|
|
|
|
| +HOME +Diary +Profile +Auction +BBS +Bookmarks +Shopping List |
|
バスタブのなかをソファーのうえを気侭に自由低空飛行。 望遠鏡に映るはラブレーからフーコーまで、恐れを知らぬ海賊ども。 サッフォーからクリステヴァまで、自由奔放なあばずれたち。 [全22件]
![]() 昨日書いた Jean de Lery についての授業を受けていると、なんだか眠たくなってきて妄想に走ってしまった。 「文学と旅行」という題で授業をするとすれば、どんなビブリオグラフィになるだろうか?もしくはそういう本を書くとすれば、どんな章立てになるだろうか? キーワードは、「他者へのまなざし」「嫉妬と羨望」「カニバリスム」「ユトピスムとプリミティヴィスム」「逸脱としての旅」「エキゾティシズム」「他者の中の自己」「相対主義」「ピクチャレスク」「異言語との遭遇」などなど。 16世紀:トーマス・モア、アンドレ・テヴェ、ジャン・ド・レリィ、モンテーニュ 17世紀: 18世紀:ヴォルテール『カンディッド』、ディドロ『ブーガンヴィル』、『百科全書』 19世紀:ジュール・ヴェルヌ、ロマンティスムと旅 20世紀:ストロース『悲しき熱帯』、カルヴィーノ『マルコ・ポーロの見えない都市』 ミッシェル・ド・セルトー『歴史のエクリチュール』 グリーンブラット『驚異と占有 ―― 新世界の驚き』(近代初期) ロラン・バルト『表徴の帝国』 サイード『オリエンタリスム』 バーナード・スミス『ヨーロッパ的視と南大西洋』(18世紀) スタフォード『サブスタンスへの旅』 Marouby, Utopie et Primitivisme Racoult, L'Utopie narrative en France et en Angleterre Racoult, Nulle part et ses environs あれ、なんか全然足りないなあ。特に17、19世紀。 方向もめちゃくちゃだし、見通しが悪いだよ。 旅に関してこんな本が面白いよーってのがあったら、教えて下さい。 部屋の外に旅したくなってきた。
![]() 口頭発表の準備のために、ルネサンスの探検家レリィの『ブラジル旅行記』に関する資料を猟渉している。 なかでもMichel Jeanneretの「Lery et Thevet : comment parler d'un monde nouveau?」が面白かった。(レリィに関する論文のアンソロジー『L'encre de Bresil』に収録) タイトルから想像できるように、大航海時代に氾濫した旅行記が「未知の事柄を語る」という未知の経験をとおしてどのような影響をヨーロッパの言説体系に与えたのかを分析している。「未知との遭遇」がどのような文化的衝撃を西洋にもたらしたのかというはなし。 西洋文化がその暴力的な視線によって未知なるものを理解可能なものに「還元=侵略」していったなかで、レリィはその傲慢を免れた希有なる作家として位置づけられる。西洋にも非西洋にも偏ることなく、透明な視線で未知を描写するその筆致は、20世紀にはいって再評価を受け、レヴィ=ストロースに「民俗学のバイブル」と呼ばれることになる。 本論文のなかで卓逸なのは、レリィのそのような視線がじつはカルヴィニスムに支えられているというくだり。原罪を負わされた人間はすべからく不完全であるというペシミスムが、レリィの軽やかな相対主義を根底で支えているのだ。 しかし本稿のクライマックスはその後にある。筆者ジャヌレは「類似」ではなく「相違」にもとづいたレリィの描写スタイルを、フーコーが『言葉と物』のなかで描いたルネサンスの類似的思考の崩壊を予告するものとして位置づけるのだ。 フーコーの名前こそ出てこないが、フーコーのヴォキャブラリーをそのままに使った本稿は、明らかに『言葉と物』の影響下にある。 議論の余地はあるだろうが、面白い論考だった。
![]() 頭痛が引いてから音楽ばかり聴いていた。するとどういうことか今度は首が痛くて回らなくなり、本も読めないからまた音楽ばかり聴いている。 モーツアルトの幻想曲ハ短調k.475は奇妙な曲である。まったくモーツアルトらしからぬ曲である。シューベルトのようでもあるし、ドビュッシーのようでもある。弾き手によってはサティにも聞こえるだろう。そこには楽天的なモーツアルトも「疾走する悲しみ」もない。 楽想やテンポはめまぐるしく変化するが、この曲の全体を貫くのは異様なバランス感である。ハ短調と銘うってあるものの、そこに流れるのはハ短調のミサやレクイエムとおなじく、調性感覚を超越した「無調の音楽」というべきものである。聴き手は短長の彼岸に連れ去られる。時間は止まり感情は息たえ、虚無の中に音だけが立ち上る。 このような歪な曲を聴いていると、モーツアルトにとってロマン派や印象派などという意匠はあまりにも安易すぎる意匠だったのではないだろうか、と思えてくる。彼がショパンやベートーベンのピアノ曲を聴いたらなんと言っただろうか。鼻で笑っただろうか。たちどころに編曲して楽譜屋に持っていったかもしれない。 モーツアルトは一般に古典派の完成者だと言われるが、そんな言葉は信用しないほうがよい。確かに古典派の作曲技法は彼において究め尽くされたが、その円熟の果てに不意に開けたのは誰も見たことのない風景だった。予想もしなかった結果に注文主の貴族たちは戸惑い、宮廷の顰蹙を買ったモーツアルトの評判は零落する。 モーツアルトの生前は彼の音楽を「芸術作品」として鑑賞するものなど誰一人としていなかった。音楽とは晩餐会や舞踏会の道具立てのひとつであり、貴族や金持ちの慰みものにすぎなかった。それをうやうやしく奉りはじたのは、19世紀ロマン派の芸術至上主義の罪である。モーツアルトにとって音楽は生活の糧にほかならず、「自己表現」の手段などではなかった。18世紀人にとって「expression」とは「expression du plaisir」に他ならなかったように。(「expression」という概念の変遷の歴史を編むのも面白いだろう)。音楽の正しい聴き方などあろうはずもないが、モーツアルトの音楽を、モーツアルトという一個人の自己表現として「鑑賞」するのは、あまりにも矮小な聴き方のように思われる。個人的苦悩がどれほどのものか。彼の手紙を読めば、彼が近代芸術家の青白い良心などに悩まされていなかったことは明瞭である。彼を悩ましていたのはむしろ金銭問題や女性関係だった。 ピアノ協奏曲27番はモーツアルトの最晩年に書かれている。健康や経済状態の悪化とはうらはらに、その音はどこまでも明朗で伸びやかである。わたしの持っているのはクララ・ハスキルの59年盤である。そのタッチは優しく簡素で清澄だが、どこまでも深く悲しい。明るいのに悲しいとは不思議なはなしである。これもまた無調の音楽なのかもしれない。 写真は「フィガロの結婚」の自筆楽譜
最近記事を書いてない。 ユーゴー『パリのノートルダム』をあいかわらず読んでいる。今半分ぐらい。ラブレー翁にはここ三日ほどお休みをもらっている。古フランス語は頭が疲れる。そのかわりディドロをはじめた。『ブーガンヴィル旅行記補』。これについてはそのうち書く。 何日かまえに近所の「Musee des lettres et manuscrits」に行った。 ルイ14世からナポレオン、モーツアルトからエディット・ピアフ、ヴェルレーヌからボリス・ヴィアンまで、さまざまな著名人の手紙や自筆原稿を展示していて、100枚ほど写真を撮って帰ってきた。 ラテン語で錬金術について書いたニュートンの手紙が面白かった。奇妙な記号や著名な錬金術師の名前がのっていた。もちろん読めないが。 下はアインシュタインの足し算。相対性理論が生まれる一過程を担った偉大な足し算である。たぶん。E=mc2を探したけど、見つからなかった。 ![]()
![]() 正直言って昨日は頑張って書きすぎた。 丁寧に読んでくれてる人は分かると思うけど、あれはかなり時間がかかっている。読書の記録として始めたのに、読書の時間がどんどん少なくなって、本末転倒である。 だから今日はさらりといく。 カタくなに手抜きでいく。 おお、今日は朝から冴えてる。 こんな日に頑張って書かないなんて、とても贅沢なことだ。 手抜きして余った時間は、手抜きに使おう。 というわけで、「ラブレーのおちんちん」の続きはまた気が向いた時に。 ユーゴー『パリのノートルダム』は本当に面白い。知的、肉体的、観念的、歴史的、批判的、性的、物語的に、あらゆる読書の欲望を満たしてくれる。 ユーゴーは言葉の本来の意味での最後の詩人(poete)だった。 彼は、劇(poesie doramatique)も書いたし詩(poesie lyrique)も書いたし小説(poesie epique)も書いた。本来はすべて韻文で書かれていたこの三ジャンルは、時代とともに散文化、そして作家の役割も分化しはじめる。ユーゴー以降、詩人は詩しか書かなくなるし、小説家は小説に専心するようになる。つまりユーゴーは最後の全方位的作家だった。 詩を書かなかったフローベール、小説を書かなかったボードレール。モデルニテはそこから始まる。ユーゴーの偉大さは同時に19世紀的感性の限界だったのかもしれない。フローベールとボードレールが20世紀を先取りしたのに対して、ユーゴーは本当に19世紀的作家だった。 ユーゴー:政治に脚を突っ込むという大きな過ちを犯した! しかししかし。ユーゴーは面白い。 彼は詩、戯曲、小説のすべてに偉大な作品を残したが、彼の饒舌で脂ぎった言葉は、小説の言葉なのではないか、と『パリのノートルダム』を読みながら思った。私は彼の詩は小説的すぎるように感じるし(「詩的言語」で書かれていない)、枚数の限られた戯曲では彼の魅力は押さえつけられてしまっているように思う。彼は自由に好きなだけ書ける小説において本領を発揮できた。言葉をべたべたと塗り重ね、イメージを反復し増幅させ、凶暴なイマジネーションの波で読者を魅了する。大作が多いのも彼のそんな作風に由来する。 『パリのノートルダム』では、ノートルダムという歴史的建築物にさまざまなイメージが重ねあわせられる。(第三章では40ページにわたって延々とこの寺院の描写が続く。アクションはまったくない。) ノートルダムは異形の者たちを優しく包む子宮であり、それ自身も歴史の中で「知を伝達する」という役割を終えようとする老婆である。「Ceci tuera cala」。 ノートルダムが書物であるという下りには本当に驚いた(p.220 Pocket)。背筋が震えた。ユーゴーの想像力はどこまでも凶暴である。 ユーゴーは本当に面白い。 |一覧| |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||