☆フィンランドヘルシンキロヴァニエミ イヴァロ キイロッパ サヴォンリンナ ◆私の一番長い旅[45/150]フィンランド・KIILOPAA→ロヴァニエミ サボってましたが突然復活。16日からフィンランドを旅してます。また北極圏です。 フィンランドは読み方が難しいです。勝手にキイロッパと読んでました。 後ろのAAには、ウムラウト(フィン語ではなんと呼ぶ?)が付きます。 ストックホルムからのシリヤラインで同室だったマサコさんと、 一緒に5日間を過ごしています。キイロッパYHに宿泊。 ログハウス風のすてきな建物。確か8人部屋くらいのとこを2人占め。 大きな窓からは広い広い草原が見渡せました。 1992年8月20日(木)[45/150] 8時過ぎに起床。風邪をひいていて調子が悪く、 (マサコさんと、18日に徹夜で話したのが効いている...) 10時ごろから昼過ぎまでまた寝る。 また、窓からトナカイを見つける。外は6.5℃。 14時ごろ、遅い昼食。 ・サーモンスープ(35マルカ) ・オムレツ(レインディア(トナカイ)ミートの燻製入り)(36マルカ) (サラダ、パン付き) 15:20にバスに乗る(POSTバスではなかった)。 19時にロヴァニエミに到着、19:20発の夜行に乗る。 ロヴァニエミは、サンタのふるさと?として有名な町。 クリスマス関係のショップなどがあるらしい。 でも、往きも帰りも寄れずじまい。 明日はマサコさんは、シリヤラインで再びスウェーデンへ向かい、 私はリーマキで乗り換えてサヴォンリンナへ。 1992年8月21日(金)[46/150]リーマキ→サヴォンリンナ 夜行は朝の6:30にリーマキ(リーは巻き舌)着。10.9℃ ここで、ヘルシンキに向かうマサコさんとはお別れ。 彼女のおかげで楽しい6日間を過ごさせてもらった。 真冬のように寒いフィンランドの北極圏でも、 最果ての地って感じの草原に立つ、人の少ないYHに泊まっても、 全然寂しくなかった。 二人で、森の中の道を、なんか色々バカ話をして、 苦しいほど笑いながら散歩したよね。 あんな寂しい道、一人だったらとても散歩できないよ。 でも、ちょっと、妖精の話は怖かったなぁ。 ヘビースモーカーだけど、吸う時はこっそり外で吸ってたよね。 のどを痛めてた私に気を遣ってくれてたのかな? そうそう、目的地はもともと違ってたんだよね。 私がそそのかして、北極圏に連れてったんだっけ? 彼女は別れ際、風邪が悪化気味の私を心配して、 「無理しなさんな」と言ってくれた。 親戚のお姉さんって感じの頼れる優しさだった。 別れるのは、やはり、寂しかった。 7:53に、サヴォンリンナへ向かう列車が来るはずだったが、 一時間ほど遅れ、9時にリーマキを出発した。 結局リーマキ駅の待合室に2時間半座っていたことになる。 この時の霧っぽい光景は、今でも時々脳裏に浮かんでくる。 13時ごろ、列車はフィンランドの湖水地帯にあるサヴォンリンナに着いた。 静かな湖のほとりの街。 14時ごろYHにチェックイン。55号室のB。ベッドは2つだったが、無論、独り占め。 ここは2つの部屋の間に共同のキッチンがある仕組み。 少し休んで、街に出る。外は13℃くらい。 夕食の買い物をして、部屋に戻り、調理をする。 頭痛がして熱っぽいので測ってみると、やはり発熱していて38.3℃。 とにかく休むことにする。 18時ごろから21時ごろまでうとうとと眠る。 それから起きて、夕方作ったスープを飲んだ。 食べられるのだから、さほど重症ではないね。 また、眠る。 マサコさんとは、帰国後長く年賀状などで、あの旅を懐かしみあった。 やがて、彼女はアメリカで結婚し、色んなルーツを持つ家族の中で英語やスペイン語、 その他2、3の言語に囲まれて生活している...といった、便りをくれた。 その後、やり取りは途絶えて数年が経つ。 私がもっとクリスマスカードを早く用意すればいいのだが、 どうしてもいつもぎりぎりの12月半ばになってしまうため、 外国は間に合わなくなって、音信が途絶えてしまうのだ。 彼女はどうしているだろう?今度、ご実家に手紙を出してみようかな? 1992年8月22日(土)[47/150]サヴォンリンナ2日目 一晩眠って、朝には、熱も36.9℃に下がる。 あまり調子良くもないけれど、外に行けなくはない程度? 様子を見ながら、外出してみることにする。 私は昔扁桃腺肥大だったせいか、疲れが溜まると熱が出てしまったりする。 (大人になってからは、そう高熱にはならないし回復は割と早い) その代わり、めったにお腹はこわさない。 水や食べ物が変わるとてきめんにお腹に来る人もいるが、 あれは辛いと思う。...その点では旅行向きと言えるかも。 偏頭痛も、未体験。 (前の旅行で友人Aちゃんは、よく頭痛に苦しんでいた。あれもかなり辛いらしい...) フィンランド3大古城の一つオラヴィ城を訪ねる。 この城は湖の中に建っている。 優雅な趣きの城というよりは、要塞といった雰囲気の、 無愛想な面持ちのお城。 ガイドツアーに入って、複雑な城内を見て回った。 そのあと、近くのミュージアムSIHTLAを見る。 Sulosaari島、Verkkosaari島を歩く。 (たしか、橋でつながっていたと思う) 早めに宿に帰る。夜37.4℃。 1992年8月23日(土)サヴォンリンナ[48/150] 午前中ルーテル教会で礼拝に出席する。 夕方、湖のほとりで景色を眺めてたら、 フィンランド人の男の人に声をかけられた。 30代後半くらい? どこから来たの、とかの普通の会話のあとに 「ぼくの船で、湖を案内してあげるよ」と言う。 私は、そうか、この人は観光船を操縦している人なんだ。 とか勝手に思って、彼のいう”船”に乗せてもらうことにした。 ところが乗ってみると、けっこう豪華な個人用の船。 お仕事の客引きではなかったことに、乗ってから気付く。 ついてったくらいだから、特に危険な雰囲気はなかったのだが、 ロマンティックな湖上をクルーズしながら、話しているうちに、 「I love you」とか言い出すではないか。 「君と結婚したい」 ...って、いきなり言われてもねぇ。初対面ですよ。 昔からの婚約者がいるから、とか何とか断ったような気がする。 でも、彼は何度か、その言葉を繰り返した。 とても親切に、湖と小さな島を案内してくれたのだが、 そんな雰囲気だったので、居心地が悪くなり、 早く帰りたい思いが先にたってしまった。困ったな~。 私は時々咳が出ていたので、その度に「どうしたんだ?」と聞かれた。 「風邪で具合が悪いので、早く宿に帰りたい」というと、 何回か目にようやく、では、帰ろうということになった。 彼は私に住所と名前を教えてくれた。 お礼を言って、私はそのカリ氏と別れ、無事に宿に戻った。 思うに彼は、善良だが、女の子に縁のない財産家で、 この辺でぼんやり湖なんか見ている観光客をナンパしてるに違いない。 あとから考えると、とってもやばい状況だった。 たまたま、悪意のない人だったから助かったけれど、 密室に2人きりなんて、何が起こっても逃げ出すことが出来ない。 私は割と用心深いほうなのに、どうして勝手な思い込みでついてっちゃったりしたんだろう? 海外で不幸な目に遭う一人旅の女性のことが、報道されたりするが、 その人たちも、こんなことから始まっちゃったのかもしれないなぁ。 ホントにホントに気をつけなければ!と思わされた体験だった。 1992年8月24日(月)[49/150] 7:47サヴォンリンナ発の列車に乗る。 フィンランド国鉄の車内はけっこうキレイ。ピンク系のカラーでかわいい内装。 列車の窓からの景色は、ただひたすら林や森の木々が続く...、 といった感じでけっこう退屈だったけど、 いろいろ行けば、きっとキレイなところがいっぱいあるんじゃないかな? でも、シーズンオフに一人で来るのはやめよう。寂しいもん。 とにかく憧れのラップランドに行けて大満足。 ヘルシンキ着は13時頃。雨が降っていた。 港に行って、シリアラインの乗船券を購入。 この船はとっても大きくて立派な船なのだけれど、 ユーレイルパスが使えるので、75マルカのみ(寝台料金?) ユースホステルの宿代くらいのものだ。 乗船できる16:30までの間、ヘルシンキの街を歩いてみた。 フィンランドマルカを、スウェーデンクローネに両替する。 大勢の人を見るのは本当に久しぶり。 でも、どうも、あまり調子が出ない。 天気が悪いせいもあるかも知れないが、私自身気力が低下していると思う。 もう、50日にもなるんだものね。そろそろ、どこかで休憩できるといいんだけれど。 風邪は、熱が下がってからは鼻もすっきりしたし、 のどの痛みと咳が少し残っているほかは、だいたい回復した。 16:30に2002号キャビンに一番乗り。下段奥のベッドを獲得する。 やがて、香港の女の子が2人やってくる。 彼女達はシャワーを浴びるなり、すぐベッドにもぐりこんで眠ってしまった。 おいおい、まだ、18時前なんだってば(スウェディッシュタイムならまだ17時)。 もう一人は「家族連れだからここには寝に来るだけよ、いい?」と言いに来たおばさま。 とーっても、静かなキャビン。 時計はスウェディッシュタイムにしてしまう。 出港の時は、Fデッキにでて、フィンランドに別れを告げた。天気が悪いので、デッキに出ている人は少ない。 ゆっくり遠ざかるヘルシンキの街は、なんか、じんと来る美しさだった。 もう、フィンランドとはお別れなのね、としみじみ感傷に浸る。 明日の夜はヨーテボリ。 |