テーマ:顕正会について(238)
カテゴリ:御遺命の戒壇
最近、ヨシさんという顕正会員からコメントをいただいています。
そのヨシさんと、浅井会長が日顕上人のお言葉を改ざんした件で論争になりました。 その際にヨシさんが強調していたのが、「宗門は御遺命に背いた」という顕正会独特の論理です。 しかし、これこそが顕正会の問題に関しての核心なのです。 顕正会は「宗門は御遺命に背いた」と会員に吹聴しており、ゆえに顕正会員は「宗門は御遺命に背いたから間違っている」と思い込んでいます。 顕正会員が日達上人・日顕上人を御法主上人として認めていないのも、「宗門は御遺命に背いたから間違っている」と思い込んでいるからです。 顕正会が五座三座の勤行をしないことや、顕正会の偽本尊の件も、仮に法華講員から指摘されても、「宗門は御遺命に背いたから~」と考え、自分に「顕正会が正しい!」と言い聞かせてしまいます。 その呪縛から顕正会員を解放するには、「宗門は御遺命に背いた」という顕正会の主張を打ち砕かねばなりません。 顕正会は日蓮大聖人の御遺命が「国立戒壇」であると巧みに宣伝し、「宗門は国立戒壇を放棄したから間違っている」と主張しています。 しかし、「顕正会の主張する国立戒壇」は誤りであり、宗門からすでに破折されています。 このブログでも2009/12/23~2010/1/4の記事で、「顕正会の主張する国立戒壇」を破折しましたが、この機会に改めて書いておきます。 国立戒壇については機会があれば、その度に破折したほうがいいようです。 かつて、日蓮正宗では「国立戒壇」を主張していた時期がありました。 しかし、「顕正会の主張する国立戒壇」とは、同じ「国立戒壇」という名称を使用していても意味が異なったのです。 それでは、具体的にはどこが異なったのでしょうか? 顕正会では御遺命の戒壇を建立すべき場所は「天母山」であると主張していますが、戒壇建立の地は「天母山」ではなく富士大石寺なのです。 現在の顕正会では御遺命の戒壇を建立すべき場所は、富士大石寺から東へ4キロ離れた所にあるという「天生原(天母山)」であると主張しています。 大石寺から東へ4キロ離れた所にあるというこの「天生原」のことを、顕正会では以下のように「天母山」であると主張しています。 「天母山と天生原とどう違うのか。天生原の中心にある小高い丘を天母山というのである。」 (『日蓮大聖人の仏法 改訂版』230ページ) 「では細井管長はどのように『天生原』(この中心地が『天母山』)を否定したのかといえば、」 (『正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む』167ページ) しかし、御遺命の戒壇を建立すべき場所は、天母山ではなく富士大石寺なのです。 第26世日寛上人は、『六巻抄』の『文底秘沈抄』において、 「本門戒壇の本尊所住の処、豈戒壇建立の霊地に非ずや。」 (『六巻抄 顕正会版』64ページ) 「本門の本尊所住の処に応に本門の戒壇を起つべし、」 (『六巻抄 顕正会版』69ページ) と仰せられ、本門戒壇の大御本尊がまします所に御遺命の戒壇を建立すべしと御指南されています。 本門戒壇の大御本尊のまします所が大石寺であるのは、言うまでもないことです。 さらに、顕正会も妙信講の時に、御遺命の戒壇を建立すべき場所は、富士大石寺(大石ヶ原)であると述べているのです。 「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。」 (『富士』昭和39年9月号 23ページ) この記述は、大石寺は御遺命の戒壇を建立する地ではないと言い張る、現在の顕正会の主張とは全く違うものです。 そして、顕正会の主張する「天母山戒壇説」ですが、この説は誤りであり、「天母山戒壇説」の根拠はことごとく崩壊しているのです。 顕正会では「天母山戒壇説」についての歴史的検証を全く無視しており、誤った「天母山戒壇説」を顕正会員に教える浅井会長は、もはやまともな指導者ではありません。 「天母山戒壇説」についての詳細は、すでに2009/12/27の記事で書いていますので、そちらを参照して下さい。 あまり細かく書いて、かえって理解しにくくなってもいけないので、とりあえず一旦ここで筆を置くことにします。 ・2009/12/27の記事 http://plz.rakuten.co.jp/arinokingo/diary/?act=view&d_date=2009-12-27&d_seq=0&sact=c&lp=1&c2=803276210 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[御遺命の戒壇] カテゴリの最新記事
過去の記事では国立戒壇は“田中智学の真似”と言って顕正会を批判していましたが、今回の記事では宗門でも言っていたと。なんだか変ですね・・・。
そうです、もともと国立戒壇は富士の流義ですから。 田中智学は富士の流義を盗み、国立戒壇を自身の教義のごとく宣伝したのです。 戒壇建立の場所ですが、 日興上人の「大石寺大坊棟札」には「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」と記され、この相伝にもとずいて日寛上人は「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。御相承を引いて云わく『日蓮一期の弘法 乃至 国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と云々」(報恩抄文段)とお示し下されています。 さらに日応上人は御宝蔵説法本において「富士山の麓に天母ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって・・・」とあります。 これらをどのように解釈したらよいのでしょうか? (2011年02月08日 20時09分55秒)
改めて過去の記事をを読ませて頂きましたところ「大石寺大坊棟札」偽作説が書かれていましたね。それならばなぜ日寛上人はその相伝にもとずいて報恩抄文段を著されたのでしょう?日寛上人ほどの御方が「大石寺大坊棟札」の真偽が分からなかったとは思えませんが?
ついでにもうひとつ、顕正会版の六巻抄を用いて顕正会の言う戒壇建立の地の間違いを指摘するのは変ですね。顕正会の教学が間違っているというのなら顕正会版の六巻抄も間違ってるかもしれませんよ。 (2011年02月08日 20時55分43秒)
コメントを頂きましたが、ヨシさんは私のブログをよく読まずにコメントを書いている感じがしますね。
いくつか質問を頂きましたが、これらの質問も私の書いた記事をよく読めば分かると思うのですが…。 質問の内容については、後ほど改めて回答させて頂きたいと思います。 (2011年02月11日 00時21分10秒)
>コメントを頂きましたが、ヨシさんは私のブログをよく読まずにコメントを書いている感じがしますね。
過去の記事を隅から隅まで全て読んでからコメントを書けというのは無理というもの。 ブログを書いてコメントを受け付けている以上、その都度コメントに対しての質問には答えましょう。それが面倒くさいならブログなどやめるべきでしょう。 そうそう、ついでなので書かせてもらいますが、この楽天ブログのスポンサーに“創価学会員の墓地”というのがありますが、その辺はどのようにお考えですか?自身のブログが間接的に創価学会の宣伝をしてしまっているというのは変ですよね?(笑) (2011年02月11日 14時20分00秒)
ヨシさん、慌てなくても大丈夫ですよ。ありのさんは逃げるような人ではありません。ありのさんの実力でしたら、速攻でヨシさんを斬り捨てることなど朝飯前です。ただ日蓮正宗信徒として間違った回答をすべきでは無いと、御住職様に全て確認を取られているのでしょう。
彼は私と決着をつける為に大石寺まで乗り込んできた男です。 後にも先にもこれだけ熱い男はお二人しかおりません。 安心して首を洗って待っていて下さいね。 (2011年02月11日 17時15分56秒)
>過去の記事では国立戒壇は“田中智学の真似”と言って顕正会を批判していましたが、今回の記事では宗門でも言っていたと。なんだか変ですね・・・。
私は「国立戒壇は“田中智学の真似”」とは書いていないと思いますが…。 何年何月何日の記事で書いてましたか? 2009/12/23と2009/12/25に、国立戒壇について書いた記事を次のコメントに掲載します。 (2011年02月11日 23時31分35秒)
実は、「国立戒壇」という名称を創唱し、初めて使用したのは、国柱会の田中智学です。
田中智学は、日蓮正宗の教義である御遺命の戒壇に影響を受け、明治35年の『本化妙宗式目』において、「国立戒壇」という名称を初めて使用しました。 田中智学は国粋主義者で、田中の唱える「国立戒壇」という名称は、明治憲法下の天皇主権の国家体制を背景とし、国粋主義者の共感を得て、広く用いられるようになりました。 宗門では世間に弘まったこの「国立戒壇」という名称を、あえて借りて御遺命の戒壇の名称としました。 御歴代上人で「国立戒壇」という名称を用いられたのは、日亨上人・日昇上人・日淳上人・日達上人の四上人のみで、この四上人以外で「国立戒壇」という名称を使用された方はおられません。 第58世日柱上人以前の御歴代上人の御著述には、「国立戒壇」という名称さえ存在しないのです。 では、なぜ宗門は「国立戒壇」という名称の使用を止めたのでしょうか? 戦後になると天皇主権の国家体制が崩壊し、国民主権の国家体制、すなわち民主主義が定着しました。 民主主義国家となった現在の日本で「国立戒壇」の名称を使用し布教すれば、国家主義的な仏教を弘めるような印象を抱かせ、かえって余計な誤解を招く可能性があります。 このような事情をふまえ、昭和45年に日達上人は「国立戒壇」という名称を使用しないことにすると御指南されたのです。 こうした経緯を弁えずに、顕正会が「大正以降の歴代上人は『国立戒壇』の御遺命を叫ばれたのに、第66世細井日達上人は『国立戒壇』を捨てた」などと言うのは、素人騙しの議論に過ぎません。 また、「御歴代四上人の主張された国立戒壇」と「顕正会の主張する国立戒壇」は、同じ「国立戒壇」という名称を使用していても意味は異なるのです。 (2011年02月12日 00時08分21秒)
わかりやすく整理してみると以下のようになります。
日蓮正宗の御遺命の戒壇の教義 ↓ 国柱会の田中智学が日蓮正宗の御遺命の戒壇に大きな影響を受け、「国立戒壇」という名称を創り主張する。 ↓ 「国立戒壇」という名称が戦前の国家体制を背景とし、広く用いられる。 ↓ 宗門が世間に弘まった「国立戒壇」という名称を、あえて借りて御遺命の戒壇の名称とする。 >そうです、もともと国立戒壇は富士の流義ですから。 田中智学は富士の流義を盗み、国立戒壇を自身の教義のごとく宣伝したのです。 御遺命の戒壇の教義は、言うまでもなく日蓮正宗のものです。 ただ、「国立戒壇」という名称は、国柱会の田中智学の創ったものなんです。 「国立戒壇」という名称に囚われて、事の本質を見失ってはいけません。 (2011年02月12日 01時00分55秒)
戒壇建立の場所について、ヨシさんから天生原と記されている文証があるがどう解釈するのか?という質問がありました。
今回の記事で書いたように、戒壇建立の地は富士大石寺です。 ただ、天生原は富士山の南麓を指す地名であり、富士大石寺も天生原に含まれるのです。 ただ、今回の記事をよく読んで頂ければわかりますが、顕正会の主張する天生原は天母山という特定の地点を指していて、顕正会は「天生原は明らかに大石寺とは異なる場所にある」と言ってますから、戒壇建立の地が大石寺であるという本来の教義と矛盾するのです。 そもそも、顕正会(妙信講)も戒壇建立の地が大石寺であると主張していました。 「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。」 (『富士』昭和39年9月号 23ページ) この記述は、大石寺は御遺命の戒壇を建立する地ではないと言い張る、現在の顕正会の主張とは全く違うものですね。 (2011年02月12日 02時19分10秒)
>改めて過去の記事をを読ませて頂きましたところ「大石寺大坊棟札」偽作説が書かれていましたね。それならばなぜ日寛上人はその相伝にもとずいて報恩抄文段を著されたのでしょう?日寛上人ほどの御方が「大石寺大坊棟札」の真偽が分からなかったとは思えませんが?
これについては、「大石寺大坊棟札」偽作説を書いた同じ2009/12/27の記事に書いてあるのですが、読まなかったのですか? 今回の記事の本文にも、2009/12/27の記事のアドレスが貼ってあります。 そもそも、「天母山戒壇説」は京都の要法寺から入ってきた教義であり、富士大石寺には元々なかったものなのです。 大聖人の御入滅から約200年後、要法寺の僧侶であった左京日教が、富士大石寺に来て日蓮正宗に帰依し、この富士を慕われて、初めて「天母原」ということを言ったのです。 この日教から80年後、要法寺の日辰が『御書抄・報恩抄下』を著し、その中で、「天生山」という名前を作り、初めて「天生山に戒壇建立」という説を書きました。 その源は前述の日教にあり、これが「天母山戒壇説」の生まれた経緯なのです。 したがって、「天母山戒壇説」は、もともと日蓮正宗の教義にあったものではなく、要法寺系の日教・日辰によって始まった説なのです。 しかし、この日辰の時代以降、宗門では、15世日昌上人より23世日啓上人に至るまで、要法寺を出身とする御歴代上人が続き、この時期に日辰の『御書抄』をはじめ要法寺の文献の大半が大石寺へ移されました。 こうした経緯によって、次第に要法寺の日辰の「天母山戒壇説」が大石寺に入ってきたのです。 そういう考えが残って、富士大石寺でも後に「天母原」という名前が大いに出てきたのであり、本当の古い時にはそういう名前はありません。 (2011年02月12日 14時03分30秒)
>ついでにもうひとつ、顕正会版の六巻抄を用いて顕正会の言う戒壇建立の地の間違いを指摘するのは変ですね。顕正会の教学が間違っているというのなら顕正会版の六巻抄も間違ってるかもしれませんよ。
顕正会版の六巻抄が間違っているという指摘は、現段階ではないと思います。 なぜ、わざわざ顕正会版の六巻抄を引用したのかというと、それは顕正会員の「逃げ道」を防ぐためです。 宗門の書籍を引用して破折した場合、相手の顕正会員は「御遺命に背いた宗門の書籍なんて信用できない!」とか、「宗門に都合のいいところだけを切り文している!」とか、屁理屈を言ってくる可能性があります。 しかし、最初から顕正会の書籍を引用して破折する場合は、こうした顕正会員の屁理屈や言い訳を予め封じることができます。 顕正会員は「顕正会は絶対に正しい!」と思い込んでいますから、顕正会の書籍や浅井氏の言葉を否定することはできません。 また、「切り文だ!」と言われても、「顕正会の書籍に書いてあるんだから、前後関係は自分で確かめて下さい」と言えば済むのです。 それにしても、ヨシさんは日顕上人のお言葉の改ざんに関しては、前回の記事のコメントで、 「浅井先生は決して誤魔化すようなことはしていません」 と発言してましたね。 しかし、今回は、 「顕正会版の六巻抄も間違ってるかもしれませんよ」 と言ってますが、日顕上人のお言葉の改ざんが否定しようもない事実だったと知ったからでしょうか? (2011年02月12日 17時24分02秒)
>この楽天ブログのスポンサーに“創価学会員の墓地”というのがありますが、その辺はどのようにお考えですか?
楽天ブログを書いているのは、顕正会員も同じですが? 嘘だと言うのなら、顕正会員の楽天ブログのアドレスをここに貼りましょうか? 私は顕正会に入信した時、ちょうど仏教系の大学に在学していましたが、3隊の幹部が言うには、 「仏教系の大学だからって辞める必要はないし、『交通安全○○神社』っていうお守りみたいなステッカーが貼ってあるバスに乗っても問題ないよ」 と言ってましたけど? (2011年02月12日 19時14分23秒)
>実は、「国立戒壇」という名称を創唱し、初めて使用したのは、国柱会の田中智学です。
田中智学は、日蓮正宗の教義である御遺命の戒壇に影響を受け、明治35年の『本化妙宗式目』において、「国立戒壇」という名称を初めて使用しました・・・ ↑それで、宗門、学会、顕正会が国立戒壇という名称を使うようになった、ということは簡単に言えば“真似”でしょ。 >「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。」 (『富士』昭和39年9月号 23ページ) ↑これ、本当は前後の文があるのではありませんか? 「一宇の道場を建立されたのである」 これでは何の道場を建立したのかわかりませんが?日興上人が「建立された」と過去形なのですから本門戒壇では無い事は間違いないでしょう。 >「浅井先生は決して誤魔化すようなことはしていません」 と発言してましたね。 しかし、今回は、 「顕正会版の六巻抄も間違ってるかもしれませんよ」 と言ってますが、日顕上人のお言葉の改ざんが否定しようもない事実だったと知ったからでしょうか? ↑いいえ、ただ、そちらの立場として顕正会版を引用するのはおかしいと思っただけです。浅井先生の教学は完璧ですよ。 >楽天ブログを書いているのは、顕正会員も同じですが? 嘘だと言うのなら、顕正会員の楽天ブログのアドレスをここに貼りましょうか? ↑ぜひ貼ってください。一度見てみたいです。 ちなみ私もブログで日常の出来事を書いてますが、たまたま学会批判めいた記事を書いたらスポンサーのところに学会員の墓地の宣伝が載ってしまいました。それ以来創価学会とは書かずにS学会と書いています。 (2011年02月12日 20時49分14秒)
>「仏教系の大学だからって辞める必要はないし、『交通安全○○神社』っていうお守りみたいなステッカーが貼ってあるバスに乗っても問題ないよ」
↑それは常識のレベルですから。けれど自分のブログに創価学会系の宣伝が載ってしまうのは考え物ですね。 (2011年02月12日 20時55分22秒)
コメントありがとうございました。
>彼は私と決着をつける為に大石寺まで乗り込んできた男です。 後にも先にもこれだけ熱い男はお二人しかおりません。 二人? 私以外にも富士大石寺に乗り込んだ方がいるのですか? 私は顕正会員の時にトチロ~さんとは直接会っての「法論」を二回していますが、最初から勝てる相手ではないのはわかっていました。 一回目は負けて恥を晒したくなかったので、とにかく破折されないように心掛けました。 論争を避け、トチロ~さんから宗門の主張を詳しく聞くという卑怯な姿勢に終始しました。 ただ、二回目の法論で富士大石寺に乗り込んだ時は、乗り込む前から吹っ切れたものがありました。 この時は別に法論において破折されようとも構いませんでした。 この時の私には、法論の勝敗などもうどうでもよかったのです。 私はただ「真実」が、顕正会と宗門のどちらが正しいのかが知りたかったのです。 大石寺でトチロ~さんに改めて話されてから、顕正会が間違っていることがわかり、大石寺から帰った翌日には日蓮正宗に入信しました。 トチロ~さんには大変感謝しています。 ありがとうございましたm(__)m (2011年02月14日 13時50分50秒)
顕正会員の書いている楽天ブログのアドレスを以下に貼っておきますね。
・日蓮によりて日本国の有無はあるべし http://plaza.rakuten.co.jp/fukuchandai/ ・のほほんさんの楽天ブログ http://plaza.rakuten.co.jp/nohohonnohohon/ それから、楽天ブログではありませんが、同じく顕正会員の書いているブログでオススメのものがあります。 ・巌虎独白 http://white.ap.teacup.com/ganko/ 顕正会員の巌虎さんが書いているブログで、顕正会に対しては是々非々の立場であり、批判すべきところは批判するという貴重な顕正会員のブログです。 (2011年02月14日 14時07分32秒)
凄い人が一人いるんです。
大晦日に大石寺で山内の御僧侶を二人相手にしてやりあった方が・・・。 日付が変わる(年が明ける)直前で水入りになりましたが・・・。 その彼も今では立派な法華講員です。 大晦日のまったりとした時間に、挑む方も挑む方ですが、受けてたつ方も相当なもんです。(^^) それを観戦していた私も、かなりな物好きですね。 (2011年02月15日 04時41分12秒)
>>「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。」
(『富士』昭和39年9月号 23ページ) >↑これ、本当は前後の文があるのではありませんか? 「一宇の道場を建立されたのである」 これでは何の道場を建立したのかわかりませんが?日興上人が「建立された」と過去形なのですから本門戒壇では無い事は間違いないでしょう。 上記のヨシさんの質問に対しては、昨夜に更新した新たな記事において返答しました。 それから、私のブログに創価学会系の宣伝が載っていると、ヨシさんから指摘を受けたので昨夜PCから確認してみました。 (携帯版サイトでは表示されていない) 私は普段は携帯版サイトからチェックしているので、「創価学会系の宣伝なんて載っていたかな?」と思い見てみましたが、目立たない場所に小さい文字で学会の仏壇屋と思われるサイトへのリンクがありました。 私は今までの記事のキーワードで、「創価学会」という文字を入れていたので、創価学会系のサイトへのリンクが出るのだと思います。 「創価学会」という人気?のキーワードが入っていれば、アクセス数は増えるかもしれませんが、ヨシさんの言うようにこれはやはり考え物です。 これからは「創価学会」というキーワードは入力しないようにします。 (2011年02月15日 21時20分51秒)
日亨上人曰く
「この戒壇に事・義の二あり。国立戒壇は事なり、是れ未来一天広布の時の勅命によるべきがゆえに。その時に至るまでは、本寺の本門戒壇本尊安置の宝蔵を以て暫くこれに充て、授戒・説戒等の儀を執行す、すなわち義として戒壇に当る」 本門戒壇の「事」と「義」の定義はこれを見ればはっきりと分かります。日淳上人様まではどの上人様も同じ定義で仰っておられます。 細井・阿部の二代になって、突然その定義を変更するのは明らかにおかしいですよね。 (2011年08月26日 00時57分27秒)
MKTさん、はじめまして。
>本門戒壇の「事」と「義」の定義はこれを見ればはっきりと分かります。日淳上人様まではどの上人様も同じ定義で仰っておられます。 「これを見ればはっきりと分かる」とのことですが、MKTさんの引用されたこの日亨上人の御文の出典はどの本ですか? 出典が書かれていません。 >「この戒壇に事・義の二あり。国立戒壇は事なり、是れ未来一天広布の時の勅命によるべきがゆえに。その時に至るまでは、本寺の本門戒壇本尊安置の宝蔵を以て暫くこれに充て、授戒・説戒等の儀を執行す、すなわち義として戒壇に当る」 (2011年08月26日 22時54分05秒)
10日が経ちましたが、MKTさんより引用した日亨上人の御文の出典の回答はまだありません。
ただし、似たような御文が顕正会の折伏理論書の129ページに載ってます。 「また日亨上人は 『この戒壇について、事相にあらわるる戒壇堂と、義理の上で戒壇とも思えるの二つがある。事相の堂は将来一天広布の時に、勅命で富士山下に建ち、上は皇帝より下は万民にいたるまで授戒すべき所であるが、それまでは、本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義に当たるのである。末寺の道場も信徒の仏間も、軽くは各々その義をもっていると云える』(正宗綱要)と。」 こちらの御文はきちんと出典が書かれてますね。 MKTさんの引用した日亨上人の御文についてですが、私は見たことがありません。 私が知らないだけかもしれませんが、このブログを見ている方で出典がわかる方はいますか? (2011年09月05日 22時47分11秒)
さて、半月以上が経ちましたが、MKTさんは自身が引用した日亨上人の御文について、出典を答えることができないようです。
ただ、MKTさんが言いたかったことは明確であり、 「事の戒壇は御遺命の戒壇であり、広布以前に戒壇の大御本尊がまします処は、その意義が事の戒壇に通ずるが故に義の戒壇である」 ということだと思います。 これは顕正会の主張と同じです。 しかし、これは事相に約して、「事」と「義」を立て分けた場合の話です。 つまり、戒壇の大御本尊に対する「義」とのご表現は、御遺命の戒壇を「事」とし、事相に約しての比較相対による「義」とのご表現なのです。 しかし、事相に約しての立て分けが全てではありません。 法体に約して立て分ければ、戒壇の大御本尊まします処は事の戒壇であり、義の戒壇は戒壇の大御本尊の御写しである御本尊を安置する道場なのです。 六十世日開上人も御法蔵説法において、以下のように、戒壇の大御本尊まします処は事の戒壇と仰せられています。 「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして、若し此の霊場に一度も詣でん輩は…」 (『日蓮大聖人の仏法 改訂版』196ページ) また、関連した記事を過去に掲載しているので、よかったらそちらも参考にして下さい。 http://plz.rakuten.co.jp/arinokingo/diary/?act=view& ;d_date=2010-10-12&d_seq=0&sact=c&lp=0&c2=803276210 (2011年09月13日 22時36分41秒)
一つ前のコメントに書いた関連記事のアドレスが、うまく表示されないので、こちらのアドレスを書いておきます。
このアドレスでアクセスしてみて下さい。 http://plaza.rakuten.co.jp/arinokingo/diary/201010120000/ (2011年09月14日 18時36分10秒) |
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