいメスキータといい、すっかりイスラム建築に魅せられて頬を上気させながら(←ただ暑かっただけかも?(笑))、30分もらったフリータイムにメスキータ沿いのユダヤ人街にある。何かいいポストカードはないかと探してみたが、私は残念ながらこれといって気に入るものがなかった。ただ強い陽射しを避けるために、2人について店内に避難した感じになる。
だって、日向はまだ5月とは思えない暑さなんやもんっ。(>_<)
暑さに弱い私には、5月にこの陽射しは予想外のことだった。日本より涼しいに違いないと思っていたくらいだし。
でもなんと、コルドバの暑さはフライパンのようだと言われているくらい暑いものらしい。5月からこれだからねぇ、と大いに納得。
もう一度花の小路へ行ってみようかとも思ったがやめ、メスキータの主要門である免罪の門前で写真を撮る。
もしかして塔に登れたりしたんだろうか。……と今さら思ったりして。(^-^;)
それからオレンジの中庭に入り、唯一残されているアルマンソールの泉で少し戯れてみた。そうこうしているうちに時間も迫り、集合場所であるお土産屋さんに向かう。そこでおもしろアイテムを見つけ、さっそくみきちゃんと2人で遊んでNさんに写真を撮ってもらった。そのおもしろアイテムは、フラメンコの衣装風エプロン。やっぱり見つけたらつけてみないと駄目でしょう。(笑)
店内にいた添乗員のKさんにも半ば強引にそのエプロンをつけ、3人でフラメンコポーズを撮って写真に納まった。あ~楽しかった♪(笑)

お土産店の外でみんなが集まるのを待っていると、前を親子連れが通りかかった。2、3歳くらいの金髪の女の子と4、5歳くらいの茶髪の女の子の姉妹がとってもかわいい。特に妹のほうは、大きな目にくりくりの不思議な色の瞳が印象的だった。
みきちゃんは「かわいい~♪(≧∇≦)」と、すかさず屈んで姉妹の目線になりデジカメを向ける。写したそれを見せてあげると、うんうんと満足そうに頷く様子がまたおちゃめでかわいかった。(*^o^*)
そのうち全員が集合し、お土産屋さんの前でガイドさんとお別れして、バスの停まっている場所まで歩く。そのとき、お土産屋さんの前からすでに見えていた『サン・ラファエルのトリンフォ』をの横を通った。ペストの犠牲者の鎮魂のために建てられた塔だが、それほど歴史は古くないらしい。


バスに乗り、セビリアに向けて出発する。ローマ橋を通過してすぐ、フラメンコの衣装を着た女性たちが歩道を歩いていくのを見かけた。添乗員さんが今はお祭りの時期だからその会場へ向かうのだろうと教えてくれた。
春祭りといえばセビリアが有名らしいが、コルドバでも『フェリア・デ・ラ・サルー』というほぼ同じ祭りが毎年5月後半に10日間にわたって開催されているそうだ。これはコルドバの守護聖母サルーを奉るもので、カセタと呼ばれるテント小屋が集まった場所が祭りの中心会場となり、毎晩飲んで歌って踊って楽しむもの。こういうお祭りにはつきものらしい闘牛も、期間中連日開催されるとか。
ずいぶん賑わうんだろうなぁ。
そして前方には、ヨーロッパには数少ないという遊園地が見えていた。そこがフェリア・デ・ラ・サルーの中心会場となっているようで、続々と人々が行き交っていた。
対岸からメスキータを望む
メスキータの対岸までバスが進んだ頃、ローマ橋を含めてメスキータが見えるという絶景ポイントの近くでJさんがバスを停めてくれた。本当は停まってはいけない場所らしいが、Jさんがせっかくの絶景ポイントなんだからと10分だけ時間をくれたのだ。
いい人っ♪ヽ(*^^*)ノ
急いで橋の袂まで行き、ローマ橋とメスキータを写す。
ちょうどそのとき、闘牛士なのか馬に乗った2人がローマ橋をパカパカとやって来た。
「あっ!Σ( ̄- ̄*)」
私たちの真横を通り過ぎていく彼らを急いで写真に撮る。あとで見たら、みきちゃんの撮った写真は前を歩いていた白馬がしっかりとカメラ目線だった。
ふむ、気が合いそう。(笑)



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