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March 2, 2007 楽天プロフィール Add to Google XML

『街角の住人たち』(2)
[ 連載小説 ]    

▲最初から読む▲    Ҥ褳『街角の入り口』から読む­

 『逢(お)う魔が時』という言葉がある。
 元々は『大禍時(おおまがとき)』が転じた言葉といわれているが、日が暮れかかり周りが薄ぼんやりとしか見えなくなった時、一番大きな禍が起こりやすい時間帯という意味だ。
 夕日の残照が目の前ののっぺりとしたビルの一片を紅く染め上げ、全てのものを焼きつくし闇に変えてしまおうというその瞬間、確かに何か得体の知れない魔に遭遇しそうな気が起こる。
 いつもは真っ暗になってしか通らないその道を元谷は落ち着かない面持ちで足早に歩いていた。
 普段は車が時折通り過ぎる以外、全く人通りのない界隈に、突如として前方のビルの横から多人数の人々が現れた。
 その人たちは一同に無言のまま元谷の方に向ってくる。
 一見団体のようにも見えたその人たちは、バラバラに広がって元谷の脇を通り過ぎる。
 もしかしたらそれは別に妙な光景ではなかったかもしれない。
 そう、その人たちが出てきた先が定時に終わる会社か、電車が到着したばかりの駅ならば…
 駅…そういえば前方のビルは昔モノレールの駅舎だった。
 元谷がまだ物心が付く頃までは走っていたらしいが、赤ん坊の頃乗ったことがあると両親から聞かされたことはあったが記憶にはない。
 開業から僅か10年足らずで廃線になってしまったそのモノレールは、幻のモノレールと市民から呼ばれていた。
 前方のビルの3、4階部分が駅になっていて、モノレールの軌道の一部分がビルから約100mほど今も延びている。
 マンションになっているそのビルの上階にはまだ住人たちが生活してるのだろう。
 しかし不思議なことに、元谷はそのビルから人が出入りしてる様子を見たことがなかった。
 元々人通りの少ないこの通りだけに、今日のこの突然の人の群れの出現を不可思議に感じたのも無理はない。
 また時間帯が魔と出逢ってしまいそうな黄昏時であったことも、その奇妙さに輪をかけてしまったのかもしれない。
 元谷はそう自分に言い聞かせて、もういつものようにひっそりと人気のなくなったビルの横を通り過ぎた。
 辺りはもう夜の帳が下り切っていた。

To be continued...


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最終更新日  March 19, 2007 16:27:01
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March 1, 2007

街角の住人たち(1)―街角の入り口2
[ 連載小説 ]    

 『街角の入り口』から読む

 元谷(もとや)はその日、珍しく残業もなく定時で退社することが出来た。
 不景気の呷りを受けたままの会社は、社員全員を正社員から外し、フレックス制を敷いたにも関わらず、時間外であっても関係なくサービス残業が延々と続く毎日だった。
 予想できなかったわけではない。
 不景気で単価が下がっていても、仕事の内容が減るわけではない。
 今までと同じだけの仕事量をこなさなければならないのだ。
 結局いつも貧乏くじを引くのは弱い立場の一個人だ。
 そんな職場だったので、途中で身体を壊してしまう人間も少なくなく、脱落していった人間の穴を埋めるために、残された人間にその負担が掛かってくる。
 そういう日々だったので、職場の中もだんだんと暗く陰鬱になって、出勤も精神的に苦痛に感じきていた。
 政府は何とか景気回復をアピールしようとしているが、どこを見ればそんな明るい光の一筋でも見えるのか、元谷は激しい怒りを旨の内に隠しながら家路を急いでいた。

 以前はマイカー通勤をしていた元谷だったが、会社がそんな状態になり、少しでも負担を軽くしようと維持費の掛かる自家用車を手放し、電車通勤するようになっていた。
 駅から家までは20分掛けて徒歩だ。
 自転車という手もあるが、駐輪場を借りるにもお金が掛かる。
 普段運動をする機会がない分、これで運動不足解消ができると考えたら悪くはない。
 そう自分に言い聞かせて、元谷は毎日歩いていた。

To be continued...


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最終更新日  March 19, 2007 14:09:08
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February 12, 2007

『永遠の謎』(終)
[ 連載小説 ]    

▲最初から読む▲

 その後、省兵は祖父たちの小隊と別行動中に、この南方で戦死することになるのだが、この話は面白くないのでもうやめよう。
 その後の彼の残された家族がどうなったのかも、想像に難い。
 もしかしたら、彼らは本当に米軍のスパイだったのだろうか?
 それとももっと単純な理由だっただろうか?
 あの時代に、日本人でありながら日本語が不自由で英語とフランス語しか話せなかった彼の妹と、同じく日本人でありながらフランス語しか話せなかった妻。
 実家と帰省先が違う理由は、もう今となっては永遠の謎となってしまった。
 しかしあの時代にそういう人物が一生懸命生きて、そして散っていったという事実だけが、祖父の話の中で生き残っている。
 そしてその祖父がやがてこの世を去った時、そのことも時代の中に忘れ去られていくだろう。
 毎年祖父が行く連隊の慰霊祭には、当時所属していて共に戦った仲間は祖父を入れてもう4人しか来ない。
 多くの方は亡くなり、まだ生きている人も、病気や高齢のため出席が困難である。
 その出席者の人数が減るにつれ、祖父は寂しそうだが、それでも行ける限り慰霊祭には行くつもりだろう。
 祖父が行けなくなったら、私が代わりに出席しようか…
 そんなことを考えながら、今日も祖父の思い出話に付き合うのだった。

THE END


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最終更新日  March 19, 2007 13:26:46
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February 11, 2007

『永遠の謎』(12)
[ 連載小説 ]    

▲最初から読む▲

 日本がアメリカに宣戦布告したことにより、戦争の舞台は太平洋と移っていった頃、省兵の連隊も南方へ送られることとなった。
 連隊がフィリピンのルソン島へ上陸した時、現地には日本語を話せる人間がいなかったので、省兵は上官から英語での通訳を頼まれた。
 宿営地に着き、同室になったに不思議そうな顔で見られた。
 そうなることがわかっていたので、省兵は今まで極力英語に長けていることを隠していたのだったが、これで人目を憚らずに家族へ手紙を書くことが出来る。
 その夜、省兵は妻に宛てて手紙を書いた。
 それを横で見ていたのは藤岡だった。
 何故英語の文面なのか?
 藤岡は至極当然の疑問を口にした。
 省兵は初めて妹が日本語を話せないこと、妻がフランス語しか理解できないことを話し、妻宛の手紙を英語で書き、妹にその文面をフランス語に訳して妻に渡してもらうことを説明したが、それ以上の詳しいことは話さなかった。
 藤岡はその理由を訊きたそうな顔をしていたが、それ以上は遠慮したのか訊ねてこなかった。
 省兵はもしかしたら米国のスパイとでも思っただろうかと、内心ちょっと自嘲気味に思った。

To be continued...


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最終更新日  March 19, 2007 12:02:09
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October 1, 2006

『永遠の謎』(11)
[ 連載小説 ]    

▲最初から読む▲

 省兵たちが満州に出向して暫く経ったある日、省兵の許へ兄の訃報が伝えられた。
 その時省兵は任務で本部を離れていたため、連絡が彼の許へ届いたのは葬式も済ませた1ヶ月も後の事だった。
 省兵は残された母や妹たちのことが気になったが、帰国することを断念した。
 ちょうどその頃、藤岡が軍の用で日本へ一時帰国することとなった。
 藤岡にはその間、3日程休暇が与えられることになっていたので、姫路へ戻った際に、叔父のところへ託(ことづけ)を頼んだ。
 母の実家へ直接託ければよかったのだが、連帯兵舎の近くにある叔父のところならまだしも、折角の休暇に少し離れた高砂まで用を頼むのは申し訳ないような気がした。
 しかしそれは建前で、本当はまだ大阪での迫害のキズの痛手は心の奥深くに残っていた。
 それ故に、省兵は軍の中でも日本語のあまり話せない妻と妹の存在を知られたくなかった。
 中国植民地をめぐって、他国間とも緊張が高まってきた今、特に省兵はその思いを強くしていた。
 だからと言って彼女たちの存在を重荷に思っているわけではない。
 彼女たちの存在は自分にとって一番大切で何よりも守りたいものだった。
 しかし時代が悪すぎるのだと省兵は思った。
 彼女たちも必死で日本語を憶えようと努力していたのだが、ある種の強迫観念が大きすぎ、逆に萎縮しすぎて憶えられないようだった。
 上手く話せないので他人とも会話が出来ない、話すことがないので憶えられない…悪循環だった。

 兄の葬式は姫路の叔父さんが出してくれたそうだ。
 何もかにもお世話になってしまった叔父に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 藤岡には兄が亡くなった事を伏せ、叔父にお礼と母たちに手紙と託を託した。
 藤岡は「なぜ母親の許ではないのか?」と訊きた気だったが、何も訊かずに引き受けてくれた。

To be continued...


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最終更新日  November 4, 2006 14:33:49
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September 27, 2006

『永遠の謎』(10)
[ 連載小説 ]    

▲最初から読む▲

 省兵は軍に入り、訓練を受けた。
 一日何十キロも歩いて移動させられるなど、今まで学問ばかりに勤(いそ)しんでいた省兵にとっては始めの頃はきつい毎日だった。
 省兵と同時期に入隊してきた中に藤岡というまだ10代半ばの少年がいた。
 負けず嫌いで勝気なその少年は、訓練がどれほどきつくてもへこたれずに必死で立ち向かっていた。
 その姿を見て省兵もまた気を引き締めて訓練に臨んだ。

 少年は少し生意気な感じもするが、物怖じせず、人懐っこい一面もあったので、一回りも違う省兵にも親しく声を掛けてくるようになった。
 最初は今までいた狭い研究所とはまったく違う世界に戸惑い、中々馴染むことが出来なかったが、だんだんと周りの人間とも話を出来るようになっていった。
 それでも藤岡少年を相手に「本当は大学院で研究を続けたかったんだけど…」と思わずこぼしてしまうこともあった。
 しかし自分の家族については、結婚していると言うこと以外は決して話そうとしなかった。
 大阪で疎外された家族の苦しみは、まだ心の中に深く残っていた。

 大学を卒業している省兵は軍の教育を受けて、見習士官という立場になった。
 まだ幼い藤岡少年は羨ましそうにしていたが、彼もまた生来の負けん気で勉強を重ね、伍長、軍曹、曹長と着実に階級をあげ、新兵を教育する教官になっていた。
 もともと学者であり、戦いの方にはさほど熱心になれなかった省兵は少尉になったものの、それ以上階級を上げることはなかった。

 そして1940年、年も違い、性格も異なる二人の将校と下士官は、共に満州へ駐留することとなった。
 

To be continued...


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最終更新日  October 30, 2006 16:51:45
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September 26, 2006

『永遠の謎』(9)
[ 連載小説 ]    

▲最初から読む▲

 それから数年は慎ましやかながらも穏やかな日々が続いた。
 週末には省兵の兄もやってきて、一緒に食事をしながら団欒を楽しんだ。
 残念ながらそこに父の姿はなかったが、離れ離れになっていた家族がようやく一つに戻った幸せを誰もが感じていた。
 しかしその幸せも長くは続かなかった。
 世界大恐慌、関東大震災、昭和金融恐慌と不安材料がそろっていた時代に、日本経済は底なし夢魔に嵌っていくかのように暴落していっていた。
 そのため、パン作りの材料も仕入れが困難になっていた。
 さらに一家を襲ったのは近隣住民からの嫌がらせだった。
 省兵の妻と妹が日本語を上手く話せないために、周りの人間から迫害されるようになった。
 それまでは好意的だった人々が突然牙をむき出しにする……それほど人々の心は荒んできていた。
 またその経済恐慌の波は叔父と兄の会社をも襲った。
 叔父は会社の所有する倉庫で首を括った。
 兄はその後始末と会社の倒産手続きに奔走し、過労から肺病を患って倒れた。

 省兵は決心した。
 この状況を救うためには、軍に志願するしかないと…
 斯くして省兵は大学を辞め、家族を再び母の実家へ送り返し、自分は軍に志願して日本帝国軍第10師団歩兵第10連隊に配属された。
 中国で支那事変が勃発した年のことだった。

To be continued...


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最終更新日  October 30, 2006 12:07:34
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September 25, 2006

『永遠の謎』(8)
[ 連載小説 ]    

▲最初から読む▲

 それから2年が経ち、省兵は工科大学を卒業して日本へ帰国することとなった。
 帰国後、成績優秀だった省兵は大阪帝国大学の大学院へ特別編入することが決まっていた。
 まだまだ研究を続けたかった省兵は、帰国後も大学院へ進学できることについて大いに喜びを感じたが、気がかりなのは明子と美佐子のことだった。
 丁度明子のイギリスの家族は省兵と同時期に本国へ帰国することとなり、話し合った結果、明子は省兵と共に日本へ帰ることとなった。
 しかし美佐子の方は血縁ではないため、そう簡単には事が運ばなかった。
 そこで省兵は決断して美佐子の育ての親の所へ言った。
 省兵はこの日のために明子に仏語を教わり、美佐子の義父母に向かって美佐子との結婚の承諾を願い出た。
 美佐子の義父母は以前から省兵のことを知っていたので、快諾し、二人は婚姻を結んだ。
 その裏には昨秋に勃発した満州事変の影もあった。
 日に日に中国東北部を占領する関東軍と、それに対する抗日運動を起こしている中国人との間の抗争が激しくなってきて、中国全土で反日感情が高まってきつつあったのだった。アルバイト

 斯くして二人の少女も省兵と一緒に日本へ帰ることとなった。

 母は知らせを聞き、省兵の兄と共に神戸港まで迎えに来ていた。
 3人は感動の対面を果たし、母の実家で一泊した後、世話になった叔父さんのところへ挨拶に出かけた。
 その後、家族で相談した結果、省兵の大学の近くに借家を借り、母と明子と美佐子と4人で生活することとなった。
 イギリス人とフランス人の養い親に育てられた明子と美佐子はパン作りに長けていたため、母と共にパン屋を立ち上げることとなった。
 出店に際しては、兄が資金援助をしてくれた。
 母もイギリスでパン作りを学んだが、明子と美佐子は日本語が不自由だったため、店番を母が担当することとなった。
 英国風とフランス風のパンは周辺でも評判となり、口コミでお客が徐々に増えていくようになった。
 また省兵も大学の合間にアルバイトなどをして、家計を支えた。
 こうして4人家族の新たな生活が始まった。

To be continued...


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最終更新日  October 29, 2006 17:28:40
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September 24, 2006

『永遠の謎』(7)
[ 連載小説 ]    

▲最初から読む▲

 明子には中国に来てから知り合った、美佐子という日本人の友達がいた。
 しかし彼女は上海で生まれてすぐに両親が事故で亡くなってしまった為、フランス人の一家に引き取られていた。
 その為、理解できる言語はフランス語のみで、後は少しだけ英語を話せるのみだった。
 明子はイギリスの学校でフランス語も勉強していたため、二人は出会った時からフランス語で会話をしていた。
 二人は似たような境遇から、急速に仲良くなり、無二の親友となっていた。

 省兵は2度目に明子に会いに行った際、美佐子を紹介された。
 省兵はフランス語を理解していなかったために、明子に通訳をしてもらいながら会話をした。
 明子より2歳年上の美佐子は、まだ幼さの残る明子に比べずっと大人っぽく、知的な感じのする落ち着きのある女性だった。
 それまで若い女性とあまり接する機会のなかった省兵にとって、そんな美佐子の姿はとても眩しかった。
 また美佐子も心安い友の理知的で凛々しい姿に淡い恋心を抱いていた。
 その後、この二人が急速に惹かれあっていくのを妨げるものはなく、妹の明子も少し寂しさを感じながらも、大切な二人の仲睦まじい様子を微笑ましく見守っていた。
 二人の会話にはいつも明子が間に入っていたため、明子が疎外されることはなく、いつも3人だった。
 3人はそれぞれに今までにない幸福感を味わっていた。

To be continued...


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最終更新日  October 16, 2006 13:28:51
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September 23, 2006

『永遠の謎』(6)
[ 連載小説 ]    

▲最初から読む▲

 省兵が支那の旅順工科大学へ進学して1年が経ったある日。
 大学の休みを利用して、省兵は上海を訪れていた。
 華やかな極東のヨーロッパを見て回った後、省兵はイギリス人居住区の中のカフェに入った。
 省兵は明るいカフェテラスの窓際にいる女性を見てハッとした。
 明るい髪の人間の集う中、その女性だけは艶やかな黒髪だった。
 しかし省兵を驚かせたのは、そのことではなかった。
 年はまだ10台の半ばくらいに見えるその少女の顔は、若い頃の母の顔にそっくりだったのだ。
 省兵は考える間もなく、少女に近づき声を掛けた。
「失礼ですが、日本人ですか?」
 しかし彼女に言葉は通じず、少女は振り返ってきょとんとしたまま省兵の顔を見上げるばかりだった。
 省兵は少し考え、5歳の頃まで話していた片言の英語で言い直した。
 彼女はそれに流暢な英語で答えた。
 自分は訳あってイギリスで生まれ、そのままイギリス人夫婦に預けられ、育てられたが、本当は日本人だと…
 その答えを聞いて、省兵は抑えがたい興奮と期待を覚えた。
「もしや、君の名前は『アキコ』では?」
 省兵は高鳴る胸の鼓動を必死で抑え、訊ねた。
 少女はとても驚いたような表情を見せ、「yes」と答えた。
 省兵は自分の名前を明かした。
 明子は養い親から本当の家族の話を聞いていたようだった。
 突然の思いがけない再開に、二人は涙を流して抱き合って喜んだ。
 その後、そのカフェで待ち合わせをしていた明子の養母がやってきて、省兵はそのまま彼女たちが住んでいるフラットへ招待された。
 そこで詳しい話を聞くことができた。

 第一次世界大戦後、明子の養い親は明子を日本の家族の下へ返そうと、省兵の父親に連絡を取ろうとしたらしい。
 しかしその時すでに省兵の父親は亡くなっていて、その家族も行方知れず。
 仕方なくそのまま明子は養い親の許で育てられることとなった。
 省兵の家族と連絡が取れなくなった背景には、省兵の父親が創った貿易会社はすでになくなっていた事にあった。
 省兵の父親の会社は、秘密裏に軍の命を受け、イギリスとの取引に関わっていたことが、あの対戦で軍と対立することになってしまった政府の怒りをかい、立場上苦しいところへ追いやられてしまった。
 その上、跡を継いだ叔父が、金輪際軍の密命を受けることはしないと明言したため、軍からも睨まれることとなり、貿易業からは手を引かなければならない状態になってしまった。
 叔父はその会社の資金を元手に、今まで自分が手がけてきた化繊工場の事業を拡張し、そちらの方面で事業を展開していった。

 一方、明子の養父も貿易商を営む商人で、1年ほど前にこの上海へやってきたそうだ。
 イギリスの家族はとても親切で、明子は本当の家族の顔を知らない寂しさ以外は、何不自由なく育ったようだった。
 省兵は残りの休日を明子たちと過ごし、すぐさま日本の母親の許に書簡を送った。
 母は泣いて喜び、すぐさま迎えに来ると言ったが、実家に身を寄せている身では難しかった。
 明子はもう暫くイギリス人の家族の下へ預けられ、旅順と上海は遠く、なかなか会えなかったが、それでも時間の許す限り二人は行き来し、14年の溝を埋めようとした。
 省兵は妹と話すため、再び英語の勉強を熱心にはじめた。

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