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2007/09/27 楽天プロフィール Add to Google XML

更新

とりあへず更新します。

Last updated  2007/09/27 08:22:56 AM
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2007/04/30

あてどなく
[ 今宵は陸の上 ]    

更新しときます。


Last updated  2007/04/30 06:57:40 AM
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2006/03/07

部屋の中で旅に出よう
[ 観念史 ]    


昨日書いた Jean de Lery についての授業を受けていると、なんだか眠たくなってきて妄想に走ってしまった。

「文学と旅行」という題で授業をするとすれば、どんなビブリオグラフィになるだろうか?もしくはそういう本を書くとすれば、どんな章立てになるだろうか?

キーワードは、「他者へのまなざし」「嫉妬と羨望」「カニバリスム」「ユトピスムとプリミティヴィスム」「逸脱としての旅」「エキゾティシズム」「他者の中の自己」「相対主義」「ピクチャレスク」「異言語との遭遇」などなど。


16世紀:トーマス・モア、アンドレ・テヴェ、ジャン・ド・レリィ、モンテーニュ
17世紀:
18世紀:ヴォルテール『カンディッド』、ディドロ『ブーガンヴィル』、『百科全書』
19世紀:ジュール・ヴェルヌ、ロマンティスムと旅
20世紀:ストロース『悲しき熱帯』、カルヴィーノ『マルコ・ポーロの見えない都市』

ミッシェル・ド・セルトー『歴史のエクリチュール』
グリーンブラット『驚異と占有 ―― 新世界の驚き』(近代初期)
ロラン・バルト『表徴の帝国』
サイード『オリエンタリスム』
バーナード・スミス『ヨーロッパ的視と南大西洋』(18世紀)
スタフォード『サブスタンスへの旅』
Marouby, Utopie et Primitivisme
Racoult, L'Utopie narrative en France et en Angleterre
Racoult, Nulle part et ses environs

あれ、なんか全然足りないなあ。特に17、19世紀。
方向もめちゃくちゃだし、見通しが悪いだよ。

旅に関してこんな本が面白いよーってのがあったら、教えて下さい。
部屋の外に旅したくなってきた。


Last updated  2006/03/14 05:01:42 AM
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2006/03/03

レリィ『ブラジル旅行記』は時代の敷居に立っているか?
[ 小説(ルネサンス以前) ]    


口頭発表の準備のために、ルネサンスの探検家レリィの『ブラジル旅行記』に関する資料を猟渉している。

なかでもMichel Jeanneretの「Lery et Thevet : comment parler d'un monde nouveau?」が面白かった。(レリィに関する論文のアンソロジー『L'encre de Bresil』に収録)

タイトルから想像できるように、大航海時代に氾濫した旅行記が「未知の事柄を語る」という未知の経験をとおしてどのような影響をヨーロッパの言説体系に与えたのかを分析している。「未知との遭遇」がどのような文化的衝撃を西洋にもたらしたのかというはなし。

西洋文化がその暴力的な視線によって未知なるものを理解可能なものに「還元=侵略」していったなかで、レリィはその傲慢を免れた希有なる作家として位置づけられる。西洋にも非西洋にも偏ることなく、透明な視線で未知を描写するその筆致は、20世紀にはいって再評価を受け、レヴィ=ストロースに「民俗学のバイブル」と呼ばれることになる。

本論文のなかで卓逸なのは、レリィのそのような視線がじつはカルヴィニスムに支えられているというくだり。原罪を負わされた人間はすべからく不完全であるというペシミスムが、レリィの軽やかな相対主義を根底で支えているのだ。

しかし本稿のクライマックスはその後にある。筆者ジャヌレは「類似」ではなく「相違」にもとづいたレリィの描写スタイルを、フーコーが『言葉と物』のなかで描いたルネサンスの類似的思考の崩壊を予告するものとして位置づけるのだ。

フーコーの名前こそ出てこないが、フーコーのヴォキャブラリーをそのままに使った本稿は、明らかに『言葉と物』の影響下にある。

議論の余地はあるだろうが、面白い論考だった。


Last updated  2006/03/04 05:27:32 AM
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2006/02/16

モーツアルト、調性の彼岸
[ 今宵は陸の上 ]    


頭痛が引いてから音楽ばかり聴いていた。するとどういうことか今度は首が痛くて回らなくなり、本も読めないからまた音楽ばかり聴いている。

モーツアルトの幻想曲ハ短調k.475は奇妙な曲である。まったくモーツアルトらしからぬ曲である。シューベルトのようでもあるし、ドビュッシーのようでもある。弾き手によってはサティにも聞こえるだろう。そこには楽天的なモーツアルトも「疾走する悲しみ」もない。

楽想やテンポはめまぐるしく変化するが、この曲の全体を貫くのは異様なバランス感である。ハ短調と銘うってあるものの、そこに流れるのはハ短調のミサやレクイエムとおなじく、調性感覚を超越した「無調の音楽」というべきものである。聴き手は短長の彼岸に連れ去られる。時間は止まり感情は息たえ、虚無の中に音だけが立ち上る。

このような歪な曲を聴いていると、モーツアルトにとってロマン派や印象派などという意匠はあまりにも安易すぎる意匠だったのではないだろうか、と思えてくる。彼がショパンやベートーベンのピアノ曲を聴いたらなんと言っただろうか。鼻で笑っただろうか。たちどころに編曲して楽譜屋に持っていったかもしれない。

モーツアルトは一般に古典派の完成者だと言われるが、そんな言葉は信用しないほうがよい。確かに古典派の作曲技法は彼において究め尽くされたが、その円熟の果てに不意に開けたのは誰も見たことのない風景だった。予想もしなかった結果に注文主の貴族たちは戸惑い、宮廷の顰蹙を買ったモーツアルトの評判は零落する。

モーツアルトの生前は彼の音楽を「芸術作品」として鑑賞するものなど誰一人としていなかった。音楽とは晩餐会や舞踏会の道具立てのひとつであり、貴族や金持ちの慰みものにすぎなかった。それをうやうやしく奉りはじたのは、19世紀ロマン派の芸術至上主義の罪である。モーツアルトにとって音楽は生活の糧にほかならず、「自己表現」の手段などではなかった。18世紀人にとって「expression」とは「expression du plaisir」に他ならなかったように。(「expression」という概念の変遷の歴史を編むのも面白いだろう)。音楽の正しい聴き方などあろうはずもないが、モーツアルトの音楽を、モーツアルトという一個人の自己表現として「鑑賞」するのは、あまりにも矮小な聴き方のように思われる。個人的苦悩がどれほどのものか。彼の手紙を読めば、彼が近代芸術家の青白い良心などに悩まされていなかったことは明瞭である。彼を悩ましていたのはむしろ金銭問題や女性関係だった。

ピアノ協奏曲27番はモーツアルトの最晩年に書かれている。健康や経済状態の悪化とはうらはらに、その音はどこまでも明朗で伸びやかである。わたしの持っているのはクララ・ハスキルの59年盤である。そのタッチは優しく簡素で清澄だが、どこまでも深く悲しい。明るいのに悲しいとは不思議なはなしである。これもまた無調の音楽なのかもしれない。

写真は「フィガロの結婚」の自筆楽譜



Last updated  2006/02/16 06:13:37 PM
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2006/02/13

アインシュタインの足し算
[ 今宵は陸の上 ]    


最近記事を書いてない。

ユーゴー『パリのノートルダム』をあいかわらず読んでいる。今半分ぐらい。ラブレー翁にはここ三日ほどお休みをもらっている。古フランス語は頭が疲れる。そのかわりディドロをはじめた。『ブーガンヴィル旅行記補』。これについてはそのうち書く。

何日かまえに近所の「Musee des lettres et manuscrits」に行った。
ルイ14世からナポレオン、モーツアルトからエディット・ピアフ、ヴェルレーヌからボリス・ヴィアンまで、さまざまな著名人の手紙や自筆原稿を展示していて、100枚ほど写真を撮って帰ってきた。
ラテン語で錬金術について書いたニュートンの手紙が面白かった。奇妙な記号や著名な錬金術師の名前がのっていた。もちろん読めないが。
下はアインシュタインの足し算。相対性理論が生まれる一過程を担った偉大な足し算である。たぶん。E=mc2を探したけど、見つからなかった。


Last updated  2006/02/13 10:30:20 PM
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2006/02/07

『パリのノートルダム』5章 ノートルダムという書物
[ 小説(ロマン主義/現代) ]    


正直言って昨日は頑張って書きすぎた。
丁寧に読んでくれてる人は分かると思うけど、あれはかなり時間がかかっている。読書の記録として始めたのに、読書の時間がどんどん少なくなって、本末転倒である。

だから今日はさらりといく。
カタくなに手抜きでいく。

おお、今日は朝から冴えてる。
こんな日に頑張って書かないなんて、とても贅沢なことだ。
手抜きして余った時間は、手抜きに使おう。

というわけで、「ラブレーのおちんちん」の続きはまた気が向いた時に。

*************


ユーゴー『パリのノートルダム』は本当に面白い。知的、肉体的、観念的、歴史的、批判的、性的、物語的に、あらゆる読書の欲望を満たしてくれる。

ユーゴーは言葉の本来の意味での最後の詩人(poete)だった。
彼は、劇(poesie doramatique)も書いたし詩(poesie lyrique)も書いたし小説(poesie epique)も書いた。本来はすべて韻文で書かれていたこの三ジャンルは、時代とともに散文化、そして作家の役割も分化しはじめる。ユーゴー以降、詩人は詩しか書かなくなるし、小説家は小説に専心するようになる。つまりユーゴーは最後の全方位的作家だった。
詩を書かなかったフローベール、小説を書かなかったボードレール。モデルニテはそこから始まる。ユーゴーの偉大さは同時に19世紀的感性の限界だったのかもしれない。フローベールとボードレールが20世紀を先取りしたのに対して、ユーゴーは本当に19世紀的作家だった。

ユーゴー:政治に脚を突っ込むという大きな過ちを犯した!
                 (フローベール『紋切り型辞典』)


しかししかし。ユーゴーは面白い。
彼は詩、戯曲、小説のすべてに偉大な作品を残したが、彼の饒舌で脂ぎった言葉は、小説の言葉なのではないか、と『パリのノートルダム』を読みながら思った。私は彼の詩は小説的すぎるように感じるし(「詩的言語」で書かれていない)、枚数の限られた戯曲では彼の魅力は押さえつけられてしまっているように思う。彼は自由に好きなだけ書ける小説において本領を発揮できた。言葉をべたべたと塗り重ね、イメージを反復し増幅させ、凶暴なイマジネーションの波で読者を魅了する。大作が多いのも彼のそんな作風に由来する。

『パリのノートルダム』では、ノートルダムという歴史的建築物にさまざまなイメージが重ねあわせられる。(第三章では40ページにわたって延々とこの寺院の描写が続く。アクションはまったくない。)
ノートルダムは異形の者たちを優しく包む子宮であり、それ自身も歴史の中で「知を伝達する」という役割を終えようとする老婆である。「Ceci tuera cala」。
ノートルダムが書物であるという下りには本当に驚いた(p.220 Pocket)。背筋が震えた。ユーゴーの想像力はどこまでも凶暴である。

ユーゴーは本当に面白い。


Last updated  2006/02/07 07:52:58 PM
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2006/02/06

『第三之書』chp.14-18 良心なき正直者
[ 小説(ルネサンス以前) ]    


今日はカタくなに「ちんちん」について語ろうと思う。

この小さな偉大な勇者について、この愛おしき正直者について話そうと思う。

もちろんラブレーに絡めてだけれども、ひょっとしたらチンチンが主役になってしまうかもしれない。

だから、ラブレーには興味あるけど下品な話はきらい、なんていうお子ちゃまは読まない方がいい。チンポも脳味噌も誇大妄想で肥大した健全なる大人のための文学談である。


ちんぽ、ちんちん、珍々、珍棒、剛直、ペニス、男根、陽根、陰茎。

男性器の呼称には無数のヴァリエーションと当て字が存在する。地方によっても大きく変わり、例えば沖縄では男性器も女性器もひとしく「ちんちん」というそうだ。

明晰かつ優雅と名高いフランス語ではどうだろうか?日本語の繊細さに負けず劣らず妙なるな表現が見つかるかもしれない。ラブレーのテクストに入るまえに、そのへんのヴォキャブラリーを基礎知識として確認列挙してみたい。

Penis:世界共通語、ペニース。これさえ知ってれば世界中どの国へ旅行しても安心。フランス語としては比較的新しい(ラテン語から1618年に解剖学のために借用された)。ユイスマンス『彼方』より引用、

Le coeur qui est repute la partie noble de l'homme a la meme forme que le penis qui en est, soi-disant, la partie vile (HUYSMANS, La-bas, t.2, 1891, p.56)
人間のもっとも高貴な部分と名高い「心」は、汚劣と思われているペニスと同じ形をしている。(ユイスマンス『彼方』)

形容詞 Penialもある。、例えばフーコーの『言葉と物』で古典主義時代の終わりを告げるディスクールとして一躍有名になったキュヴィエの『比較解剖学講義』では、

Nous reviendrons sur ces formes en parlant du gland qui compose souvent a lui seul la partie de la verge qui paroit au-dehors, et en decrivant l'os penial dont la figure determine quelquefois celle de la verge (CUVIER, Anat. comp., t.5, 1805, p.69)
陰茎の外部に露出している亀頭、そして陰茎の形を決定するペニスの骨状を記述することによって、その全体像の分析に戻りたいと思う。(キュヴィエ、『比較解剖学講義』)

「ペニアル」とはなかなかいい響きだ。「idee peniale」なんてのもあるかもしれない。感動した時は「Genial!」のかわりに「Penial!」と叫ぶのもいいだろう。ちなみに同じ意味で「penien」という形容詞もある。これは「texte penien」とか「style penien」と使うのに最適だ。


Verge:上のキュヴィエのテクストで出てきた「verge」という言葉もよく使われる。もともとは「細い木の棒」を意味したが、転じて「陰茎」をも意味するようになった。「gland」(どんぐり→亀頭)と同じ運命である。11世紀には使用されていた古い言葉。「陰茎」という意味でも、ファブリオや『狐物語』などによく出てくるので、「penis」よりも歴史ある言葉である。例えば、『狐物語』には「verge pelee」(剥け珍)という表現が見られる。


Membre:英語の「メンバー」に当たるが、この語はそもそも「手足」を意味した(ラテン語「mumbrum=手足」から)。ある母体に属する人間を指すメンバーという意味は、二次的なもの。「membres superieurs」は「前肢」、「membres inferieurs」は「後肢」である。ただし「手足」という意味ではほとんど複数形で使う。これが「le membre」となると、あの脚、もうひとつの脚、ただひとつの脚、というわけで男根を指す。「男の」という形容詞をつけて「membre viril」ともいうが、これは野暮というもの。皆まで云うな。この言葉も「verge」と同じぐらい古い。ゴンクール兄弟より引用、

Se lavait-il la queue. Je m'extasiais sur la beaute de son membre... Enfin, je lui disais qu'il etait l'homme qui baisait, qui petait, qui faisait tout mieux que personne au monde (GONCOURT, Journal, 1892, p. 225)
彼はアレを洗っていた。私はその美しい男根をうっとりと見つめていた。そして彼にこう言うのだ。あなたはセックスもするし、オナラもするし、なんだって誰よりもうまくやってのけるんだから。(ゴンクール、『日記』)


「penis」「verge」「membre」よりやや俗語的な言葉が「bite」と「queue」である。

bite:「栓をする」という意味のノルマン系の言葉から来たらしい。英語の「bite」(咬む)と同じ語源をもつようだが、よく分からない。
queue:「尻尾」とか「列」という意味だが、隠語で男性器を意味する。
baton:「棒」「バトン」の意。「queue」と同じく文脈によっては男性器を指す。

ほかには、

sexe:性器全般。男性器にも女性器にも使う。
zizi:あかちゃん言葉。日本語の「おちんちん」みたいなもの。女性器も指す場合あり。
quequette:子供のおちんちん。響きがかわいい、クエクエット。

ざっとこんなところだろうか。

漢字のもつような視覚的喚起力はないものの、なかなかのバリエーション、連想、響き、色彩である。多くの言葉がメタファーから転用されているのも面白い。

今日は最後にジャン・ジュネの詩を紹介したい。
いろいろなおチンチンが登場するので、今回の〆にぴったりである。
こんなpenialな詩がアレクサンドランで韻を踏んで書かれているところがgenialである。

Apaise ta frayeur et ton angoisse neuve.
Suce mon membre dur comme on suce un glacon.
Mordille tendrement le paf qui bat ta joue,
Baise ma queue enflee, enfonce dans ton cou
Le paquet de ma bite avalee d'un seul coup.
etrangle-toi d'amour, degorge, et fais ta moue!
Adore a deux genoux, comme un poteau sacre,
Mon torse tatoue, adore jusqu'aux larmes
Mon sexe qui se rompt, te frappe mieux qu'une arme,
Adore mon baton qui va te penetrer.
(GENET, Poemes, 1948, p. 18.)
新たなる恐怖と苦悶を静めるんだ。
氷を吸うみたいにオレの硬い男根に吸い付くんだ。
頬をうつ衝撃を優しく咬んでくれ。
デカくなったチンポにキスを、喉の奥まで
一気に性器を飲み込むんだ、まるごと。
愛で息を詰まらせ、吐き出せ、咽せろ!
味わえ、オレの刺青だらけの胸を、
聖なる処刑柱のように膝をついて。
愛でろ、涙で濡れたペニスを、
凶器のようにおまえを打ちのめす。
崇めろ、これからおまえを刺し貫く
このオレの聖根を。

今日もラブレーに辿りつくまえに終わってしまった。「verge rabelaisienne」(ラブレーのチンポ)または「texte penien」(ペニス的テクスト)については、またあした。


Last updated  2006/02/07 12:06:54 AM
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2006/02/05

覚書 「笑い」学のために
[ おんぼろ航海誌 ]    


 たとえば、ひとつの仮定として。

 「笑い」とは認識論的歪みが引き起こす真空状態であるとする。それは思考の痙攣である。人は笑うとき考えはしない。それは理性の発作である。思考を放棄するという思考の運動である。

 「笑い」とはそこにあるものではない。人は笑うことを選ぶのだ。人は、ある事象が笑いの要素を含んでいるから、笑うのではない。そのまえで笑うことを選んだ人のみが笑うのだ。そのまえで「つまずく」ことのできる人のみが笑うのだ。
 「私は無意識に笑う」と思っている人がいるとすれば、それは自己欺瞞である。無意識的な笑いや反射的な笑いなどない。人は笑う直前に笑うことを選んでいる。笑うべきかどうか迷っている。そうして、一瞬のためらいののちに、笑うのだ。みずから地面に倒れ伏すことによって「つまずく」のだ。そのためらいが感知できないほどに自動化されてしまうことはある。それは習慣化された笑いである。しかし、反射的な笑いは存在しない。

 人をつまずかせるものは認識論的歪みである。その断絶、飛躍、不法侵入が人を驚嘆させ、人に問うのである。「おまえは私のまえでどう振る舞うのか?」と。それゆえ笑いはつねに驚きである。驚きにたいするひとつの反応である。理性はつまづくことを選び、思考を停止させることで歪みを回避する。倒れるというかりそめの危機によって真の危機を回避する。予感された転倒…。笑いとは、本質的に保守的で保身的なものである。

 しかし保身的な笑いは、次の攻撃の契機でしかない。

 笑いはそのつまずきの地響きによって、みずから回避した認識論的配置を揺らがしにかかる。笑いは回避することによってひとつの挑戦となる。
 今や「いかにして」笑いは価値転換をもたらすのか、と問わなければならない。地響きはいかなる方法でいかなる範囲まで伝播するのかと。笑うものは笑うことによって「何の」優位に立つのかと。その笑いは何を肯定し、何を否定するのかと。

 しかし、笑いはけっして理性を肯定しはしないだろう。笑いが理性の「つまづき」であるならば。笑いの効力は別の領域に由来する。それは振動や転倒や悲鳴であって、理性ではない。もちろん感情でもない。人間の外に属するものである。理性の運動が理性そのものを遠くへ振り払うのだ。そうして笑いはしばしば自嘲となる。

 それゆえに、笑いの分析とは倒錯した試みとならざるをえない。その倒錯をいかにして引き受けるか。そのための奇妙な戦略は、悲痛な自己弁明を強要するだろう。そうして、そののちに、みずからをどこまで振り払うことができるか。文体のリズムと速度で。

**************

 笑いの五段階。

 1)思考停止
 2)他嘲
 3)自己否定としての自嘲
 4)自己消滅としての笑い、脱中心的笑い
 5)大いなる肯定。真空化した世界に響く非人称の声。


Last updated  2006/02/05 11:23:30 PM
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2006/02/03

丸谷才一『文章読本』 故郷有母秋風涙
[ おんぼろ航海誌 ]    


怠惰に一日をすごす。

枕元の本を一冊づつ取り上げ、ページをぱらぱらとめくっては、次の一冊を手に取る。いつのまにか右に積んであった本がすべて左に移動している。

そうするとまた左から右へ本を移しはじめる。その移動のあいだに本はつかのま宙を彷徨い、ページは撫でられ、文章は読まれる。

しかし読書は口実にすぎない。本を移動させながら睡魔のおとずれをまっている。文章の輪郭がぼやけ、言葉がとけだし、文字が揺らぎはじめるのを待っている。

案の定、いつの間にか寝ていた。


BFで買ってきた丸谷才一『文章読本』を読む。

入門書として平明に書かれながら、示唆に富む部分も多く、本の滞空時間がいささか長かった。

文章の「呼吸」を学べという。「呼吸」とは「口調と呼んでも、調子と呼んでも、メリハリと呼んでも、姿と呼んでも狭すぎる何かで、それらのものの総体にさらに論理とレトリックを打重ねたようなもの」である。この定義は興味深い。というのも、丸谷才一はここで「口調」と「論理」、文体と思考が不可分であることを指摘しているからだ。というよりもこの二つが不可分であるとき、それは「呼吸」と呼ばれる。そしてこの「呼吸」は乱れたり整ったりする。

丸谷才一は「思つたとほりに書け」という文章訓は間違いであるという。文章は文章の型にのっとって書くもので、「文章を書く」という意識を欠いた作文は読むに堪えない。ただひとつ思ったとおりに書く方法は、「書くにふさわしいやうにあらかじめ思ふこと」(p.47)である。そして「書くにふさわしいやうに思ふ」ためには、結局「文章の型を学び、身につけ、その型に合わせて思う」しかないという。つまり文章の型を学ぶことが、思考の型を鍛え上げるのである。

では文章の型は如何にして学べるか。名文を読むこと。口語文の名文。しかしそれよりも文語文の名文。漢文ならばなお好ましい。

漢文は外国語ではない。母国語である。第一、日本語は漢字と漢文によつて育つだので、今さらこの要素を除き去るならば、われわれの言語は風化するしかない。ニーチェの念頭にあつたのはたぶんフランス語で、ギリシア語やラテン語は外国語にはいつていないはずだ。われわれにとつてのギリシア・ラテンに当たるのが漢文だと見立てれば、漢文の擁護はもうそれだけできれいに成立する。(p.38)

日本語が風化して久しい。文語体を闊達にあやつった佐藤春夫や石川淳のような文章はもう誰にも書けない。今の小説家に「文章を学ぶ」という意識のあるものがどれほどいるのだろうか。怠惰のひとことに尽きる。村上龍や阿部和重などはもう健忘症とよんでかまわない。文章の型の風化した今、思考の運動の貧弱なことは当然である。

人は好んで才能を云々したがるけれど、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならない。ある種の学者たちのやうに、せつせと名文とつきあつても書く文章がいつこう冴えないのは、文章の伝統から学び取る態度が間違つているためなのである。(p.21)

学び取る態度どころか、学び取る意志もない。そんな健忘症たちの文章は、ダンスでいえばクラシックバレエを知らないダンサーが踊るコンテンポラリーダンスに似ている。コンセプトばかりが先行して、それに対応する技術や型が不足している。コンセプト自体も、技術や型から生まれるものなのだから、貧弱なこと甚だしい。それと知らずに過去の遺産の猿真似だったりする。

しかし弁護の余地もあるのかもしれない。時代が変わったのだ。誰も美しい文章など求めてはいない。それを尊ぶ鑑賞力がないのだから。その点、わたしもまた同類である。

「文章を学ぶ」などというと珍奇の目でみられる時勢である。美文・名文などという概念自体が失われてしまった。時代は時代にあった文体をもとめる。マクドナルドにはマクドナルディックな文体が必要なのだ。一語一句を琢磨するなどという行為は、大量生産大量消費の時代にはふさわしくない。必要なのはスピード感だ。誰も振り返ったりしないのだから。そんな風潮に一文士がどうやって立ち向かえというのだ。

にゃろめ。
まんせー。
逝ってよし。

言葉がもっとも激しく渦巻いているのは今やネット空間かもしれない。
その言葉の無意味、無償、無駄、無情たること...

思考や生活を規律する文体を失ったとき、人は「無」のなかで「無」を繰り返すしかない。

「すべては無(ナーダ)にして無、かつ無にして無にすぎぬのだ。無にましますわれらの無よ。願わくは御名の無ならんことを・・・」

そこから出発するしかないのかもしれない。
無からは何も生まれないが、無こそわれわれの真の故郷ではないか。

しかし。
それでも。
私は幼児化を断固として拒否する。

*********************

追記

1)写真は藤原定家。題の「故郷有母秋風涙」というのは定家が歌を案ずるまえに必ず誦じたという詩句。ヴァレリーのコーヒー、ジョイスの黒猫にあたる。

2)書いているうちに論点が逸れてしまった。本当は「文章は思考のみならず、生活そのものを規定する精神の背骨である」みたいなことを書きたかったのだが。つまり、生活における「美」とは何かということ。そして歴史、伝統が失われてしまった現在において、文化を作り出すのがいかに困難かということについて。さらには、その可能性について。

3)『文章読本』のなかでもうひとつ、志賀直哉について書かれた下りが面白かった。志賀直哉があの時代にいかにして新しい文体を作り出し、それがどれほどの衝撃を与えたかということ。そこから「思ったように書く」という伝説が捏造されたという話。その志賀直哉の創造力、それを現代において再演、変奏することは可能だろうか?現代に於ける新しい文体とは何か?漢籍という故郷の失われた今...。欧文体の侵略とその可能性。ナーダから抜け出すために。

Last updated  2006/02/04 07:42:31 AM
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