テーマ:顕正会について(238)
カテゴリ:御遺命の戒壇
最近、「とある顕正会員」と名乗る現役顕正会員が、戒壇建立の場所について色々とコメントを残していきました。
戒壇建立の場所については、2009/12/27の記事ですでに書いてますが、これを機に再度掲載したいと思います。 以下に2009/12/27の記事を引用しました。 少しややこしい内容かもしれませんが、顕正会の主張する天生原は天母山という特定の地点を指しているというのがポイントです。 /////////// 「御歴代四上人の主張された国立戒壇」と「顕正会の主張する国立戒壇」は、同じ「国立戒壇」という名称を使用していても意味が異なりますが、具体的にはどこが異なるのでしょうか? 現在の顕正会では御遺命の戒壇を建立すべき場所は、富士大石寺から東へ4キロ離れた所にあるという「天生原(天母山)」であると主張しています。 大石寺から東へ4キロ離れた所にあるというこの「天生原」のことを、顕正会では以下のように「天母山」であると主張しています。 「天母山と天生原とどう違うのか。天生原の中心にある小高い丘を天母山というのである。」 (『日蓮大聖人の仏法 改訂版』230ページ) 「では細井管長はどのように『天生原』(この中心地が『天母山』)を否定したのかといえば、」 (『正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む』167ページ) しかし、御遺命の戒壇を建立すべき場所は、天母山ではなく富士大石寺なのです。 第26世日寛上人は、『六巻抄』の『文底秘沈抄』において、 「本門戒壇の本尊所住の処、豈戒壇建立の霊地に非ずや。」 (『六巻抄 顕正会版』64ページ) 「本門の本尊所住の処に応に本門の戒壇を起つべし、」 (『六巻抄 顕正会版』69ページ) と仰せられ、本門戒壇の大御本尊がまします所に御遺命の戒壇を建立すべしと御指南されています。 本門戒壇の大御本尊のまします所が大石寺であるのは、言うまでもないことです。 さらに、顕正会も妙信講の時に、御遺命の戒壇を建立すべき場所は、富士大石寺(大石ヶ原)であると述べているのです。 「下条より約半里ほど離れた北方に大石ヶ原という茫々たる平原がある。後には富士を背負い、前には洋々たる駿河湾をのぞみ、誠に絶景の地であり、日興上人はこの地こそ、本門戒壇建立の地としての最適地と決められ、ここに一宇の道場を建立されたのである。」 (『富士』昭和39年9月号 23ページ) この記述は、大石寺は御遺命の戒壇を建立する地ではないと言い張る、現在の顕正会の主張とは全く違うものです。 そして、顕正会の主張する「天母山戒壇説」ですが、この説は誤りであり、「天母山戒壇説」の根拠はことごとく崩壊しているのです。 顕正会では、「天母山戒壇説」を裏付ける文証として、日興上人の御筆といわれていた「大坊棟札」の裏書きを挙げています。 「すなわち大坊棟札に『国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり』と。」 (『日蓮大聖人の仏法 改訂版』132ページ) しかし、「天生原」という地名が初めて出てくる「大坊棟札」の裏書きが、実は日興上人の御筆などではなく、後世の偽作であることが、第59世日亨上人と日達上人の御指南により、すでに明らかになっているのです。 「大坊棟札」の裏書きが後世の偽作であるという証拠に、棟札というからには富士大石寺大坊の上棟の時に入れるはずなのに、裏書きの日付は、大坊の完成から半年も後になっているのです。 さらに、裏書きの文字の書体も、「大坊棟札」の日付より7年後に誕生した尊円法親王の書風が、さらに江戸時代になって変形した「御家流」と呼ばれるものなのです。 しかも、日興上人の御署名の「興」の字体が間違っており、その後に必ず書き加えるべき花押(御判)すらないのです。 では、「天母山戒壇説」はどのようにして生まれたのでしょうか? 「天母山戒壇説」は、京都の要法寺から入ってきた教義であり、富士大石寺には元々なかったものなのです。 大聖人の御入滅から約200年後、要法寺の僧侶であった左京日教が、富士大石寺に来て日蓮正宗に帰依し、その数年後に著した『類聚翰集私』という書物に、 「天母原に六万坊を立て、法華本門の戒壇を立つべきなり」 (『富士宗学要集 二巻』323ページ) と、「天母山」とは記していませんが、「天母原」云々と記しており、初めて「天母原」という名前が出てくるのです。 しかし、この『類聚翰集私』という書物は、日教が富士大石寺で学んだ教義だけでなく、日教自身の偏った主観も述べられているため、注意が必要な書物であり、特にこの「天母原」云々の箇所については、日亨上人が、 「この日教の意を見るべし。天台の円融の法義におぼれ(中略)まじめな後人を誤らすこと大なり。ことに空談にもせよ、天母原の寸地に、いかに重畳しても、摩天楼にしても、六万の坊舎が建設せらるべきや」 (『富士日興上人詳伝』268ページ) と仰せられ、六万もの坊舎が建つ程の広大な場所はどこにも存在しないとして、明確に日教の主観による偏った説であることを指摘されているのです。 この日教の説から80年後、要法寺の日辰が『御書抄・報恩抄下』を著し、その中で、 「富士山の西南に山あり。名をば天生山と号す。此の上において本門事の本堂・御影堂を建立し、岩本坂において仁王門を立て、六万坊を建立したもうべき時、彼の山において戒壇院を建立して」 と述べ、「天生山」という名前を作り、初めて「天生山に戒壇建立」という説を書きました。 その源は前述の日教の『類聚翰集私』にあり、これが「天母山戒壇説」の生まれた経緯なのです。 したがって、「天母山戒壇説」は、もともと日蓮正宗の教義にあったものではなく、要法寺系の日教・日辰によって始まった説なのです。 しかし、この日辰の時代以降、宗門では、15世日昌上人より23世日啓上人に至るまで、要法寺を出身とする御歴代上人が続き、この時期に日辰の『御書抄』をはじめ要法寺の文献の大半が大石寺へ移されました。 こうした経緯によって、次第に要法寺の日辰の「天母山戒壇説」が大石寺に入ってきたのです。 こうした歴史的検証を全く無視して、日辰より後代の「天母山戒壇説」を用いた文献や、後世の偽作であることが明白な「大坊棟札」の裏書きを、「天母山戒壇説」の裏付けの文証として顕正会員に教える浅井会長は、もはやまともな指導者ではありません。 (以上、引用終了) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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