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第二十二話 セックス深索 人間の… (そのほか)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
セックスを深く考えよう(未来のために)
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セックスを深く考えよう(未来子供達のために)

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2006.12.31 楽天プロフィール Add to Google XML

第二十二話 セックス深索 人間のセックス(子供達の未来のために)

またまた、 私は迷ってます。

このブログを続けるべきかどうかに関してです。

 あくまで未来の子供達のためという心からのある迷いなのですが。…。

セックスを深く考えるというテーマ自体奥が深すぎて、
その深いところから 迷いも生じてくるのです。

きょうは ちゃんと続きを書きます。 でも。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 きょうは、思い切って深くつっこんでみます。

 わたしは、子供の頃、あるいじめで気もおかしくなりかけています。

(ある大人からのいじめです。) もととは人並みはずれて頑丈な体の
持ち主でしたが、

体もメチャクチャになり、何度も死にかけています。

 喘息から気管支炎になり肺炎に発展し、そして何度も生死の境をさ迷
ったのです。

 ある時は、右の肺胞が全部つぶれ、左の肺胞もあとわずかしか残って
いない  という事を医者が言っているのを聞いてしまったことがあり
ました。 「あと、もって3日です。」という宣告とともにです。

 あまりにも苦しいことは人間思い出せないものです。でも、たとえば
その時、それでも苦しさに必死で耐えようとしていた事とか、最後の耐
える力が、親の愛というささえだったりした事とか、

そんなに苦しくても、ちょうどこれからこそ生きられえるとの物心つい
たばかりの命にての死への恐怖のほうが大きかったこととか、

 やがて家族愛をも断ち切られるようなあることが起こってしまった事
とか、 とうとう耐えることができなくなったのにまだ意識が残ってい
る状態が続いたこととか、

それが どんなふうにもう1つのさらなくる苦痛を開いていったかとか
は、 いまでも憶えていることなのです。

 だからこそ解ることがあるんです。

苦しんだからといって、それがすぐ人間性とか、その成長とか人間とし
ての優しさとかにつながるということはありません。

でも、ここまで極度の死の床の苦しみの世界からは、解ること、はっき
り言えることがあります。

 (よく自殺は最大の不幸だとか言われますが、そんなことありえませ
ん。 詳しくはここでは話しませんが、なぜなら自殺できるんですから
とだけ言っておきます。そんなもんじゃないですよ、人間の死の床のリ
アリティーは、…。)

動物は、そこまでは苦しくない。 神経や脳が、動物の命の比ではない。

 戦争とかの『あってはならなさ』とかも、それを知らずにはほんとの
ことなんて解らない。(戦争のことは、私自身は戦後生まれですが、
直接に南京大虐殺に携わった人の話を聞いてますので、わたしのような
にんげんこそ、 子供達に戦争のなにがいけないのか、その真実をつた
える使命があると思ってますが、これも またのお話とさせていただき
ます。)

 もちろん、動物だって神経はあります。人間にそのゆとりが生まれれ
ば、やがては食べる対象ではなくかわいがる対象としてのみの関わりと
なるのが理想でしょう。

 でも私たちは 人間と動物との違いも良く「見つめられるように」な
ってゆくべきなのです。

 一方 同じ、子供の頃、

わたしは、 とある海辺の虚弱児施設にて、心もからだもすくわれた者
でもあるのですが、

 そこでの おおらかで明るい先生がたの話や、友達どおしの心の交流
とかが、どんなに楽しかったかの話も書けば話の尽きないところです。

 その施設の」消灯の時間に毎晩、放送室から流れてきたトロイメライ
やユーモレスクなどの音楽が、 もしかしたら地獄をくぐってきたから
こそだったのかもしれませんが、体中をつらぬき、胸の奥の奥にまで心
揺さぶられた記憶があるのです。

 まるでわたしの魂、全いのちを貫くようなそこまで体や心に音楽が
しみこんだ体験、

これも、それだけでは、子供の頃の無邪気な思い出のひとつにすぎなく
もあるのですが、そこからはっきり解ることがあります。

 動物には、そういう脳は無い。 ………。

 やがて 大人となった私に、 ある時、大自然の中で背骨がそれ以上
に生きてる喜びを歌いだす体験もしていますが、

 じつは、これが、セックスのエクスタシーの究極においても体の中に
起こる快楽の頂上と同じなのだという事も後に知ることにもなります。

 はっきり言いますが、

ボッキしようが、挿入しようが、セイシャしようが、なんにも感じない
セックスだってあるんですよ。

動物のセックスは、それに近いです。 

でも人間のセックスは、生命の歌であり、そして、すべての人間性や
文化の源、ふるさとでもあり、

あくまで、この生涯の半分以上は大切なことなんです。

 せっかくのその人生最大の宝物の世界が、中途半端な性描写の世界
や、逆に目をつぶって中途半端に人間のプライドをかかげる人達によ
って曇らされています。

 ネット時代です。 この機に、 みんなで
セックスを 中途半端にではなく、深く考えよう。

未来の世界中の子供達が、希望という名の音楽を魂のそこから聴く事
ができますように、

 というのがこのブログの目的なのです。


 でも、    でも、      でも、


今  わたしは、また悩んでいます。

 何故 しばらくこのブログは 途切れてしまったのか?その理由と
同じ理由が、むしかえしています。

もしかしたら、また ここで途切れてしまうかもしれません。

今、言えることは、

 そしたら、 次に書き始める時には、今度こそ すべのその理由
から書き始めることになるでしょう ということだけです。

 今の今は その理由も言えません。ご了承ください。

迷いに迷いつつ、  でも 人間ってそうしながらしか進歩してゆ
けないのでしょうね。

 ながくなりましたが、 …………………


                  以上です。

 
 

最終更新日  2006.12.31 08:43:32
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2006.12.30

第二十一話 セックス深索 人間は動物じゃない?(子供達の未来のために)

セックスについても、
どうか深く考えてください。

文化や人生の半分以上大切なことであること自体な
ら、みなさんもわかっているでしょ。

でもたとえば、破廉恥とセックスの開放との違いと
か、微妙な違いにも思え180度違うようにも思え、
明確な答えが見えなかったりして、子供達にどうこ
の事を伝えていったらいいのか解らないのだと思い
ます。

まず、セックスについては深く考えられるような大
人にわれわれがなっていく事、このためのブログを
始めた者です。

 ごいっしょに考えましょう。

 未来の子供達のために。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

手相は
だいたい3ヶ月ごとに変化してゆくと言われています。

でも、もっと早く変化してゆく人も大勢います。

手の相は、それにとらわれたりするために観るのでは
ありません。 その人の状態とか 心の奥の傾向性と
か素養素質とか体調とかが、一目で「見つめる」事が
できるので、それによって「じゃあつぎにはどうして
いったらよりよくなるのか」という事を考えたり反省
したりしやすいという事なんです。

 つまり、よく言われるように、“運命はあるのだけど
運命というのは変えてもいける。”という事を手の相自
体が示してもいるんです。

 起点は「見つめる」という事です。 今の自分をより
深くまた広い視点で見つめることです。

それによって、あらたな行動や学習の道を決意し、じっ
さいに、決行し、その結果をまた「見つめ直し」、

そうやって私たちは進歩し、運命も変えてゆけるわけで
すが、
 つまり、その決意をよりすばやく深く行動とかに移し
てゆく人達の手相は、3ヶ月なんてものじゃなく

一週間でも、目に見える変化をします という事なので
す。

 すみません、手相についての詳しい事は、また別の機
会にお話します。

 特に「結婚線」と言われている 結婚の時期とか恋のと
めきとかまでいろいろ読めたりする相については、この
ブログの主題のセックスとも関わりますから、早めにど
こかで説明しますね。 お楽しみに。

 ともかく 手相にても、また成功への道筋にても、常
に起点となるのが人間だけにある「自分の状態を見つめ
る」能力を活用する事だ。 ということを、きょうはま
ずちょこっと説明させていただきました。
(昨日、 手相鑑定のことに触れましたので。)

セックスについて、長いあいだ、私たち人間が、公に議
論を展開できないできた理由や、  その人その人それ
ぞれの経験の中では深めてきたことも、公の考えや思想
としてはそれほど進歩してこなかった理由のひとつに、

 皮肉な事に、人間は動物とは違う、もっと偉い存在な
のだという誇りとかプライドのようなものが、かえって
人間も 動物でもあるという当たり前で自然な事を「見
つめる」力を奪ってきたからです。

 そういうプライドとか誇りとかを、ここでは「そんな
のは中途半端なプライドであり誇りだ」と規定させてい
ただきます。

 こう考えてください。 この宇宙で一番偉くない存在
は神様なのだ   というふうにです。?^^?

 全知全能なのですから努力がいらないからです。

 虫けらでさへ、神様よりは偉い^^というふうに。

 そうするといろんなことが見えてきます。

 ごきぶりも神様よりは偉い。でも神経がほとんど無い
のだから、なんの苦もなく生き抜ける、 神様は わた
したちの宇宙をつくってくれたんだから それでもこに
くらしくはないけど、 ごきぶりって、なるほど考える
と考えるほどにも 小憎らしい。 とかなんてことは
ここでは どうでもいいのですが^^/。

あしたも触れますが、人間て、他の動物よりもはるかに
神経も細やかです。 反省し進歩できる分、責任も他の
人にたいして背負ったりして、生きる努力もその分大変
だったりします。  

 そうです。たしかに人間は偉いんです。 その事を自
覚しプライドを持ち、誇りを持つことは大事なことのひ
とつです。  

でも ほんとうにその事に自信があるならば、動物だっ
て(ゴキちゃんとかは ちと別ですが。 どうしても
スリッパではたきたくなってしまう人の気持もわかりま
すが。    え  ゴキちゃんだって神様よりは偉い
んだからかわいそう?? そ そういう人は スリッパ
なんて使わないでさらに楽に死ねるように ゴキブリほ
いほいを使ってください。)偉いことが見えるはずです。

いきとし生ける生命の一生懸命さが見えてきたりもする
でしょう。

その本物の人間としての誇りやプライドと、そのユトリ
で、ここにもう一度 人間も動物であることを「見つめ
直し」てみればいいんです。

 動物はただ本能のままにセックスしてるだけです。

でも 人間はそれを見つめる事ができます。

その快楽が、まだ未熟なままにも変に強烈だったりする
ために、 おぼれてかえって「見つめ」られなくなって
しまう場合はありますが、

 それを「見つめ」 最高の愛の高みにまで成長させて
ゆく事も出きるのです。

その可能性を明確に 考えられるようにしてゆくのが
このブログの大事な目的のひとつです。

この動物である体がわたしたちの精神もささえてくれ
ています。 その体をもっと「見つめられる」ように
なってゆきましょう。

 それは 人間の文化や、生涯にとって半分以上もた
いせつな事なのです。

 ここに、もういちど「人間も動物」だという事をも
「見つめ直し」ておきましょう。

 人間だからこそ     です。

あしたは、 逆に、人間と動物との違いについてです。


やっぱ、人間のほうが ほんとは偉い!?んです^^///。

?????!

つづく





最終更新日  2006.12.30 08:49:46
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2006.12.28

第二十話 セックス深索 私自身の反省(未来の子供達のために)

セックスを深く考えるためのブログです。

情報化時代に、みなさんもいっしょに考えてください。

未来の子供達のために。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 キリスト教との関わりでの
セックスを深く考える視点だけでなく

仏教との関わりでの、セックスを深く考える視点も
いろいろあります。

 直接セックスについて触れている言葉には、
日蓮の「男女会交の時に南無妙法蓮華経と唱うるを、
煩悩即菩提、菩提即煩悩という。」というのが
有名ですね。

 上記の「会交」というのはセックスのことなのです
からね。

 でも これでは現代人には、なんのことなのかそ
の意味合いはわかりにくいですよね。
私の場合、こういうのを解りやすく解説するのが得
意のようです。(そのうちに 詳しく語る時がきま
すので楽しみにしていてください。)

人がなかなか解説しないところ、解説できないでき
たところを解説してしまうのですから、みなさんも
びっくりしてしまうかもしれません。

 宗教に関して、そんな事ができる人は、まるで偉
人のように思えてしまうからです。

 でもそれこそ、宗教組織の欠点で、そうした組織
の作り出した空想の世界に過ぎないことです。

 私自身は あの漫画ドラエモンの中のノビタ君に
似た、なんのとりえもなく、ブキッチョで、おっち
ょこちょいな子供だったのですが、
その作者が言うように、ひとつだけ偉いところがあ
ったのです。 

 それだけがとりえだったにすぎません。

 いつも失敗する弱い自分を見つめ、反省し、それ
でも何も変わらなくてあいかわらず失敗ばかりして
も、 でも やっぱり、めげずに反省をくりかえし
前に進もうとはしているのがノビタ君のいいところ
だと作者は語っていますが、

 それだけは私にもあったのです。

サルが人間に進化した部分も そこなのだそうです

 自分を見つめる能力、これです。

自分を見つめるから反省でき、そしてサルには無い
進歩が生まれたのだといいます。

 なにが出来なくても その人間的な部分を私は
大切にしつづけてきただけです。

 くわしいことは、おいおい書いていきましょう。

でも、けっきょくは 今でも、凡人のままである事
にはかわりありません。

実は、昨日 会社の忘年会があったのですが、
そこで、 私は、みんなの手相をみてあげました。

いままで、はずれたことがなかったので多少偉そう
にです。

 最初は遊びのつもりで始めた手相鑑定なのですが
今ではあまりにも当たるので、かなり真剣にもなっ
てました。

 ところが、昨日は、ちょうど会社で呼んだコンパ
ニオン3人の手相の内、2人もの感情線がいまま
で見たこともない手相だったのをかわきりに、
いままでの自信を失うような事がたくさん出てきま
した。

 何よりも、一人、わかるはずの通常の手相だった
コンパニオンの手相を、後でよく考えてみたら、
読み間違えしていました。  そのコンパニオンは
当たっていると口では言っていましたが、 おそら
くそれはコンパニオンのリップサービスのひとつで
す。

 始めて占いが恐くなりました。占いは自信を持っ
て言う
感じに自然となってしまうので、 いざこのように
間違った時には、へたするとそのぶん、おおきな間
違いとなり、人の心を傷つけてしまいます。

 それに気がついた時にはすでにコンパニオンの方
達が立ち去った後でした。

他の人の心、特に手相に関わるような深い部分の心
なんて、そう簡単に解るものではない、という基本
を私は、忘れて、天狗になってたのです。

いっしょうけんめい 本当のこととは何かを考えて
生きてきました。

 そして、いつしか、部分的には深さで誰にも負け
ない部分も育っていたかもしれません。

 でもそれは、それだけ努力した部分が、その分人
より進歩するというのはあたりまえの話で、それ
けのことに過ぎなかったのです。

 私自身も人生の道の途上に生きる身、天狗になっ
たらその部分は、そこでお終いだという事にかわり
ないのに、  このノビタ  いまだに、 そんな
失敗をくりかえしているのです。

ただ、失敗は失敗。 次にはなんとかしようとまた
立ち上がって進んでくつもりです。

ここを訪れたあなたも、ともに進んでゆく人であっ
てください。

 人生は どこからでも進みはじめることはできる
のですからね。

 では、

あしたは、自分達人間の動物性を 見つめることか
ら目をそらすのではなく、 それを見つめるところ
からセックスについても 進みなおしてみよう

という呼びかけとなります。

 あしたのこの時間も お楽しみに。


つづく。

最終更新日  2006.12.29 02:23:58
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第十九話 セックス深索 罪人?!(子供達の未来のために)

セックスを 深く考えるためのブログです。

 未来の子供達のために。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 売春婦だったか 詳しい事を忘れましたが
(聖書は、高校時代に読んだだけですから、そのへんのこと
はあまり憶えてないんです。 でも、

 でも、何と言ったらいいのか。 これはともかく疑って疑
いぬくにふさわしい本だ とか青二才のくせに、そんな集中
の仕方で何度も何度も読み返した記憶はあります。)

 その、たくさんの姦淫の罪 を犯した女性に、回り中の大
勢の人が石を投げつける場面が聖書の中に出てきます。

すると、その場にいあわせたキリストが、その間にわって
はいり「あなたがたには、この女性を非難できない。 もし
罪を犯したことが無い人がいたら、石をなげなさい。」とい
うふうにいつものように痛快に一言で群集を制してしまう場
面となるのです。

 キリスト教には 罪という概念があります。 純粋な神の
善に照らして、人の不純な悪を問う概念です。

 キリストにとっても罪は罪なんです。 でもここに許すと
いう思想が登場します。

 すべてを母親の愛のように、包みこんでしまい。全ての人
間の命の尊厳へのリスペクト(尊敬)を訴える思想です。

 こうしてキリストは
その売春婦だかの女性を身をはってまもり、その心をかき抱
くように、抱きしめてみせたのです。

 わかりますでしょうか。

 昨日書きましたように、恋の中では、人は異性のすべてを
いやらしくは感じません。 キリストのような人にとっては
すべての人が恋人のようだったのです。

それどころか、 大自然の中で、生活の雑踏を離れてふと
くつろぐような時には、ふだん忘れている星とか、あるいは
雲がだんだん赤くなってゆきやがてそらに一番星が出て来た
というたあいもないことにも驚ける心を、われわれもとりも
どしたりもしますが、
キリストのような人にとっては、人の体もセックスも生殖
も 同じ荘厳は大自然の営みであるわけですし、快楽はそ
のまま神の、また存在の贈り物であったわけです。

 「だが私は言う。心の中で姦淫しても姦淫した事になるの
だ。」というキリストの言う 罪の概念わかりますでしょう
か。

 純粋であれば、ここをでセックスを想像しようとそれ自体
が罪だなんてことはありえない事です。

 愛が深ければ、姦淫でさへはっきりいって自由です。でも
でも

でも、それは、こういうことです。

 愛があれば、一夫一婦性の重みも いろいろな意味で強く
深く理解もできるはずです。

 キリストは 自ら言うように、それまでの律法(道徳や規
律)の中の偽善を破壊するためだけではなく、愛によるほん
とうの律法の完成を訴えたのです。

 クリスマスという事で、しばし続けてきました「キリスト
はどのようなセックス観を持っていたのか」という事につ
いての文を書きつづけてきましたが、  これをもっていち
おうの幕としておきます。

 でも、上記のように、いい意味での宗教観とセックスの思
索とは深い関わりがあります。

 これからも キリスト教に限らず、宗教の話もいろいろ出
て来るかと思います。

 きょうは ここまでです。


 また あした。 


つづく
 


 

最終更新日  2006.12.28 07:57:58
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2006.12.27

第十八話 セックス深索 姦淫は罪!でも…?(子供達の未来のために)

セックスについて、
深く考えるためのブログです。

子供達の未来のために。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

キリスト教の新約聖書の中で

キリスト教の新約聖書の中でキリストは、

「あなた方は、姦淫をしてはならないと教えられて来た。だが私
は言う。 心の中で姦淫をしても姦淫したことになるのだ。」
と言っていますが、

すでに触れていますように、この言葉ほどおおきく誤解されてき
た言葉はないかもしれません。


セックスを心の中でも 思ってはいけない。想像してもいけない
。 という解釈を多くの人がしてしまったためです。

でも それなら、それまでの戒律(法律や道徳)の中の矛盾に、
するどく反旗をひるがえしてきたキリストの言葉としても、
かえって規律を厳格してしまうわけですからおかしいですし、

文章や言い回しから言っても「だが私は言う。」とゆうふうに
「だが」と言っているのですから 普通に読めば、姦淫もまた
キリストの他の教えのように、ほんとうに偽善の無いまどころ
からの愛があれば自由なのだ ふうにもそこまでなら読めます
よね。

 でも、多くのキリスト教徒の人たちは、でも ここだけは、
かえって厳格なところだ というふうに解釈してしまい、
「だが」の意味をも、おなじく そういうふうにうけとって
しまったのです。

 「心の中で姦淫しても姦淫したことになるのだ」
という部分を  生殖のためにセックスはあるのであり、それ
以外は心の中でも想像してはならない。というふうにです。

 なぜ そんな解釈になってしまったかというと、それは簡単
です。

 おおくの場合、 (ある局面では95パーセントの人が)セッ
クスをいやらしいものと感じてしまうからです。 そんな事
をキリストは想像したりしない  というふうにです。

 でも このブログで何度もすでに語っていますように、た
とえば、恋をした時にはその彼女とのセックスは想像でも実際
でもすこしもいやらしく感じないように(恋については こ
のブログでは 先にいってですがどんどこ出てきますよ。)

 ほんとうは、キリストのような人にとっては、すべての人が
恋人のように それ以上にいとしくて、また神から与えられて
いる人間の体は、もちろんセックスもふくめて尊い尊い存在とし
てしか見えなかったということです。

 ここでもキリストは その心をもっとも端的に短く語ってい
ます。

 すみません、書ききれなかったので
このくだりは、 あしたも続けます。

ともかく 姦淫は昨日かきましように 罪です。

でも、 …………?

 つづく。



最終更新日  2006.12.27 08:05:02
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2006.12.26

第十七話 セックス深索 新約聖書では。(未来の子供達のために)

セックスについて
深く考えるためのブログです。

未来の子供達のために。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

 きのうは、クリスマス。

80歳をすぎた母といっしょに、クリスマスケーキを
たべました。

 クリスチャンではないけれども、心の奥で、キリス
トの誕生をいろいろな意味でお祝いしながら…。


 さて、昨日から、ではキリスト教の新約聖書では、
セックスについてはどのように語られているのかを書
いています。

 山上の説法(山上の垂訓という呼び名の方が一般的
かもしれませんが、ともかく意味は同じですので)の
中で、キリストは、

 ある文脈(昨日触れました)の流れの中で、
「あなた方は、姦淫するなと教えられている。だが私
は言う。 心の中で姦淫してもそれは姦淫した事にな
るのだ。」と言ってます。

 この箇所は、その後の人類にとってまで、大きな問
題となってしまったヶ所だ といっても大げさとは言
えないところなのです。


 なぜなら、キリストが神であるにせよ、偉大な人間
であるにせよ、あるいはその両方の特性をそなえた存
在であるにせよ、

 ともかくキリストの語った内容は、 それまでの規
律や道徳の中の偽善や不自然な誤りをただすべく、愛
による、その真心による、もっと完成された自由な規
律や道徳を説いたものなのに、

なぜか、その部分だけは、後のおおくのクリスチャン
に、さらに規律や戒律を強化する内容として解釈され
てきてしまったからです。

キリストは「私は律法(道徳や規律のこと)を完成さ
せるために来た」とも言っています。

だからこそセックスを語る場面で、いつものように要
点だけに絞って、まず「姦淫」という言葉を出してき
たのでしょうが、

 つまり一婦一夫性とかのその規律の重みとかを、大
切にしてるからこそ という事なのでしょうが、

( あ、 あの「姦淫」という言葉の意味解らない人
いますか?  一言でいえば、それは 自分の妻以外
の人とセックスをする事です。 社会の長い間に育っ
た必要から生まれた習慣や常識を破る罪として、道徳
などで語られてきた言葉です。)

 《《『 ほんとに信頼してた人に 裏切られる男女
特に女性の苦しみ、わかりますか?!』 それって、
姦淫って 罪なんですよ。』》》

 それを 多くのキリスト教徒の人たちは、 「心の
中でも セックスを想像するのは いけないことなの
だ。罪なのだ。 セックスとな 聖なる神に照らせば
思うだけで罪になる汚らわしいことなのだ。 でも
それをキリスト様は許してくれる。 だからよけいに
そのことは 心の中で自覚しなければ」
  といったふうになのです。

どうか 冷静に よく考えてみてください。

 セックスがどのようなものかよく知らなければ、セ
ックスという言葉もその口から出てきませんよ。

 まして姦淫という道徳の意味をキリストは知ってた
のでしょ。

 キリストは罪人ですか? 

 言ってる 意味についていけてない人は ここは飛
ばして下さってもいいですが、

 では キリストは その言葉で 我々に何を言いた
かったのでしょう?

 それは 明白です。  やっぱり愛なんです。

きょうで、このことはまとめるつもりでしたが、

つづきは あしたにまわします。

それは、 母親のような、生きとしいけるどんな人を
も包み込む、リスペクト(尊敬)と愛の強烈なメッセ
ージのひとつなんです。

つづく。

最終更新日  2006.12.26 06:51:54
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2006.12.25

第十六話 セックス深索 復活です。(未来の子供達のために)

 ネットにて、本物と言える
セックスと心の文化についての論議を

ここ、このブログにて展開してゆきたい。

未来の子供達のために。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

メリークリスマス。

 ちょうど、この日に、戻ってきました。

こんなに早く、再び書き始めることになるとは思ってませんでした。

その理由も、実はキリスト教の新約聖書の中のある二つの矛盾した
概念をさらに深く考えることができたからなのですが、

そのへんは、おいおい書いてゆきましょう。

 さて第十六話と そのままつづけて書く事になるわけですが、
内容は変化させてゆきましょう。

そのままつづければ、”セックスについて深く考える基本となる考え
方の三本柱のうちの一番最後の、三番目の柱”については、まだちょ
こっとしか触れてないので、そこから始めるというのが順当ですが、

一応は基本はまとめたので、

これからは、さらに「わかりやすく楽しく読めるものに」をモットー
に 同じ中学生でも読める思索内容をさらにわかりやすいものへと
変えてゆきましょう。

きょうは ちょうどクリスマス。

 では、新約聖書のキリストの言葉では、セックスについてどう語っ
ているのかについての、わたしの考えから書き始めてみましょう。

 きょうと明日の二回にわたって書いてみますね。

キリスト教の新約聖書には、山上の説法として有名な「目には目を
歯には歯を、と言われている。だが私は言う。 50歩歩くように強要
されたらさらに50歩あるきなさい。 左の頬を打たれたら、右の頬も
むけなさい。」という意味深い言葉が出てきますが、

その言葉ならご存知の方も大勢いるかと思います。

でも そのすぐ次に、セックスについて書かれている部分があること
は、あまり話題となってはいません。

でも実は、その部分は、規律よりも愛のまごころによる心の自由と、
それによってこそ道徳も規律の完成するという意味の事を説いて、
それまでの規律や道徳の世界の矛盾を強烈な例え話で訴えたキリス
トの言葉なのに、   多くのキリスト教徒の中に、まったく逆に
規律を以前より以上に強化してしまうような解釈を生んでいる

メチャクチャなまでに、問題の部分なのです。

「あなた方は、姦通するなと教えられている。 だが私は言う。 心
の中で姦通しても、それは姦通した事になるのだ。」

 続きは  あした書きましょう。

 みなさんは、この山上の説法の文脈の流れの中でのこの言葉の意味
合いをどうどう解釈し受け止めますか。

 生殖の目的以外のセックスは、想像さへしてはいけない。というふ
うに 多くのキリスト教徒がそのように受け取ってしまったと同じよ
うに受け取りますか?

 でも だとしたら、この言葉自体にすで矛盾が出てきてしまいます


 つづく。

最終更新日  2006.12.25 08:01:27
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2006.12.04

第十五話 セックス深索 突然ですがここで!(これも未来のため)



(15) 平成18年 12月04日(月曜日)


こんにちは、
「おにいさん」です。


今度は「セックス」について語らせていただいております


この情報化社会に、子供達は大人への信頼のよりどころを
失い、心の奥ではあえいでいます。 正直で素直な子供ほ
どその深みにはまっているかもしれません。

この時代、コウノトリの嘘は通じません。逃げないでいっ
しょに考えてください。 今こそ せめてネットにて
本物と言えるセックスと心についての文化を論議してゆき
たいんです。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

このように、第十五話まで
書きつづけてきましたこのブログ、

ほんとはこのまま、生きている限り、何千話でも毎日書き
つづけてゆく予定だったこのブログ、

しばし、迷いましたが、

しばらく前から編集後記には触れててきましたが、

やはり 突然の形で打ち切ることになります。

最後に 今書けるところで
長くなると思いますが、すこしまとめさせていただきます。


 すべての文は、これから生涯にわたって書いてゆく内容
の布石として書いたつもりのものです。

ですので、ここでは、最初の序文のような部分の解説は省
いて、

セックスを深く考えてゆくための起点となるような
基本の三本柱について簡単にまとめる事にさせていただき
ます。

 まだ、三本目の柱については触れていないわけですが、
それは、『芸術そのものの本質とセックスとの関係の理解』
という柱です。

 一番目の柱の中での快楽主義の第二段階でも、芸術的快
楽主義ということで芸術の本質にすこし触れていますが、

それはセックスそのものが芸術でもあるようなセックスも
われわれにとって実は切々として必要なものなのだという
事を説明しようとした筆なのです。

 (その事始めです。)

でも 三本目の柱の

『芸術そのものの本質』というのは、歌なら歌、踊りなら
踊り、演技なら演技の世界の、

 テクニックではなくその心の世界の本質のことです。

その本質が、ぼくらの,私たちの心身の中で明確になって
いき進歩してゆく事が 実は、セックスの成熟に最も大き
な力となるし、 その逆も真なりで、おたがい循環しあっ
て成塾してゆくという基本的考え方です。

セックスを中心に考えれば、芸術そのものの本質を理解す
る事は、 いきいきとしたセックスを血液循環の例えるな
ら、
その血の巡りを良くする栄養剤のようなものと考えること
もできるでしょう。


 さて二本目の柱については、
前頭葉という人間性をつかさどる脳とセックスとの関わり
についての理解がカギでしたが、

それには知情意のうちの 情を中心とした知(知識や知恵)
と意(意志)の必要性の理解が重要だとも書きました。

 
もちろんそれは三本目の柱の「芸術の本質」と深く関わっ
ています。


このブログの第六話で、建築用の足場の基礎に例えて、セ
ックスについて考える時にも基礎が必要という事を、

 その足場の組み立て時での私自身の大失敗を例に、語っ
ていますが、

 ちょうど、このセックスを深く考えるための三つの基本
の柱も 同じように要となる留め金は一緒とも言えます。


 足場の留め金は、主として2方向のパイプを捕まえる要が
つながったものを使い、この2方向がすべりよく回転するよ
うになった要があったりして、これで立と横と横(斜めもく
わわりますが)基本的には三本の柱をがっちり組み合わせて
いきます。

それ同じように考えて、セックスの三本柱の留め金は、
「感じる」という方向と「見つめる」という方向でできてい
ると考えると考えやすいと思います。


 もっと詳しくお話できるといいのですが、ここはその基本
的な考え方のみで一応の幕としておかざるをえなくなってし
まったわけです。

ただし、この続きをSNSに移行させて後に、SNSの中で充分
検討した上で、私が書く形になるか、他のメンバーが書く事
になるかはともかく、 なんらかの形で、

そうですねタイトルに「セックス深索(しんさく)」と入っ
た内容の濃いものがまた復活する可能性はあります。


いずれにしても、私自身はさらに事を深く深く進めてゆくつ
もりです。

 みなさんも 基本は解ったでしょうから、この考える起点
をもとに、さらに考えを深めていってみてください。

基本自体は簡明単純なものですが、基本というのは、どこま
でいっても、繰り返し繰り返し立ち返る練り直すといった性
格ものです。


 だれも セックスについては教えてくれる人がいません。

いるかもしれませんが、私自身は、未熟な青二才の時も
結局はひとり孤独な旅をよぎなくされました。

 数々の回り道、無駄な道、邪道をつまづき転び、心身傷だ
らけにもなって40年近くもあがきながら、やっとこの基本を
はっきりと人にも言えるようになったとっころなのです。


 ここに書いたところはまだ基本かもしれませんが、これを
どうか、皆さん自身の汗水と努力でおぎなって、どうか生涯
の宝物と変えていってください。

 未来の子供達のためにも!!!


  また会える日がくるといいですね。

 では、このブログ、ここにて

     SNSのほうに 強引に移らせていただきます。


      みなさん、おからだをたいせつに。


最終更新日  2006.12.04 06:54:44
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2006.12.03

第十四話 セックス深索 大脳生理学?!(未来の子供達のために)

(13) 平成18年 12月03日(日曜日)


こんにちは、
「おにいさん」です。


今度は「セックス」について語らせていただいております


この情報化社会に、子供達は大人への信頼のよりどころを
失い、心の奥ではあえいでいます。 正直で素直な子供ほ
どその深みにはまっているかもしれません。

この時代、コウノトリの嘘は通じません。逃げないでいっ
しょに考えてください。 今こそ せめてネットにて
本物と言えるセックスと心についての文化を論議してゆき
たいんです。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

◎きょうは最後に《重大編集後記》があります。

∞∞∞

セックスについて深く考える一番目のの基本は 昨日までに
説明しました。

つぎは 2番目の基本です。


 わたしは 若いころ、地球物理学者の書いたセックスに
関する本を読んだことがあります。

海洋学に中学生の頃すこし興味があったもので、それで
「え?」と思って読んだ記憶があるのです。

 
そこには 大脳生理学の 当時の最新の情報がでていまし
た。?!?!

 動物は、セックスも性器も発達していない、大きさも
小さいままの方が多いいし、大きさには関係なくともか
く何かを「感じる」わけではない。

 感じるから人間は笑ったり泣いたりする。笑ったり泣い
たりできるのは人間だけで、  よくにた表情は動物でも
する時はあってもあくまで似て非なるものでしかない。

 「感じる」という事から人間性が生まれ そこから人間
的は創造性や想像性が生まれて、

大脳の中の前頭葉というところが発達し、それによって
男女の営みのセックスで「感じる」能力も開発され、

その「感じる」能力によって、創造性や想像性も発達し、そ
れがまた前頭葉を発達させる。

 この好循環を大脳生理学は 発見した。まるでそれは



まるで それは 地球にあたらしい夜明けが訪れたようだ。


 という内容のものを ほんとに地球物理学者が書いてい
たのです。

たしかに物理学者が書く大脳生理学というのもおいもしろ
いですが、

これはもっと多くのジャンルの表現者と言われる文化人が

この「夜明け」には注目して この事をもっともっと多く
の観点から書くべきだったのでないでしょうか。

学者の間では、知られていても一般にはそれから50年ち
かくたっても、いまだにあまり知られていません。

おそらくその理由は、昨日までに書きました快楽主義のあ
たりで、セックスにたいする一般の誤解があるからだろう
と思うのです。

 もちろん、昨日までに書いたところは基本のほんの描写
のようなものですが、考える起点にはなるところ、みなさ
んも真剣に考えて欲しいところです。


 ネット時代の幕開けの今こそ、この「夜明け」の姿を
多くの良心のあるかたがたに表現してほしいところです。

 こんどこそ 未来の子供達が、心に傷を負うのではな
く、さかさまに、希望に溢れることができますようにです。



 きょうはここまでとします。


 つづく


《《重大編集後記》》

 昨日にもすこし触れましたように、(まだ思案中でした
が)このブログは途中で打ち切ります。

 くわしいその理由を書けば長くなってしまいますが、
この内容のものは、最初は小数精鋭の形にて啓蒙してゆく
べきところと気がついたからです。

 ですので、SNSの形にいきなり移行してゆくことにしま
した。

 それだけの理由ならば、このブログはこのブログで続け
てゆくことはできるのですが、その事の裏に、とても簡単
には書けない理由が重なってしまったためです。

紹介形のSNSという形になりますので、したがってこのブ
ログは、完全にストップしてしまう強引な結末となってし
まうのです。

幸いこの新規ブログ「セックス深索」あるいは「セックス
を深く考えよう…」は、まだほんの始まったばかり、

そこで、以前からの「趣味としての歌」を読まれている方
かバックナンバーで読まれておられる方に限ってですが、

このブログの続きについてや、SNSでの中身に関して質問を
受け付けることで、

興味深く読まれてくださった方への書いたことへの責任を
果させていただく形にさせていただきます。

 強引ですが、ご了承ください。

 このブログは、後何回かで終了します。

それなりにまとめる形で 残念ですが終了せざるを得ない
のです。

 正しい道への闘い自体を止めるわけではありません。

 より正しい道への闘い求めて、終了せざるをえない事と
なったのです。

 みなさんも、こころある方なら、良心の声に従い、さら
なるセックス深索をつづけてくださるよう
ここに切にお願いいたしまして筆をおきます。

 未来の子供達のために、……………………。

              以上です。
        

最終更新日  2006.12.03 06:41:41
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2006.12.02

第十三話 セックス深索 「恥じらい」(子供達の未来のために)

13) 平成18年 12月02日(土曜日)


こんにちは、
「おにいさん」です。


今度は「セックス」について語らせていただいております


この情報化社会に、子供達は大人への信頼のよりどころを
失い、心の奥ではあえいでいます。 正直で素直な子供ほ
どその深みにはまっているかもしれません。

この時代、コウノトリの嘘は通じません。逃げないでいっ
しょに考えてください。 今こそ せめてネットにて
本物と言えるセックスと心についての文化を論議してゆき
たいんです。

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

しばし語ってきました
快楽主義のうちの第二段の芸術的快楽主義の

まとめとして、きょうは、

お約束のとおり、「恥じらい」について書きます。


「恥じらい」というのは、なにも日本人だけのものではあ
りません。

でも 日本には、特有の「恥じ」や「恥じらい」の文化が
あり、プロとして深く芸術を志すようは人達は、その奥
深さを知っておく必要があったりもします。

 日本の場合、本来的には 奥ゆかしいまでのこまやかな
その
心理や表情の綾が、感性としてもあり、表現の世界でも求め
られたりもするからです。


そのような高度は意味での「恥じらい」については、今の
時代では、 これほど説明がむずかしい世界はなくなって
いるとさへ言えてしまうところがあります。

 ですので、日本文化としての「恥じらい」については、
ここではまだ詳しいことは書きません。(段階を追って
いつか書くことになるでしょう。)

 (こうした日本文化については、実は私には独自の社会的
考え方もあるのできょうは、追伸ですこしふれておきます。)


 では 一般的には、男女間の営みにおいて「恥じらい」と
は、と言うことが理解されているのかというと、

たぶん、そのほんとうの意味合いを理解している人は少ない
のではないでしょうか。


 他人の感性の中身をほんとうに知ることは神様にしか出来
ませんが、 

 「感じる」というコンセプトやポイントが 芸術において
もセックスのおいても いかに曖昧でいいかげんなものにな
っているかということからも その事は簡単に推理されてし
まいます。

 この「感じる」という事の大切さの理解を抜きには「恥じ
らい」ということの大切さもけして理解できたりはしないか
らです。

 
 基本的は でもそれは まったく単純なことなんです。

男女の営みの中になぜ「恥じらい」があるのかというと、
それは、たったひとつ、

 本来は最高にすばらしいものだからです。

それにたいして、若い未熟さをそこに感じるのが、自分が
恥ずかしいと感じ入るのが「恥じらい」です。

ほんとうはメチャクチャ簡単な事なのです。

そして、このことから さらに話を進めて言ってしまえば
そのほんとうのすばらしさを知っている成熟した人達は、
どんなに開放的であっても、破廉恥であったりはしないと
いう事でもあるのです。

 話が進みすぎてしまったでしょうか。

「恥じらい」というのは、自分を自覚した謙虚さやその表
現の事でもあるという事です。

そして、破廉恥というのは けして本当に魂(たましい)に
照らして明るい開放性を持ったものではないという事です。


 開放的セックスの精神とかで 開放的であることの大切
さが言われたりしていますが、そのへんが暗いとすべてが
おかしくなってしまいます。

 「感じる」ことの中にのみ、その深さを追っていく本当の
芸術文化の中にのみ、セックスの真の開放の文化がありえ
る事をわかっていただけたでしょうか。

実際には現代社会では、もうすこしだけ複雑な形になってし
まっています。  あえて 破廉恥な表現をわざとしている
つもりのプロの人達が、中途半端にしかセックスを深く考え
ていなかったりするからです。

 でも これですこしは、あの猥褻論争の解説の糸口が、
みなさんにも見えてきたのではないでしょうか。

では、 ここで話を先へと続けてゆきましょう。

 明日は、基本的考えの二本目の柱の話に移ってゆきます。


 つづく

 ((編集後記))

 このようにつづけてきまして、 生涯書きつづけるつも
りだったこのブログですが、 ある壁のうちあたりました。

 考え自体に問題があるわけでも、“白い目で見られる事
”への覚悟ができていないとかいった事でもないのですが、

 もしかしたら、しばし後にこのブログを止めることにな
ってしまいそうです。

 現在思慮中です。    また  書きます。

最終更新日  2006.12.02 07:23:47
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