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2010年12月06日
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おはようございます。
高山右近について調べたことをちょっと。
1552年に摂津高山で生まれた高山右近は、キリシタンであった父高山飛騨守(ひだのかみ)の影響を受け少年の頃すでに受洗、洗礼名ジュストと名づけられました。高槻領主であった父から家督を譲受け 高槻の領主となった右近は父や宣教師らとともに領内での布教活動に尽力し多数の信者を得ました。築城においても高い能力を発揮、右近の築いた高槻城は難攻不落の名城と評されました。のちに転封により明石領主となりましたが、天正15年(1587)に豊臣秀吉によって「バテレン追放令」が発令された際、キリスト教の熱心な信者であり、布教活動に大な力を発揮し、また外国人宣教師と密接な関係を持っていた右近は、秀吉から強く棄教を迫られました。しかしそれに応じなかった右近は、領地を没収され大名の地位を追われました。領地を離れ家臣や信者とともに流浪の身となっていた右近は一時小西行長(こにしゆきなが)の領地に匿われます。が、翌年天正16年、前田利家の誘いに応え、豊臣秀吉の許可を得て加賀藩へと赴きました。右近が流浪の身から加賀藩のお抱えとなった蔭には、碑文にもあるように親友細川忠興(ほそかわただぁ
)の口添えがあったとも言われています。この時、利家が右近に申し出た禄高は3万石とも2万5千石とも2万石とも。これは、高禄ぞろいといわれる加賀藩家臣団の中でも高禄であり、右近は大変な重要ポスト、言わば家老扱いで加賀藩に迎え入れられたのです。その後右近は、徳川幕府が発令した後に「キリシタン禁教令」(1615年)によってマニラに追放となるまでの26年間を加賀藩で過ごすこととなります。加賀藩における右近の宗教活動については定かではありませんが、金沢や能登には教会が建てられ、武士・町人を中心に多数のキスリト教信者がいたと言われています。
加賀藩において右近が果たした大きな業績として、小田原攻めや関が原の合戦では戦術顧問としての貢献が大きかったこと、金沢城を攻防性の高い城郭に修築したこと、そして高岡城築城で縄張りを任せられたことが挙げられますが、その中でも高岡城の築城は、右近の最も大きな任務といえるのではないでしょうか。「無二の知友」利長のため、また加賀藩のため精一杯に務めた右近であったと思います。高岡城築城の時、利長は48歳、右近は9歳年上の57歳でした。人生50年とも言われた時代に57歳で携わることとなったこの大事業は、右近にとって「生き抜いてきた人生の証」であったのかも知れません。
以上が、高山右近の駆け足紹介。

慶長3年(1598)利家から家督を譲られた利長は、在位7年目にして早くも義母弟の利常に封を譲り隠居しました。慶長10年(1605)隠居の際し、富山城を居とした利長でしたが、慶長14年(1609)3月、町からおこった火災は立山おろしの強風にあおられ富山城にも及び城は消失。利長は、魚津の仮居へと逃れました。日を待たず4月には、当時「関野原」と呼ばれていた荒地に築城と町作りが始められたのです。
高岡城の築城工事が始まったのは慶長14年(1609)の4月。それから半年あまりを経た9月13日に、利長公は、高岡城に入りました。ですから、わずか200日ほどの工期のうちに高岡城を築き上げたということになります。驚くべきスピードですね。
高岡に残る古文書の中には、利長公の高岡入城をさらに早い8月とするものもあるくらいなのです。
高岡城の建造物は元和元年の一国一城令のよって、破却の運命となりましたが、その広大な土塁や水濠は加賀藩高岡奉行の管理下で引き継がれ、明治以降も高岡古城公園となって、築城当時の形をほぼとどめたまま保存されています。築城当時の石垣の一部や井戸なども残されています。
総面積約21万は、東京ドームの面積(46,755)の約4.5倍です。うち約3割を占めるといわれる深く広いお濠は、満々と水を蓄え今も見るものを圧倒します。高岡の古老の中には、このお壕のことを「たとえ日照りが続いて日本中の水が枯れても古城のお濠は枯れることがない。」「大雨が降ろうが、旱魃になろうが、お濠の水位は一定に保たれている。」「枡形のお濠はたいへんに深く、お光という娘が龍となって水を守っている。」「お壕の深さは尋常なものではない。底は地球の裏側に達していて、昔お壕を掘っている時、『それ以上掘っては危ないぞ』と地下から地球の裏側の人の声がしたそうだ。」と、まことしやかに語って聞かせる方もおられるのです。地下からは、ポルトガル語でも聞こえたのでしょうかね・・・。
お濠の水源は長く謎とされてきましたが、現在では庄川の伏流水が水源であると考えられています。高岡城を描いた古地図の中には、お壕の中で最も深いと言われる枡形壕(ますがたぼり)の中に3つの井戸が書き込まれているものがあるそうです。その「3つの水中井戸」が高岡城のお壕の湧水源なのでしょうか。この枡形壕の水位は、高岡市民会館側の池之端(いけのはた)のお壕より3.7メートルも高くなっているとか。ここにも高山右近の高度な治水技術や井戸掘りの技術が駆使されたのでしょうか。
高岡の町が築かれた関野ケ原は、千保川の氾濫が生み出した河岸段丘と中州の土地でした。あちらこちらから、こんこんと湧き水があふれだして沼地を成し、そこに当時は大河川であった千保川も流れ込むような地形です。地下を流れる伏流水をせき止め高岡城のお濠にプールすることで治水の意味も兼ねていたのではないでしょうか。お濠は、敵の侵入を妨げる城塞の一部であり、また高岡を水害から守る「地下水のダム湖」のような役割を果たしていたのだと思います。
お壕の水は高岡城築城以来、一度も抜取られたことも枯れたこともないのでその全容は解明されませんが、まだまだ秘密はたくさん潜んでいそうですね。古城のお壕はとても神秘的です。
高岡城の城郭の規模は金沢城のなんと二倍です。その築城様式は従来の平城に典型的な輪郭式や渦巻き式を踏襲するものではなく、四角いブロックを二列に長く配置した斬新で独自性の高いもの。他に、このような様式の城郭はないそうです。言うならば、「高山右近様式」とでも名づけるべき独特の設計により作られたわけです。家督を譲り藩主の座を退いた前田利長が隠居城として築いたといわれていますが、本城の金沢城の規模をはるかにしのぐ城を単なる隠居の場として築くはずもなく、有事に備えた城塞として築かれたに他なりません。
特に南東の越後側からの攻撃に対する防衛を第一と考え、先ず城外の中川村に武家屋敷を置いて第一の攻防、次に地球の裏の声が聞こえるという深い壕を置いて第二の攻防、さらに三の丸・明き丸・鍛冶丸を一直線に配置して第三の攻防、またさらにそのうち側にも壕を設けて4段構えの攻防で本丸を防御しました。南西・北西には城下町を設けて敵の侵入を妨げ、城郭には2重の濠と高い石垣を巡らせました。北側の天守閣を設ける予定であった箇所の壕は一重ではあるものの、その幅が特に広く取られており、100メートル近くもあります。また、本丸は城郭の中でも最も高く土盛りされた高台となっていました。お濠の外から天守閣へ火縄銃の弾薬がけっしてとどかぬように設計されていたのです。北東側は濠を設けませんでしたが、これには訳があって、この方角には騎馬や兵の進行を阻む泥沼が広がり天然の砦となっていたのです。
これが、築城の名手高山右近の考案による「深謀の城塞」です。
本丸の北隅には、出っ張りがあります。ここは、天守閣と隅櫓を置くための場所だったそうです。今ではビル街が視界をさえぎっていますが、かつてはここから二上山の守山城や守山の町や伏木湊までを一望に出来たといいます。この場所には現在、乗馬姿の前田利長像が建てられていますので、高岡古城公園をお訪ねの際にはぜひともお立ち寄りください。
着工から利長の入城までは200日。この短期間に高山右近は、類なき斬新な城郭を設計しおおよその完成をさせたと伝えられているのです。神業と言うしかありません。或いは、右近の中には高岡城縄張りの使命を受ける以前から、長年その懐で温めてきた理想とする城郭のプランがあり、すでに綿密なシュミレーションができていたのかもしれませんね。

凄い人でしたね。

おしまい

----- Original Message -----
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To: ??????@nifty.ne.jp>
Sent: Monday, December 06, 2010 9:12 AM
Subject: 6日の日記










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最終更新日  2010年12月08日 09時36分42秒
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