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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

ヨーロッパのミニ国家

 2005年03月25日 モナコ公国

 世界で一番小さい国というとローマ市内にあるヴァチカン市国だが(面積0.44平方キロで日本の皇居より小さい)、その国家元首であるローマ教皇ヨハネ・パウロ二世(82歳)は御不例が続き今年の復活祭の行事を欠席している。
 では二番目に小さい国はどこかというとフランスとイタリアの間にある都市国家モナコ公国で、面積は1.97平方キロしかない(南北2.5km、東西最大で1kmで千代田区よりも小さく、京都市上京区とほぼ同じ)。そのモナコの国家元首である81歳のレーニエ(3世)侯のほうは今日になって、主治医団から危篤であると発表された。肺炎にともなう多臓器不全で回復は難しいかもしれないという。1949年からモナコ侯の地位にあるレーニエ公は1956年にアメリカの人気女優だったグレース・ケリーと結婚して一男二女をもうけ(グレース妃は1982年に交通事故死)、現在長男で47歳のアルベール侯子が摂政を務めているという。

 ヨーロッパにはこういう小さな国がいくつかあるのだが、モナコの来歴を調べてみる。
 「モナコ」という国名はイタリア語で「修道士」という意味がある(ギリシャ語の「モナホス=隠者」に由来。英語ではMonk)。同じようにドイツ南部の都市ミュンヘンはドイツ語で修道士を意味するMönchから派生した地名だが、これはミュンヘンが修道院の所領だったことに由来する。ちなみにイタリア語ではミュンヘンも「モナコ」と呼んでいるので紛らわしい。なおモナコという国名は紀元前6世紀にこの地に住んでいたリグリア人のモノイコス(ギリシャ語で「孤立した」という意味がある)という部族名に由来するという異説もある。
 モナコ国内には30万年前の旧石器時代の洞窟遺跡があり、既にその頃から人が住んでいた。モナコを含むニース(地方)という地名は、現在のトルコにあったギリシャ人都市ニケーア(現代名イズニク)に由来し(ニケーアからの植民者が同じ名前の植民都市を建設した)、良港にめぐまれたモナコにギリシャ人が上陸して、原住民であるリグリア人と交易していたのだろう。紀元前2世紀末ににローマ帝国の支配下に入り、8世紀にはシチリアを根拠にしたイスラム教徒(アラブ人)もこの地に進出している。アラブ人は9世紀にもこの地方を支配下に収めたが、975年にプロヴァンス大公に奪還されている。
 1191年、ドイツ国王であるホーヘンシュタウフェン朝のハインリッヒ6世はイタリア遠征を開始する。諸侯の分裂状態のドイツを統一する上で重要な「神聖ローマ皇帝」という称号を名乗るには、ローマ教皇にローマで戴冠してもらう建前であり、そのためのイタリア遠征だった。ハインリッヒは北イタリアの都市国家ジェノヴァからモナコを奪い、港に要塞を築いた。1215年にはジェノヴァも反撃してモナコに砦を築いている。
 当時イタリアもいくつかの都市国家や諸侯国に分裂していたが、このドイツの進出に対してイタリア人は皇帝派(ギベリン)と教皇派(ゲルフ)に分かれて争っていた。都市国家ジェノヴァの内部でもこの派閥争いが持ちこまれ、1296年に教皇派の有力貴族であるグリマルディ家はジェノヴァを追われプロヴァンスに逃げた。翌年グリマルディ家がプロヴァンスでの叛乱を鎮圧してその地を占拠、プロヴァンス及びジェノヴァから自立しモナコ侯を名乗ったのが現在のモナコ侯グリマルディ家の始まりである。この占拠の立役者になったのは修道士だったフランチェスコ(フランソワ)・グリマルディで、修道士に変装した兵士を率いて城に潜入し、まんまと奪取した。フランチェスコの兄レーニエが家祖となる。
 グリマルディ家は1301年にいったんモナコを失うが、1331年に回復している。その後も隣国ジェノヴァ共和国との争いが続くが、イタリアに介入したフランスはモナコ侯国を支持して1489年にはその主権を承認している。1641年にはフランスの保護下に入った。長らく戦国時代の様相を呈していたイタリア情勢がモナコを生んだとも言える。

 1789年に起きたフランス革命では王侯が否定されその累はモナコにも及び、1793年にフランス共和制下の一県として併合されグリマルディ家は逮捕・幽閉された。ナポレオン戦争を経てフランスが敗れたのちの1814年にグリマルディ家は旧領に復し、今度は隣国のサルディニア・ピエモント王国の保護下に入った。
 19世紀に入ってイタリア民族主義が盛り上がる中、サルディニア王国はフランスの支援を得てイタリア統一事業に乗り出すが、見返りとしてニースをフランスに割譲した。サルディニアは1861年にイタリア統一に成功するが、その際ニースに続きモナコ侯国もサルディニアから離れ、フランス保護下で1489年の協定を尊重されて独立を認められた。1911年にはアルベール1世によって憲法が発布され立憲君主国となっている。
 第1次世界大戦後の1918年、フランスとモナコは改めて友好条約を結び、1.グリマルディ家が途絶えた場合モナコはフランスに併合される(2002年にこの項目は削除されたようで、フランスはグリマルディ家が断絶してもモナコの主権を保障するとのこと)、2.モナコ侯の即位継承はフランスの承認を必要とする、3.フランスはモナコの外交を担当しまた防衛の義務を負う、などの条項が定められた。そのためモナコは軍隊を保持しておらず(警察権は保持)、宮殿の衛兵もフランス軍から提供されている。第2次世界大戦中にフランスがドイツに敗れると、モナコはイタリア及びドイツの占領下に置かれた。

 1949年に即位した現在のレーニエ3世は1962年により民主的な憲法を発布し、絶対君主制を改め、一院制の国会と首相職を置いた。レーニエ3世は1954年に雑誌の対談で知り合ったアメリカの人気女優グレース・ケリーと2年後に結婚したが(グレイシア・パトリシア妃)、この結婚は観光立国を国是とするモナコに大きな利益をもたらしたという。
 狭隘な都市国家で産業に期待できないモナコは観光業や金融を力を入れており(そのため度々マネーロンダリングの舞台となっている)、モナコというとモンテ・カルロにあるカジノと、市街地をコースとするF1グランプリで有名だが、前者はシャルル(イタリア語でカルロ)3世によって1861年に建設され、後者は1929年以降開催されている(レーニエ侯自身が自動車マニアで博物館も持っているが、その自動車で妃が事故死したのはなんとも皮肉なことだ)。現在の人口は3万2千人だが、うちモナコ国籍を有するものは6千人程度で、残りはフランス人・イタリア人で占められる。
 モナコは1993年に国連に加盟、また外交権を保持するフランスのEC・EU加盟に伴い、実質的にEU内にある(加盟国としては扱われていない)。モナコ通貨の発行権は関税同盟を結んでいるフランスが保持しているのでモナコの通貨は現在ユーロだが、郵便切手及び2002年から流通の始まったユーロ硬貨に限っては独自のデザインのものを発行しており、収集家の注目を集めている。

(追記・レーニエ侯は四月に死去し、アルベール2世が継承した)


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