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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

EFTA諸国

EU非加盟国・スイス連邦    2004年10月28日

 スイスはヨーロッパの内陸に位置し、周囲はドイツ・フランス・イタリアという大国に囲まれている。スイスというと「永世中立国」や高級腕時計、国土の6割を占めるアルプス山脈で有名だが、東海・甲信地方の面積(4万平方キロ)に、群馬から岐阜にかけての内陸県総計と同程度の人口(736万人)が暮らすこの小国が、戦乱の続いたヨーロッパで独立を保ち、かつEUにも加盟しないのはなぜだろうか。
 スイスの人とは、以前語学学校に通っていたドイツのフライブルク(スイスに近い)で知り合ったことがある。ドイツ語学校だけにスイス人口の63%を占めるドイツ系ではなく(もっとも、スイスのドイツ語は強烈な訛りで有名だが)、同19%弱のフランス系、7%のイタリア系の人ばかりだった。スイス南部のテッシン(ティッチーノ)州から来たイタリア系が多いので理由を聞いたら、スイスにはイタリア系のための大学が無いので進学にはドイツ語が必須なのだ、という答えが返ってきた。なぜスイスでドイツ語をやらないのか分からないが、ドイツのほうが安い物価とかも関係しているのだろうか。スイスの一人あたりGDPは37000ドルと世界最高水準である。

 スイスは山岳地帯(4000m級の山が40ある)、しかも1万年前まで氷河に覆われていた痩せた土地とはいえ、ヨーロッパ大陸の地理的中心ということで、古代文化と無縁ではない。青銅器時代の墳丘墓文化、火葬墓文化、鉄器時代のハルシュタット文化、ラ・テーヌ文化などの分布域の中核に位置している。最後の二者はケルト人の文化とされているが、スイスにはケルト人の中でも武勇に優れたヘルウェティー族が居た。
 紀元前58年にヘルウェティー族はユリウス・カエサルに敗れローマ帝国に服属するが、その名前はヘルウェティアというスイスの雅名に今も残っている。ケルト人はローマ化しラテン語を話すようになったが、現在スイスに0.6%いるというレート・ロマンシュ語はその名残りであるという。
 4世紀にローマ帝国が衰亡し民族大移動の時代になると、スイスにはゲルマン系のアレマン族やブルグンド族が移住し、スイスの多くはゲルマン化された(現在のドイツ系の祖)。西ヨーロッパを統一したゲルマン系のフランク王国は、兄弟分割相続によって分裂するが(880年のリべモン条約など)、その際の境界線が現在のドイツ語・フランス語・イタリア語分布の境界となる。東西フランク王国の間にはブルグンド王国という小国が出来たが、その東部国境がほぼ現在のスイス内での独仏語境界になっている。
 ドイツにブルグンド、イタリアを加えた領域は「神聖ローマ帝国」に組み入れられるが、帝国とは名ばかりで地方分権が甚だしく、特にイタリア征服に狂奔し本国ドイツを顧みなかったシュタウフェン朝時代(12~13世紀)ののち、完全な選挙王制になり選出された皇帝・王の権力は形骸化する。実力をつけるため諸侯は帝国内での自領の拡大に狂奔するが、その一つにスイス北部に所領をもつハプスブルク家もあった。ハプスブルク家は1282年にオーストリアを領国化し強大化、ドイツ国王の地位を窺うようになる。

 当時山岳地帯のスイスでは、小規模な自治組織が分立していた。領国支配を固めたいハプスブルク家に対してウリ、シュヴィツなどの農民は叛乱を起こした。フリードリッヒ・シラーの戯曲(とジョアッキーノ・ロッシーニの歌劇)であまりに有名な弓の名手ヴィルヘルム・テル伝説(息子の頭の上に乗せたリンゴを射抜く逸話)はこの時代に取材したものだが、「ハプスブルク家の圧制」と共に、史実ではないらしい。
 1291年、上記2州にウンターヴァルデンを加えた「森林3州」は「誓約同盟」を結成、これがスイス国家の起源であり、国名はシュヴィツ州に因んでいる。ドイツ国王の地位をハプスブルク家と選挙で争っていたドイツ諸侯はこの独立を支持する。いわばドイツの政治情勢がその辺境に位置するスイス国家を生んだといえる。
 ハプスブルク家は討伐のため騎士軍を差し向けるが、1315年のモルガルテンの戦い、1386年のゼンパッハの戦いでスイス農民歩兵はこの騎士軍を撃退した。のちのち長槍や槍斧で武装し密集隊形で戦うスイス歩兵は、騎兵に対抗出来る強力な傭兵として重宝された(日本でも同時代に足軽が登場している)。ローマ教皇の護衛兵は現在も形式上スイス傭兵だが、むしろ山岳地帯で牧畜以外にろくな産業の無かったスイスでは、傭兵になるしか食い扶持が無かったともいえる。少し後の話だが、18世紀初頭のスペイン継承戦争では、5万のスイス兵が両陣営に雇われ相い戦ったという。
 これらの州では貴族・市民・農民による共和体制が敷かれていた。独自性の強い州の集合体で国家としてのまとまりは極めて緩やかだったが、ハプスブルク家との独立戦争の中で結束を強め、またベルン、チューリッヒなど新加盟する州もあり拡大した。1499年にハプスブルク家はスイスに一応の独立を認める。
 独立したスイスはその地理的条件を向上させるため南方(イタリア・ミラノ)への拡大を目指すが、1515年にフランスに敗北、以後スイスは膨張政策を捨て専守防衛に徹するようになる。スイスが中立を保ったドイツ三十年戦争後のウェストファリア条約(1648年)で、スイスの独立は各国に承認された。

 映画「第三の男」でオーソン・ウェルズ演じるハリーは「スイス500年の平和は何を生んだ?鳩時計だけだ」と言うが、スイスの歴史は決して平和なものではなかった。
 ドイツ三十年戦争は宗教戦争の一面があったが、そのきっかけは16世紀の宗教改革にある。ドイツのマルティン・ルターに影響され、チューリッヒを拠点にウルリッヒ・ツヴィングリ、ジュネーヴを拠点にジャン・カルヴァンが活動する。ツヴィングリはスイス内のカトリック(旧教)州に対して攻撃を加えたが、1531年に戦死している。一方カルヴァンの教えは主にフランスに広まったが、国王の弾圧を受け、17世紀に新教徒(ユグノー)の多くがスイスに亡命した。その中には職人が多くおり、のちに時計などの精密機械工業で名を馳せるスイスの産業の基礎となった。贅沢を禁じたカルヴァンの教えのせいで宝飾加工業が打撃を受け、その職人が時計職人に転職したという逸話もある。
 1789年のフランス革命(この革命に思想的影響を与えたジャン・ジャック・ルソーはジュネーヴの出身だが、当時はスイス領ではない)後に成立したナポレオン政権は、隣接するスイスに介入、統一行動の取れなかった誓約同盟は敗北し、フランスの傀儡政権(ヘルウェティア共和国)が誕生した。これはスイス初の中央集権国家だった。ナポレオン没落後、1815年のウィーン会議で列強はスイスの独立と中立を認める条約を結んだ。大国間の勢力均衡、山国であるスイスへの低い関心などが、「永世中立国」スイスを生み出す一因となった。この時フランス語圏の州(ジュネーヴなど)も新たに誓約同盟に参加し、現在の国境がほぼ確定する。
 間もなくカトリックが多く保守的、かつ独自性の強いルツェルン州などと、プロテスタントが多くリベラルで連邦志向の強い州の対立が激化、1847年にルツェルンなど7州は独自の連邦を結成するが、間もなく他の諸州に鎮圧された。連邦首都はベルンに置かれることになり、翌年アメリカをモデルにした新憲法が制定されたが、その中では連邦が外交・軍事・鉄道・造幣・関税を、各州が宗教・教育・司法などの権利を保持することが定められ、依然国家連合の性格が強かった。
 1874年に連邦憲法が定められ、より集権的になった。首相職を置かず議会から選出された7人の閣僚の合議制とし、そのうちの一人が持ちまわりで大統領職を兼務すること、重要な国事は直接住民投票で決めることなど、スイス独特の民主主義制度が定められた。
 19世紀の100年間で、スイスの人口は170万から330万とほぼ倍増した。1859年には国民が傭兵として働くことが禁止された。自由の国のスイスには、エンゲルスやレーニンのような社会主義者も多く亡命している。

 1914年に始まる第一次世界大戦では、スイスは中立を保った。戦後1920年に結成された国際連盟はスイスのジュネーヴに本部が置かれた。第一次世界大戦でスイスは人道支援に尽力し、1864年にアンリ・デュナンによって設立された国際赤十字の本部がジュネーヴに置かれたことも関係しているのだろう。しかしこの国際連盟にはアメリカが参加せず、具体的な制裁手段を欠くために1939年までに63ヶ国のうち14ヶ国が脱退(日本・ドイツ・イタリアや南米諸国)、2ヶ国がドイツ・イタリアにより併合され消滅、1ヶ国(フィンランドを侵略したソ連)が除名されて瓦解、第二次世界大戦を防止することが出来なかった(1946年総会で解散)。
 1939年から1945年の第二次世界大戦では、スイスは四方を枢軸国(ドイツ・イタリア)占領下に置かれるが、大軍(スイスは国民皆兵)を動員して武装中立を貫いた。またユダヤ人などナチス・ドイツの弾圧を避けスイスに逃げ込む人も多かった。しかしナチス・ドイツがユダヤ人から没収した資産をスイス銀行が預かったり、ドイツ軍の武器を積んだ列車の領内通過を許すなど、後になってスイスの中立違反を指弾する声も出た(1998年、1億2千万ドルがスイス銀行からユダヤ人遺族に支払われた)。
 1945年に戦勝国主導で新たに国際連合が結成されるが、スイスは国際連盟の瓦解を目の当たりにしているだけに参加しようとしなかった(1986年の国民投票でも否決)。スイスが国連に参加したのは、国民投票で可決されたのちの2002年のことで、190番めの加盟国となった。ただスイスは以前から国際協調に熱心で、ジュネーヴには上記国際赤十字の他、世界郵便協会(1874年)、国連難民高等弁務官事務所、UNESCO(国連教育科学文化機関)、さらにWTO(世界貿易機関)などが置かれている。

 精密機械・化学工業、金融業、そしてアルプス観光業などでスイスは世界有数の豊かな国になった(日本と違い中小企業が多い)。欧米の各界著名人が晩年をスイスの保養地で過ごすことはよく知られている(俳優ではチャールズ・チャップリンやオードリー・ヘップバーンなど)。貿易は2003年で50億ドルの黒字となっている。失業率は4%以下で(2001年のスイス航空破綻に伴う大量解雇はあったが)、これはヨーロッパでは例の無い低さである。
 1950年代から外国人労働者を受け入れたが、外国人の不法入国も増大し、外国人排斥や入国管理の強化・制限を訴える政党が選挙で勝利を収めるようになった。1991年に極右による難民一時収容所襲撃が増加し、1994年には人種差別を禁ずる法律が制定されている。あと意外なことだがスイスで婦人参政権が認められたのは1971年以降で、最後の州が導入したのは1990年になってからである。1999年にはルート・ドライフス内相が持ちまわり順で大統領職を兼ね、史上初の女性大統領となった。
 スイスは1960年に経済協力機構であるEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)に加盟、1992年に世界銀行や世界通貨基金に加盟したが、軍事同盟・政治協力機構などには一切加わらず武装中立主義を貫いている。1989年の国民投票では軍備放棄案が否決された。
 EU(欧州連合)加盟の議論も度々出ているが、2001年の国民投票で否決された。金以上に安定している通貨スイス・フラン、低い関税、高い物価・賃金水準に貯蓄率(日本並み)などの経済的要因は、EU加盟による不利こそあれ利点は少ない。2000年には国民投票でEUとの経済関係拡大が決定されたものの、周辺諸国全てがEU及びNATO(北大西洋条約機構)に加盟した今後も、スイスがEUに加盟する可能性は低いと見られている。             


EU非加盟国・ノルウェー王国       2004年10月25日

 ヨーロッパ大陸最北端の国であるノルウェー(ノルウェー語でNorge、「北への道」)は面積38万平方キロと、意外にも日本と同じである。ノルウェーを大きい国と印象付けているのは南北1600kmに及ぶ長大な海岸線のためであり、その国土は北緯58°から71°で、5分の2が北極圏内にある(夏の「白夜」)。人口は450万人で、人口密度は1平方キロあたり11人でしかない。
 その国土は、スカンディナヴィア半島の中央を南北に走るスカンディナヴィア山脈のおおむね西側にあたる。氷河時代はほぼ全土が氷河に覆われていたが、山の斜面を摺り落ちる氷河によって抉られて出来た谷に海水が浸入してフィヨルドが形成され、ノルウェー国土の大きな特徴となっている。ソグネフィヨルドやトロンヘイムフィヨルドは100km以上に及び、細長い湾のようである。もとより森林に覆われた山がちな国土な上、このフィヨルドが南北陸上交通の障害になる。寒冷な気候、痩せた土地で農業にも多くを期待できない。いきおいノルウェーの人々は、目の前に広がる広大な北海・ノルウェー海に乗り出さざるを得なかった。
 伝説を元にしたヘンリック・イプセンの韻文劇にエドヴァルド・グリークが曲をつけた「ペール・ギュント組曲」は日本でもおなじみだが、冒険商人として世界を股にかけ波乱万丈の生涯を送って老いて故郷に舞い戻り、彼を待ち続けた恋人ソルヴェイグに看取られて死ぬ主人公ぺールは、ノルウェー人の一典型といえるかもしれない。ペール・ギュントは「お話」だが、極地探検のローアル・アムンゼン、コン・ティキ号による航海のトール・へイエルダールなど、ノルウェー出身の探検家は多い。

 氷河が引いてノルウェーに人が住めるようになったのは1万年前頃のことである。海や森を住処とした狩猟・漁労・採集に加えて農耕が始まるのは紀元前4000年頃で、紀元前1700年頃からノルウェーでも金属(青銅)器の使用が始まるが、それらは南方のデンマークやドイツから伝わった。デンマークはノルウェーにとって長らく「文明への架け橋」だった。
 ノルウェーには原ゲルマン人とも呼べる人々が住んでいたようであるが、デンマークのゲルマン人がローマなどの古代文明と交渉を持ったのとは対照的に、彼らが歴史の世界に登場するのはヴァイキング時代前夜の紀元後700年頃まで待たなくてはならない。
 8世紀、ノルウェー人の船団がイギリスの北にあるシェットランド諸島やオークニー諸島を占拠する。当時のノルウェーに統一国家は無く、地理的制約もあって首長制や原始共和制の部族が割拠していた。「ノルマン人」もしくは「ヴァイキング」と呼ばれるようになる彼らが海に乗り出した理由は、当初は食料や物資の略奪ということもあったが、母国での権力闘争に敗れた者が一族郎党を引き連れて新天地で一旗挙げるという動機もあったらしい。

 793年、ノルウェー人の一団がイギリス東岸にあるリンディスファーン修道院を略奪、これがヨーロッパ中を震撼させるヴァイキング時代の幕開けとなる。ノルウェーの船団は2年後にはスコットランド、フェロー諸島、さらにアイルランドにも現れ、ダブリンに定住を試みている。
 872年、ハラール美髪王はノルウェー南部を統一しノルウェー王を名乗る。この際の権力闘争に敗れた者たちは、860年頃に発見したアイスランドに植民した。アイスランドの人々はさらに985年にグリーンランド、1000年頃には「ワインの地」と呼ばれた北アメリカに移住している(アメリカ移住は数年で失敗した)。
 豪族の発言権が強かったノルウェー王権は、隣国デンマークの介入を受けたり、遠征先のイギリスでの紛争に巻きこまれたりで安定しなかった。1000年前後のノルウェー王だったオーラヴ・トリュグヴァッソンとオーラヴ聖王のとき、遠征先のイギリスで知ったキリスト教に改宗し、国民にも半ば強制的に改宗させノルウェーはキリスト教国となる。ちなみにこの両王は共に、親戚であるデンマーク王に王位を追われている。
 オーラヴ聖王の異父弟・ハラール苛烈王は兄と共にスウェーデンに逃れ、ロシアに渡ってキエフ公に仕え、やがて傭兵としてビザンツ(東ローマ)皇帝に仕えたが、ノルウェーに舞い戻って1047年に王位を奪った。デンマークと20年にわたり激しい戦争を続けたが和平、1066年にイギリス征服を目論んで渡海したが、9月にイングランド王ハラルドに敗死した(翌月同じノルマン系であるノルマンディ公ウィリアムがハラルドを破ってイングランド征服に成功している)。ヨーロッパ東西を股にかけたハラールの戦死と共に、ノルウェー系ヴァイキングの活動は終結した。
 
 その後もノルウェー王位をめぐる紛争が続いた。諸豪族に加え教会(1152年にトロンヘイムに大司教座が置かれる)までもがこの権力闘争に介入し混迷する。教会の権威を押さえ込んだスヴェッレが1184年に即位してようやく世襲のノルウェー王家が誕生した。
 スヴェッレの孫ホーコン・ホーコンソンはヴァイキング時代の栄光の復活を目指し、1261年にグリーンランド、1262年にアイスランドを征服するが、1263年にスコットランド軍に敗死、ノルウェーはイギリスに残っていた領土を失った。
 1319年、スウェーデン王マグヌス・エリクソンがノルウェー王位も兼ねるが、1355年にホーコン6世にその地位を追われる。ホーコンはスウェーデンを破って勢威著しいデンマークの王女(摂政)マルグレーテと結婚し、彼の死後(1387年)二人の息子オーラヴ4世がノルウェーとデンマークの王位を兼任する。
 1397年にスカンディナヴィア三国(ノルウェー・デンマーク・スウェーデン)はデンマーク主導の下で同君連合であるカルマル同盟を結成した。この三国はもともと民族的・言語的に非常に近い関係にあるのだが、デンマークとスウェーデンは長らくライバル関係にあった。一方ノルウェーはこのカルマル同盟以降400年間、デンマークとの国家連合を維持する。
 大司教による独自のノルウェー王擁立失敗を受け、1536年にノルウェーはデンマークの一部と宣言されたが、独自の法と政府をもつことを許された。同じ年、宗教改革がノルウェーにも及び、ノルウェーは新教国となった。この時代、ノルウェーはドイツのハンザ同盟に船や建築の建材となる木材、水産物、さらに毛皮を輸出して富を得ていた。

 ヨーロッパ全体を覆ったフランス革命(1789年)とナポレオン戦争の混乱ののち、フランスと同盟していたデンマークは1814年にノルウェーに対する王権を放棄させられ、代わってフランスに対する戦勝国スウェーデンが支配権を得た。これに反発したノルウェーは独自の国会(ストーティング)と憲法を制定し、王にはデンマークの王族を擁立する。しかしすぐにスウェーデンとの休戦が成立、ノルウェー憲法・国会を認める代わりにスウェーデン王カール13世がノルウェー王位を兼ねた。
 当時はヨーロッパ全体を民族主義が覆った時代だったが、ノルウェーも例外ではなく、スウェーデンに対する反感が強まった。1884年に左翼農民党の首相スヴェルドルップは議会制度を導入、1898年には普通選挙法が施行された(婦人参政権は1913年)。1800年に90万だった人口は1900年には220万に増加した。
 ノルウェーはヨーロッパで続く戦争に中立政策で臨んで利益を挙げ、当時世界第三位の海運国になっていたが、通商目的からスウェーデンに対し独自の外交権を要求する。スウェーデンがこれを拒否したため、1905年にノルウェーは国家連合の破棄を宣言、デンマーク王子カールを王に選出(ホーコン7世)、ヨーロッパ列強も1907年にノルウェーの独立を承認し、カルマル同盟から数えると500年ぶりに独立国となった。400年のデンマーク支配の結果、ノルウェー語はデンマーク語との区別があまり無くなっていたのだが(もともと同系統のゲルマン系言語で方言程度の差)、イワル・オーセンが考案した「新ノルウェー語」も公用語とされた。
 スウェーデン人アルフレッド・ノーベルが設立したノーベル平和賞は1901年から授与されているが、彼の遺言によりその選考はノルウェー国会が行っている。第一回当時は授賞式会場のオスロはスウェーデン国内だったわけである。

 ノルウェーは海運国という性格上、当時世界の制海権を握っていたイギリスと友好関係にあったが、第一次世界大戦(1914~1918年)では中立を保った。しかしドイツの潜水艦による無差別攻撃によってその商船保有量の半数にあたる124万トンを失った。ロシア革命(1917年)後は共産主義者の活動が活発化したが間もなく衰退、穏健な左翼政権が誕生している。
 1920年にスヴァールバル諸島が国際連盟によりノルウェー領と認定される一方、1931年にはデンマークとグリーンランドの領有権をめぐって紛争となりグリーンランド東部を占領したが、ハーグ国際法廷の判決でその主張は却下された。政治的に北欧諸国は中立主義の建前から独自路線を取っていたが、世界大恐慌のさなかの1930年、オスロ条約でスカンディナヴィア三国とベネルクス三国は経済ブロックの準備を約している。このような地域協力はEUのはしりとも言えるかもしれない。
 第二次世界大戦中の1940年4月、ナチス・ドイツは中立国ノルウェーに海空両面作戦で侵攻、連合軍(イギリス・フランス)も介入して2ヶ月あまりの戦闘ののち、ノルウェー全土はドイツ軍に占領され、国王ホーコン7世はイギリスに亡命した。ドイツにとっては北海を押さえ、イギリス封鎖(潜水艦作戦)とスウェーデンからの鉄鉱石輸入ルートを確保するための作戦だった(同じ理由でイギリスもノルウェー侵攻を計画した)。ドイツはウィトクン・クィスリング率いるファシスト党の支持を得て軍政を敷いた。この占領はドイツが降伏する1945年5月まで続いた。
 第二次世界大戦を教訓に、ノルウェーは中立政策を放棄して集団安全保障政策に転じ、1949年にNATO(北大西洋条約機構)の原加盟国となっている。ソ連とは190km程の国境で接しており、ノルウェーの北側のバレンツ海にはソ連の原子力潜水艦が出没し、東西冷戦の最前線となった。

 ノルウェーは1960年に、フランス主導のEEC(ヨーロッパ経済共同体)に対抗してイギリスにより設立されたEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)に加盟した。しかし1962年にEECへの加盟を申請、これはEEC側によって却下された。1967年には再びEC(EECが発展)に加盟申請するが、1972年9月の国民投票では僅差で加盟が拒否された。
 1967年、北海での海底油田と天然ガス田の存在が明らかになり、油田開発を進めたノルウェーは世界第三位の原油輸出国(生産量8位)となった。石油はノルウェーの輸出総額の4割を占めている。経済的に豊かになったノルウェーは社会福祉制度を充実させた(一人あたりGDPは30800ドルで世界最高水準)。一方世界的な反捕鯨運動の中、日本と並ぶ捕鯨国だったノルウェーは1988年にいったん商業捕鯨を廃止したが、科学的根拠に基いた独自の判断で1993年に商業捕鯨(ミンククジラ)を再開している。
 1981年にノルウェー史上初の女性首相としてグロ・ハーレム・ブルントラント内閣が発足した。ブルントラントは1986年に首相に再任したが失業問題に直面、12%の通貨切り下げを行った。1996年まで断続的に首相の座にあったブルントラントは、のちにWHO(世界保健機構)事務総長に就任している。
 1990年にはEC(1993年にEUに改編)加盟をめぐる意見の相違から内閣が退陣、1994年の国民投票ではEU加盟拒否派が僅差で多数となった。国家政策の独自性を制限されることに対する懸念が強いのだろう。現在の世論調査ではEU加盟賛成派が多数派ということだが、内政問題化を避けたい現政権は2005年以前の加盟審議はないと言明している。
 EUには非加盟だが、ノルウェーは1945年に設立された国際連合の原加盟国となり、初代事務総長はノルウェー人のトリグヴェ・リーだった(在任1946~52年)。平和維持活動にも積極的に参加しのべ5万5千人を派遣、最近ではアフガニスタンやイラクにも派兵している。またイスラエルとパレスチナの和平を仲介(1993年)したことも記憶に新しい。


EU非加盟国・アイスランド共和国

 アイスランド、名前からして寒そうな国である。この名前は開拓者であるノルウェー系ヴァイキング「赤毛のエリーク」が、沿岸に浮かぶ流氷を見て名づけたことに由来するという。
 しかしこの国は北極圏(北緯66°33′)のぎりぎり南側に位置しており、また流氷こそ来るものの、暖流であるメキシコ湾流のおかげで港(首都であるレイキャヴィークなど)は冬でも凍結せず、名前ほどには寒く無いらしい。しかし山岳部を中心に国土の11%は氷河に覆われている。世界で16番目に大きい島であるその面積は10万平方キロ(日本の約4分の1)、人口は29万人程である(函館・青森・秋田・盛岡市などと同程度)。人口密度は1平方キロあたり3人でしかない。位置的にはイギリスとグリーンランドの間になる。
 この国は意外なところで日本との結びつきがある。まず日本と並ぶ世界有数の火山国である(「火と氷の島」と呼ばれる所以である)。日本でも地震の原因となっているプレートの境目(ギャオ)が国の真中を通っている。温泉や間欠泉も多い。この地熱を利用した暖房が普及しており、再生エネルギー利用率は72%と世界最高となっている。自然エネルギーだけでなく、水素燃料の導入にも熱心である。
 またかつて有数の捕鯨国だった。1989年に捕鯨を停止したが、反捕鯨国が牛耳るIWC(国際捕鯨委員会)の態度に不満をもち、1992年に脱退している(2002年に再加盟)。現在は捕鯨の代わりにホエール・ウォッチングを観光客誘致の目玉に据えているが。
 全般に資源に乏しいアイスランドの主要な産業は漁業だが(輸出額の6割)、日本で流通しているシシャモや甘エビの多くはアイスランドから輸入されたものである。アイスランドがEUに加盟しようとしない大きな理由の1つに漁業権問題がある(後述)。
 資源に乏しい国ながら、アイスランドの一人あたりGDPは29400ドルと先進国中でも上位にある。

 アイスランドは8世紀頃まで無人島だったという。ただアイルランドやスコットランドのキリスト教修道士が、隠遁生活を送るためしばしばこの島に渡ってきたらしい。
 アイスランドに本格的に人が定住し始めるのは、イギリスの北にあるシェトランド諸島やフェロー諸島に植民したノルウェー人ヴァイキングが、860年頃にこの島を発見してからだった。当時ノルウェーではハラール美髪王による国家統一が進んでおり、その圧制から逃れるために多くのノルウェー人がアイスランドに向かった(アイスランドへの航路を外れたノルウェー人によってグリーンランド、さらにアメリカ大陸が発見された)。この植民活動は10世紀半ば頃まで続き、その当時島の人口は2万人に達していたという。
 これら植民者は白樺や柳の森を切り開き、狩猟・漁労・農耕に従事していたが、折からのヘクラ火山の噴火と人間の活動で森林破壊が進み、森の野生動物も激減、アイスランドは資源に乏しい島になってしまった。森に覆われていたこの島が、こののち木材は輸入に頼らざるを得なくなり、現在ではコンクリートが主な建築材となっている。
 母国での圧制を逃れてきた入植者たちは、故郷のシング(集会)制度を導入、総会にあたるアルシングは930年からシングヴェットリルという場所で1800年まで毎年開かれた。これは世界最古の議会であると言われている。1000年のアルシングではキリスト教の国教化が決議された。
 彼らはまた、12世紀から13世紀にかけて、サガと呼ばれる自らの民族叙事詩を書き残している。この北欧中世文学は後世の文学に大きな影響を与えた(日本でも人気ですね)。

 1262年、アイスランドはノルウェー王ホーコン・ホーコンソンに従属する。ところがそのノルウェーは1380年にデンマークに統合されてしまったので、アイスランドもデンマークの支配下に入った。ただ既述の通りアルシングが開催されており、住民のある程度の自治はあった。しかし1662年にはデンマークの世襲絶対王制を受け入れ、1800年を最後にアルシングも解散させられる。
 フランス革命とナポレオン戦争後の1814年、フランスに与していたデンマークはノルウェーの支配権を戦勝国スウェーデンに譲らされたが、アイスランドはデンマーク領内に残った。こうして植民者たちの故地であるノルウェーとの関係が断絶した。もともとデンマークとノルウェーは言語的にも民族的にも非常に近い関係にあるのだが。
 1843年、アルシングが復活、ヨーロッパ各地での革命運動の影響で1849年にデンマークが立憲君主制の国になると、アイスランドでも独自憲法制定を望む声が高くなった。1874年にデンマーク王クリスティアン9世はアイスランドに独自憲法を許可し、限定自治を約束した。1903年には完全自治が実現している。
 第一次世界大戦中の1915年、デンマーク本国(中立国)では急進社会主義者が政権を握り憲法を改正したが、アイスランドでも普通選挙法が導入された。1918年にはデンマーク王を君主としながらも一応の独立が認められた。1920年に制定された憲法では、外交権はデンマークが保持しながらも、アイスランドの永世中立国化と軍備放棄が定められた。

 第二次世界大戦初期の1940年4月9日、ナチス・ドイツはノルウェー作戦のため中立国デンマークに侵攻、デンマークは即日降伏した。「属国」であるアイスランドは取り残された格好になったが、5月10日に連合国のイギリス軍が進駐し、アイスランドは占領された。ドイツ軍艦が出没する北大西洋にあって、海軍根拠地となるアイスランドを放置することは危険極まりなかったのである。
1941年末に参戦したアメリカ軍もアイスランドに駐留した。米英占領下の1944年6月17日、シングヴェットリルで開かれたアルシングでアイスランドの共和制が宣言され、アイスランドは完全独立した。
 終戦後もアメリカ軍は引き続きアイスランドに駐留し、1951年には反対運動の中ケフラヴィークに空軍基地を設けた。アイスランドはNATO(北大西洋条約機構)に加盟したが、軍事力を持たないためその防衛はアメリカ軍任せになった。このためアイスランドに対するアメリカの影響力が増大した。一方で1985年には非核宣言を行っている。1986年には米ソ首脳会談(レーガン‐ゴルバチョフ)の舞台になった。
 1958年に12海里の専有漁業権を主張し、同じく漁業国であるイギリスと対立、1973年には50海里に拡大し、反発したイギリスとドイツがハーグ国際法廷に提訴する事態になった。判決はアイスランドを非としたが、アイスランドはこれを受け入れず、「タラ戦争」と呼ばれるイギリスとの紛争状態が続く。1975年にはイギリスの反対をよそにさらに200海里に拡大した。アイスランドはEFTA(欧州自由貿易連合)に加盟していたが、EFTAはEC(のちのEU)程には加盟国の調整や規制に厳しくなかった(EFTAの肝いりだったイギリスは、1973年にECに加盟しEFTAを脱退している)。
 1980年に初の女性大統領であるヴィグディス・フィンボガドッティルが就任し、1996年まで在任した。1991年以来中道右派のダヴィッド・オッドソン(独立党)が首相の任にあり、長期政権を維持していたが、連立合意に基き2004年9月にハルドール・アウスグリムソン外相(進歩党)に禅譲した。
 比較的高い経済水準や漁業問題もあって、アイスランドはEUに加盟する気は無いが、1993年にEEA(欧州経済領域)、2001年にEU域内移動の自由を定めたシェンゲン協定に参加するなど、EUとの協調姿勢を採っている。またNATO加盟国として、イラク復興支援ではアイスランド人が少数ながらデンマーク軍に同行し、爆薬処理などで活躍している。

 現在アイスランドで世界的にもっとも有名な人といえば、何と言っても女性ミュージシャンのビョーク(本名ビョーク・グズムンズドッティル)ではないだろうか。12歳のときに出した最初のアルバム「ビョーク」(1977年)が人口28万(当時)のアイスランドで7000枚売れ、1993年からは居をイギリスに移し活躍、2000年には映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(ラルス・フォン・トリアー監督)に主演し、カンヌ映画祭で主演女優賞を獲得している。


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