1154958 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アメリカ史(中) 大国

2005年02月28日
アメリカの歴史(5) 南北戦争

 今回は数多くの映画・小説の背景となっている南北戦争(1861~65年)について。アメリカ人同士が二つに分かれて合い戦った南北戦争は、そう長くない歴史しか持たないアメリカ人に、忘れられないものとなった。特に主な戦場となった南部諸州の人には特別の感慨があるようだ。
 なんといっても有名なのはマーガレット・ミッチェルが1936年に発表し(彼女の名前はあまりに有名だが長編はこれ一作のみ)、ピューリッツァー賞を受賞しまもなく映画化(1939年)された「風と共に去りぬ」だろう。最近では「コールド・マウンテン」(アンソニー・ミンゲラ監督)という映画もあった。どちらも南部の立場から見た作品だが、奴隷制から解放され北軍に志願した黒人兵士たちを描いた「グローリー」という映画もある(エドワード・ズウィック監督、デンゼル・ワシントン主演)。
 ヴィヴィアン・リーが演じる「風と共に去りぬ」のヒロイン、スカーレット・オハラはジョージア州の富裕なアイルランド系農場主の娘という設定になっている。黒人奴隷を多く使ったその生活はあたかも貴族のようだった。実際のところ当時アメリカに居た黒人の9割は南部諸州に集中し、黒人奴隷の数は400万人に上った(南部諸州人口の3分の1以上)。1860年頃には南部にいる白人の4分の1が黒人奴隷を所有していたが、そのうちのさらに12%、黒人も含めた南部の総人口で言うとわずか3%の白人富裕層が、多数の黒人を使った綿花農園経営を行っていた。
 当時綿花はアメリカの輸出品目では最大額を占めており、南部の一人あたりの収入は北部を上回っていた。しかしその富はオハラ家のような農園主に集中し、こうした富裕層は南部の政治をも牛耳っていた。こうした農園主を除く南部の白人にとって、奴隷問題は深刻な政治問題ではないはずなのだが、彼らは郷土愛から南部の政策を積極的に支持した。一方産業革命を推し進める大部分の北部人にとって、奴隷を使うあたかも古代貴族制度のような南部社会は、「民主主義の国アメリカ」として受け入れがたいものだった。この南部社会の矛盾はのちに南北戦争の行方にも影響していくことになる。

 1860年11月の大統領選挙で当選した共和党のエイブラハム・リンカーンは奴隷州だったケンタッキー生まれで当時51歳、のちのアメリカ大統領に多い弁護士の出身で、身長195cmと歴代大統領でもっとも長身である。しかし痩せっぽちで貫禄に欠けるというので顎鬚を生やしたのは有名な話だろう。
 リンカーン自身は奴隷制度に関しては「拡大反対」派で即時廃止派ではなく(奴隷という「個人資産」侵害にあたるおそれがあるため)、むしろ穏健派に属するほうだったが、奴隷制度に反対する共和党の候補が当選したことに南部諸州は激しく反発した。リンカーンが就任式を行う前の同年12月、早くもサウスカロライナ州が連邦からの脱退を表明、続いてヴァージニアからテキサスまでの南部10州がそれに倣った(奴隷州のうち北部との経済的結びつきが強かったケンタッキー、ミズーリ、デラウェアなどは連邦に留まった)。これら11州は南部連合を結成し、暫定大統領としてジェファーソン・デイヴィスを選出し、ヴァージニア州リッチモンドを首都とした。
 イギリスやフランスといったヨーロッパ諸国には、この南部連合を独立国として認める国もあった(ややのちに日本でも榎本武揚の蝦夷地共和国を認める動きを見せたことを想起されたし)。あまつさえフランス皇帝ナポレオン三世は南北戦争のどさくさに紛れてメキシコの内戦に介入し派兵、モンロー・ドクトリン(ヨーロッパ列強による南北アメリカへの不介入)を唱えるアメリカの強い抗議で手を引いている。一方1854~56年に英仏とクリミア戦争で戦ったロシアはこの独立を認めず連邦側に接近した(1867年のアラスカ購入に繋がる)。
 1861年4月に第16代大統領に就任した当のリンカーンは、この南部分離独立を認めるわけも無く、内乱として扱った。リンカーンは南部に軍艦や部隊を駐屯させた。

 4月12日、南部の民兵(以下南軍と呼ぶ)がサウスカロライナ州にある海軍根拠地サムター要塞を砲撃し占拠、南北戦争の火蓋は切って落とされた。リンカーンは志願兵7万5千を3ヶ月間動員する大統領令を発した。南部を簡単に鎮圧できると思ったふしがある。それもそのはずで、人口比で言えば南部は北部の4割、兵役可能(18~45歳)男性人口では2割強、工業生産に至っては1割以下だった。リンカーンは圧倒的な北部の海軍を使って南部を海上・河上封鎖し、イギリスやフランスからの武器・物資購入を妨害した(スカーレットの二番目の夫となるレット・バトラーはこの封鎖破りで名を挙げ巨万の富を築くことになる)。
 ところが南部には米墨戦争などに従軍した練達の職業軍人が多く居た。中でも南軍の総司令官を務めたロバート・リーは南北戦争を通じもっとも有能な将軍であった。一方の北軍は志願兵主体で素人臭さが抜けず、また指揮官も未経験・無能な者が多かった。また上に述べたように南部人には独立自尊(セルフメイド・マン)の気風が強く、南軍の士気は高かった。
 また戦争そのものが恐るべき進歩を遂げていた。ウィンチェスター銃に代表される連発式元込めライフル銃の登場によって、発射速度が早まりかつ操作も簡単になってまた命中率も格段に上昇し、それまでの先込め式の銃とは比較にならない量の銃弾が戦場を飛び交うようになり戦死・負傷者が桁違いになった。また鉄道を利用した迅速な移動による兵力の集中で会戦の規模が大きくなり、水上では甲板を張った鉄甲艦や潜水艦も登場した(なおこうした兵器が戦争終了後にだぶついて幕末風雲の日本に流れ込み、元亀天正の騎馬武者・鉄砲足軽で留まっていた日本の軍備を一気に近代化させた)。
 結局リンカーンは徴兵制を導入して大軍で少数精鋭の南軍を押し切るやり方に転じ、南軍も徴兵を行ったので(ただし逃亡の恐れがあるので黒人奴隷には武装させなかった)、最終的な動員兵力は北軍156万、南軍90万と従来の戦争とは桁違いな数字になった。

 当初は南軍が優勢だった。名将リー率いる南軍は、数を恃んでリッチモンド攻略を狙った北軍をブル・ランの戦い(1861年7月)で撃退する。南部側では「このまま持久すれば北部は音を上げて、英仏を仲介として講和を求めてくるだろう」と甘い予測をしていたが、リンカーンは不利になっても決してあきらめようとはしなかった。それを見た南部側は1862年に北部に逆侵攻するが、南軍はアンティータムの戦い(1862年9月)で阻止されてしまう。
 リンカーンは1862年9月に奴隷解放令を発し(本発表は翌年1月)、この戦いを奴隷制に対する戦いという人道的・道徳的なものと位置付けた。既に奴隷制度を廃止していたイギリスやフランスなどヨーロッパ諸国はリンカーンのこの姿勢に好感をもち、南部への積極的な援助を控えた。また南部の中間白人層にも、本来黒人奴隷を持たない自分とは関係の無い問題のために、一握りの富裕層に踊らされて戦うのを厭う空気が出てくるようになった。海上封鎖で経済的に追い詰められた南部では馬や財産の強制的徴発が行われて民衆にも厭戦感が漂い始め、南軍の勝機は去った。
 それでも南軍は頑強に戦い、戦局だけをみればむしろ優勢だった。最大の決戦となったのはやはりリー率いる南軍がワシントン攻略を目指して北上した際に起きたペンシルヴァニア州ゲティスバーグの戦い(1863年7月)で、3日間に渡る凄惨な激戦となったが、南軍はその3分の1にあたる2万8千もの死傷者を出して退却し、無敗を誇ったリー将軍は初めて一敗地にまみれた。
 11月にこの新戦場を訪れたリンカーンは戦没者追悼のため3分ほど演説し(翌年大統領選挙を控えていた)、「人民の、人民による、人民のための政府を、地上から絶やさないのが我々の義務である」と締めくくった。
 
 リンカーンはこの戦争で頭角を表わしたユリシーズ・グラント将軍を総司令官に据えた。グラントは圧倒的な北部の物量にものをいわせて側面から南部を分断する作戦に出て、海軍をも使い南北からルイジアナ、テネシー州に侵攻、ミシシッピ州ヴィックスバーグを占領して南部諸州を東西に分断した。翌年ウィリアム・シャーマン将軍率いる10万の北軍はジョージア州に侵入、略奪や破壊の限りを尽くしつつ進撃し、9月2日にアトランタを占領した(「風と共に去りぬ」の大炎上シーンで有名ですね)。故郷を襲われた南軍の士気はついに阻喪し、徴兵された兵士の半数が逃亡する有様となった。
 さらにシャーマンは翌1865年2月には北上してサウスカロライナをも席巻し、リー率いる南軍の主力は南北から挟み撃ちにあった。南部国土の多くは北軍に占領されて戦略物資の調達にも困窮した。4月3日には南部連合の首都リッチモンドが陥落、包囲されたリー将軍は9日に無条件降伏してグラント将軍と会見、ここに南北戦争は終結した。
 それから1週間も経たない4月14日、フォード劇場で観劇中のリンカーンは南部出身の俳優ジョン・ウィルクス・ブースに至近距離から後頭部を狙撃され、翌朝死亡した。任期2期目が始まった矢先のことで、即日副大統領のアンドリュー・ジョンソンが昇格し第17代大統領に就任した。アメリカ大統領の暗殺は史上初のことだった(その後現在まで3人が暗殺されている)。リンカーンの任期はほぼ南北戦争と重なっている。

 南北戦争による北軍兵士の死者は63万人、南軍兵士の死者は38万に達したが、その多くは野戦病院での感染症によるものだった。元込銃の発明で戦場に銃弾が多く飛び交い負傷率が高くなり、野戦病院では発明されたばかりの麻酔術を使った銃弾摘出手術が多く行われたが、まだ細菌に関する知識が乏しかったため不潔な状態であることが多く、この惨状となった。
 グラント、シャーマン将軍の進撃の舞台となった南部は荒れ果て、アメリカ内部での経済的地位が暴落した。例えばサウスカロライナ州は戦前の1860年には一人あたりの収入は全米3位だったのが、10年後には40位にまで下落している。アメリカの政治・経済を率いるのは北東部の産業資本家たる「エスタブリシュメント」であることがあらためて決定付けられた。アメリカの綿花栽培が低調になったため、「世界の工場」イギリス向けの綿花供給源はエジプト、インドといったイギリス植民地に移ることになり、現地の農業経済を破壊した。
 戦後暫く、南部への復讐目的と警戒感から、北部人が多く南部に移住し南部人を監視した(カーペットバッガーズ)。南部人に対する恐怖政治やモラルの低下から、南部の治安は極度に悪化し、南部人は自警団を組織したが、その中から人種差別秘密結社であるク・クルックス・クラン(KKK)が生まれる。1920年代に安い労働力を求めて繊維産業が移転するまで、南部にはろくな産業が育たなかった。南部を支持基盤とする民主党は長い冬の時代を迎える。
 リンカーンの横死を受けて第17代大統領になったアンドリュー・ジョンソンは南部人だが、南部に寛大な態度をとったため職務への裏切りとみなされ1868年に議会(共和党急進派)から弾劾された。アメリカ史上議会に弾劾された不名誉な大統領はこのジョンソンを除けば、1998年に性的・不倫疑惑により弾劾されたビル・クリントン(第42代)のみである。
 一方400万の黒人奴隷は解放され、1868年には市民権、1870年には選挙権が与えられたが、教育も受けられず財産もない奴隷状態から突然解放された彼らには厳しい現実が待っていた。南北戦争の英雄・第18代グラント大統領の任期(1869~77年)には選挙権資格を審査する「知能テスト」が行われ、黒人の選挙権は大幅に制限された(人種による能力の優劣が学説として罷り通る時代だった)。人種差別意識は一朝一旦には無くならず、KKKによる黒人へのリンチが行われ、また1960年代まで南部では黒人と白人の学校や座席などを分ける制度が公然と行われていたのは周知の事実であろう。


 2005年05月07日
アメリカの歴史(6) 高度経済成長と海外進出

 南北戦争(1861~65年)はアメリカに大きな被害をもたらしたが、この戦争は独立志向が強くまた農業依存だった南部諸州の影響力を削ぎ、戦後アメリカは北東部を中心とする工業国として急速に成長していく。
 1860年から1914年までのおよそ半世紀に、アメリカの労働者数は7倍、生産量は20倍、投資額は40倍に増えた。1870年当時、世界最大の工業国はイギリスで、粗鋼生産量でも石炭採掘量でもトップだったが、1900年頃にアメリカが逆転、1913年にはアメリカ単独の生産量が2~4位(英独仏)の合計よりも多くなっていた。また1869年のアメリカ国内の鉄道総延長4万8千kmに対して1890年には16万3千kmになり、全ヨーロッパの鉄道総延長を超えた。貿易総額でも1914年にアメリカ、イギリス、ドイツはほぼ互角になった。
 1860年からの半世紀にアメリカの人口は3100万から9100万と三倍近くに増えたが、この人口急増は同期間に2100万人を数えた移民の流入によるところが大きい。従来のイギリス、アイルランド、ドイツに加え、イタリアや東欧、さらに中国や日本など、移民の出身地も多様化した。ヨーロッパの人々にとって、新天地アメリカは希望に満ちた「約束の地」だった。スコットランド移民から身を起こして鉄鋼王となったアンドリュー・カーネギーなどは「アメリカン・ドリーム」を体現する立志伝中の人として知られるが、そうした成功を収めたのは一握りで、多くの移民はアメリカ北東部の産業社会の底辺にあって安い労働力を提供した。
 北東都市部の白人労働者層の中心だったアイルランド人やイタリア人は、そのマフィア組織で映画でもお馴染みになった。一方現在アメリカは世界でもっともユダヤ人の多い国となっており(イスラエルよりも多い)、その財界及び政界への影響力がしばしば話題に上るが、その多くはこの頃ポーランドやロシアなどから移民してきた者の子孫である。

 1914年までに鉄鋼、石炭、石油、銅、銀の生産でアメリカは世界の首位に立った(農業生産でも首位だった)。一方でアメリカ産業の構造は、寡占状態を促進した。「石油王」ジョン・ロックフェラー、「鉄鋼王」カーネギー、「鉄道王」コーネリアス・ヴァンダービルトなどが有名だろう。ロックフェラーとカーネギーは裸一貫から一代で大企業を作り上げたというので偉人伝にも登場する。こうした資本家の中でも、ジョン・ピアポント・モーガンは金融業を基礎にして様々な産業を支配下に収め、巨大財閥を作り上げたことで知られる(日本ではその証券会社が有名)。1913年にはアメリカの僅か2%の人が国民総所得の60%を独占し、モーガン財閥とロックフェラー財閥だけでアメリカ資産全体の2割(341の大企業、220億ドルの資本)を占めていた。こうした資本家たちは大学や芸術・文化振興財団を設立し慈善事業に力を入れ、その名を冠した施設は多い(カーネギー・ホール、ヴァンダービルト大学、ロックフェラー財団など)。
 経済至上主義は、政治にも影響を及ぼした。1869年に当選したユリシーズ・グラント大統領(第18代、共和党)は南北戦争の英雄として個人的人気は高かったが、その在任中は汚職とスキャンダルにまみれていた。その後も猟官主義の企業と政界の癒着は続き、1883年に公務員法が制定され公務員の適正審査が行われるようになった。しかしその後もモーガン財閥が政界の黒幕としてグロヴァー・クリーヴランド大統領(第22代、民主党)に資金援助するなど、経済界の政治への影響は続いている。
 一方こうした富の偏在に対して、1886年にはアメリカ労働者連合(AFL)などが結成され、鉄道業を中心にストライキや労働争議が頻発し、年間1000件を越えた。政府は独占企業に対する政策に及び腰だったが、ルーズヴェルト、タフト両大統領の共和党政権下(1901~13年)で反トラスト法が成立、続くウィルソン大統領の民主党政権(1913~21年)でもその政策は続けられ、保護関税の引き下げ、累進課税の導入、連邦準備制度の創設など、独占対策が進められた。

 この時代は「発明王」トーマス・エディソンの活躍した時代である。情報・通信分野での彼の発明を紹介しておくと、1877年に電話機及び蓄音機、1891年には動画映写機を発明し、マスメディアの発達を促した。また1876年にはアレクサンダー・グラハム・ベルが電話機を発明、ジョージ・イーストマンは1888年に最初のカメラを製作している。
 また交通・運輸技術の分野では、1908年にヘンリー・フォードが無駄を省いた大衆向け自家用車T型を発表、さらに1913年には流れ作業を導入して廉価な自動車を生産・販売した。1904年にはニューヨークに地下鉄が開業し、公共移動手段の発達に一時代を画している。ウィルバーとオービルのライト兄弟は1903年に人類初の動力飛行に成功し、交通手段の可能性を海陸から空にまで広げた。こうした情報・交通技術の発達は共に(空間的・時間的に)世界をますます狭くしていく。

 1869年にオマハ~サンフランシスコ間で大陸横断鉄道が完成、1883年にはダルース~ポートランド間の北線とニューオーリンズ~ロサンゼルス間の南線も完成、大西洋と太平洋の間が鉄道で繋がれた。大陸横断鉄道は西部開拓政策の尖兵でもあった。
 1862年に制定されたホームステッド法は、西部に移住し5年以上そこで耕作に従事すると宣誓した者に対し160エーカー(およそ64ha=19万坪)の土地を僅か10ドルで売却するというもので、この法律を利用しておよそ30年間に60万世帯、250万人が西部に移住した。1870年からの40年でミシシッピ河以西の人口は600万から2600万に増加している。こうした西部開拓を舞台とした移民や無法者について以前は西部劇映画などでよく取り上げられたが(ワイアット・アープ、ビリー・ザ・キッドなどのガンマンが有名)、最近少ないですね。
 白人の西部(フロンティア)開拓によって、移民・アメリカ政府と先住民のインディアンとの摩擦が激化した。西部のインディアンは粘り強く抵抗したが、結局降伏を余儀なくされ、狭い居留地に押し込められた。1890年のサウスダコタ州ウーンデッド・ニーにおけるインディアン虐殺によって抵抗は完全に制圧され、同じ年、アメリカ政府は「西部のフロンティアはまもなく消滅する」と発表した。1891年、ホームステッド法は廃止された。

 西部開拓とは別に1867年、アメリカはロシアからアラスカを720万ドルで購入した。ロシアは1791年にはアラスカを正式領有していた。ところが森とツンドラに覆われたこの地は、人口が希薄な上産物といえばラッコのなど動物の毛皮くらいで、実入りも少ない割に維持費がかかり、ロシアはもてあましていた。720万ドルというと1haあたり5セントという格安価格だが、売却交渉を担当した国務長官ウィリアム・シュワードは批判され、不毛の地と見なされたアラスカは「シュワードの冷蔵庫」と揶揄された。しかしのちに豊富な鉱物資源や石油が発見され(1913年には8100万ドルの収益)、さらに第二次世界大戦後のソ連との冷戦でアラスカは最前線として計り知れない戦略的価値をもつことになった。
 なおこの1867年というのはアメリカ周辺の国でも大きな変化があった年であった。アラスカを得て大陸国家を目指すアメリカの圧力に対抗して、北隣のイギリス領カナダは連邦を形成して自治領となった。また南隣りのメキシコではフランスが支援していた帝政が倒され、アメリカの支援を受けた共和派のベニト・フアレスが大統領に復帰している。また太平洋を挟んだ向かい側の日本ではこの年大政奉還が行われている。

 1891年のフロンティア消滅とホームステッド法廃止は、「内部帝国主義」の終焉を示すものだった。急成長する経済力、そしてその象徴である通貨ドルを武器とした「ドル帝国主義」は1890年代から外向きに変化していく。
 1895年、中米でスペインが保持していた最後の植民地であるキューバで叛乱が起きた。この叛乱にはアメリカ人義勇兵が多く参加していた。発行紙数増加を目指すジョセフ・ピュリッツァー、ウィリアム・ハーストなどのジャーナリストが所有するアメリカの新聞は、スペイン当局の残虐性をことさらに強調して報道合戦を繰り広げ、反スペイン感情が醸成された。そんなさなかの1898年2月、キューバのハヴァナ港に停泊していたアメリカ軍艦メイン号が爆沈する。アメリカ世論はこの爆沈をスペインによるものと決め付けて沸騰(実際は事故によるものと思われる)、戦争を望む声が高まった。メディアによるミスリードは今に始まったことではない。
 当時の大統領ウィリアム・マッキンリー(第25代、共和党)は戦争には消極的だったが、世論の圧力に押されてスペインに最後通牒を突き付け開戦した。アメリカは海軍増強に力を入れ始めており、キューバ、そして西太平洋のフィリピンなどのスペイン植民地を占領した。4ヶ月で戦争は終わり、パリで締結された講和条約によってキューバの独立が認められる一方、アメリカによるフィリピン、グアム、プエルト・リコの領有が定められた。
 またこの米西戦争に従軍し有名人になったセオドア・ルーズヴェルト元海軍次官はマッキンリー大統領の副大統領に指名され、1901年にマッキンリーが無政府主義者に暗殺されると史上最も若い42歳で第26代大統領に就任した。彼はいまふうにいえば「メディアの寵児」で個人的人気が高く、20世紀を予見させるものといえるだろう。

 このパリ条約と同時に、既に実質アメリカ支配下にあったハワイも正式に併合された。ハワイは1795年にカメハメハ大王による統一が行われた独立国だったが、現地のアメリカ人が組織したクーデターが起き、最後の女王リリオカラニは1895年に退位させられていた。フィリピンやハワイの領有でアメリカは太平洋に強固な地歩を築くことになったが、これは同じく太平洋に領土を求めたドイツとの関係冷却を招いた。アメリカにはドイツ系移民が多く、ドイツとは長らく友好関係にあったのだが、アメリカと同様19世紀後半に経済が急成長し、1871年の統一以来海外進出を目指していたドイツとは経済的な競合関係になっていた。
 太平洋に進出したアメリカの目はまもなく中国に注がれた。1899年にジョン・ヘイ国務長官は「門戸開放宣言」を行って中国市場への門戸開放・機会均等と領土保全を提唱し、中国市場に割り込もうとした。満州占領を続けるロシアに対しては、1904年に起きた日露戦争で日本寄りの姿勢を示し、翌年のポーツマス講和会議で仲介役を果たした(これにより1906年にルーズヴェルト大統領はノーベル平和賞を受賞)。しかし主に中国をめぐって日本との関係は徐々に悪化していく。
 アメリカの「ドル帝国主義」は太平洋では植民地支配という形をとったが、中南米では経済力をもって行われた。キューバを保護国化(1902年)する直前の1897年には、南米ヴェネズエラと英領ギアナとの国境紛争に介入している。この紛争は建国以来の敵対もしくは疎遠だったイギリスとの接近をもたらした。
 イギリスとの接近の結果、1901年にはパナマ運河建設がアメリカに委託された。太平洋・大西洋の両方に面するアメリカにとりこの計画は重要だった。1903年にアメリカの介入でパナマがコロンビア連邦から独立、運河地帯をアメリカ支配下に置くことに成功し、直後に運河建設が始まった。1914年にパナマ運河は完成し、ニューヨーク~サンフランシスコ間の航路は60%短縮された。
 アメリカは政情不安な中南米諸国にたびたび介入し、1912年にはニカラグア、1915年にハイチ、1916年にはメキシコ及びドミニカの内紛に派兵している。1910年には汎アメリカ連合が創設されたが、これはアメリカによる中南米支配の名分となった。


2005年07月20日
アメリカの歴史(7) 第一次世界大戦と「ビッグ・ビジネス」の時代

 1912年の大統領選挙では、民主党のウッドロウ・ウィルソン(ニュージャージー州知事)が共和党の現職ウィリアム・タフト、そして共和党から脱退したセオドア・ルーズヴェルト前大統領を破って当選(第28代)を決めた。共和党の内紛に乗じた勝利であり、むしろ政権基盤は脆弱だった。ウィルソンは歴代大統領で唯一博士号(政治学)をもち、プリンストン大学の学長を務めた学究で、その掲げる政策は進歩主義的国内改革だった。
 当時のアメリカは19世紀後半からの産業社会化・経済成長による大きな社会変化を迎えていた。都市への人口集中が進んで農村人口を上回るようになり(1920年)、ニューヨークの人口は500万人を突破したが、貧富の差が拡大してインフラ整備が追いつかずスラム化が進み、都市部の貧困層は惨めな生活を余儀なくされていた。ウィルソンの妻エレンはスラム街の生活改善に尽力していたが、過労のため1914年に急死している。
 また社会通念・価値観も変わろうとしていた。都市化や機械化、中間層の形成、核家族化も関係するが、女性の教育機会が増えて職場などへの社会進出が目立つようになり(1910年からの20年で5倍)、それに伴い離婚率も増加した(1900年の12組に1組に対し、1920年には9組に1組)。
 こうした社会問題解決の為にウィルソンは就任当初から保護関税の引き下げ、累進課税の導入、連邦準備制度(中央銀行)の創設、幼年労働の禁止などの施策を次々に打ち出し、ある程度成功させている。しかし1914年8月にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦は、ウィルソンのこうした内政上の功績を霞ませてしまうに十分だった。ウィルソンは1921年まで二期8年在任するが、任期の多くが未曾有の世界大戦と重なっている。

 世界大戦の勃発後、アメリカは即座に局外中立を宣言した。南北アメリカ大陸に専念し、複雑なヨーロッパの紛争に巻き込まれまいとする従来のモンロー主義によるもので、ごく当然の決定と思われた。既にアメリカの国力はイギリスとドイツの合計よりも上回っており、戦争に首を突っ込む必要も無かった。ヨーロッパの資産家は資産を安全なアメリカに移し、アメリカは未曾有の好景気に見まわれた。アメリカは連合国(英仏)寄りの姿勢を示しつつ中立を保つ。
 一方で、モンロー主義を掲げるアメリカにとって座視できない事態が「裏庭」ともいうべき隣国メキシコで進行していた。1910年、26年間独裁を続けていたポルフィリオ・ディアス大統領に対して選挙不正をきっかけに反乱が起き、翌年ディアスは亡命してメキシコは内乱状態に陥り、続く7年間で大統領が14人交代する混乱ぶりだった。
 既にウィルソンの前任者タフトは資産と在留邦人保護のためにメキシコに軍艦を派遣していたが、1916年にはアメリカによる敵対勢力への支持に反発したフランシスコ・パンチョ・ヴィラがアメリカ領内に越境攻撃を加えたため、アメリカは懲罰のために陸軍を派兵するに至った。この作戦は得る所無く撤兵している。アメリカはまた、この世界大戦中にハイチやドミニカ、キューバの内紛にも派兵している。先行きの見えない世界大戦のさなかにあって「裏庭」での不安定要因除去が目的だった。なおメキシコ内戦は1920年に一応の収束を見る。
 1916年の大統領選選挙では、ウィルソンはヨーロッパでの戦争への不参加を掲げて再選された。そんなアメリカ世論を変化させたのは、1つにはドイツ潜水艦による無差別攻撃であり、1915年5月には既にイギリス商船ルシタニア号の撃沈事件で128人のアメリカ人が犠牲になっていた。またアメリカは参戦する1917年4月までに23億ドルもの資金を連合国に貸し付けており(一方対独貸付けは僅か2700万ドル)、連合国が勝たなければこの貸付金の回収が難しくなるという見通しやドイツへの嫌悪感から、徐々に連合国側での参戦が論じられるようになった。
 1917年1月、ドイツ参謀本部は停止していた無差別潜水艦戦を再開、さらに同月ツィンマーマン電報事件が起き、アメリカ世論は一気に硬化する。ドイツ外相アルトゥーア・ツィンマーマンが、メキシコに対してアメリカ領土の割譲を条件にドイツ側での参戦と日本のドイツ側への寝返り画策を打診した電報が、イギリス諜報部に傍受され暴露された事件である。「裏庭」への介入を許さないアメリカは2月にドイツとの国交を断絶、4月に宣戦布告した。
 アメリカは当時わずか12万の陸軍を常備するに過ぎなかったが、選抜徴兵制を急遽導入して300万人を動員し、100万人をフランスに派遣した(その他日本と共にシベリアに出兵)。未熟なアメリカ軍はフランスでの訓練ののち前線に投入され、第1次世界大戦の最終局面で大きな役割を果たすことになった。この大戦でのアメリカ兵の死者は11万5千人だった。

 ロシアが革命によって連合国から脱落したのちの1918年1月、ウィルソンはドイツ側に戦争終結のための「14か条の提案」を発表、秘密外交の禁止、自由貿易、軍縮、植民地保有の規則化、民族自決(ポーランド独立やオーストリア・オスマン両帝国支配下諸民族の自治)、ドイツ軍占領地域の原状回復などを条件とした。ドイツは同盟国陣営の崩壊、西部戦線の後退、そして帝政の瓦解後にこの提案を受諾したが(1918年11月)、既に時機を逸しており英仏から敗戦国の扱いを受けることになる。
 1919年1月からパリのヴェルサイ宮殿で開催された講和会議は、勝者と敗者の和平交渉ではなく、敗者に対する懲罰案検討の場と化した。アメリカ大統領として史上初めてヨーロッパを公式訪問し会議を仕切ったウィルソンは、14か条の提案を元に理想主義的な公明正大を主張したが、戦勝国フランスがドイツに対する強硬姿勢を崩さず、むしろ生真面目で策略に欠けるウィルソンは振り回された。その結果ドイツにGNP20年分に相当する非現実的な賠償金、屈辱的な軍備制限や国境線の変更を強いるものとなり、ドイツ側の抗議も聞き入れられず6月に調印された。アメリカは英仏に貸し付け戦費の返還を求めており、英仏はドイツからの賠償金でこれをまかなう肚だった。
 この会議では同時に、ウィルソンが構想した国際連盟の創設が具体化され、ヴェルサイユ条約の第1条に盛り込まれた。紛争調停機関として平和を維持する使命を負うこの機関はしかし、戦争終結で急速に孤立主義に回帰するアメリカ国内では理解を得られなかった。過労からウィルソンは1919年に倒れて半身不随となり満足に演説が出来ず、翌年3月に上院でヴェルサイユ条約批准はあえなく否決された(ドイツとは1921年に個別講和)。これにより国際連盟は提案国にして最有力国であるアメリカの参加を欠いたまま出発することになり、その機能不全は最初から定まっていた。
 ウィルソン政権の最末期、二つの憲法追加条項が可決された。一つは1918年に追加された禁酒規定(酒類の製造、販売、輸送を禁止)、もう一つは1919年に追加された婦人参政権である。婦人参政権は女性の社会進出を反映したものだが、禁酒法のほうは理想主義者ウィルソンらしいとんだ置き土産として(もっとも、制定に熱心だったのは議会のほうだったが)、1933年の廃止までアメリカ社会に暗い影を落とすことになる。ウィルソンは退任の3年後に68歳で死去した。

 理想主義・道徳的だったウィルソンの民主党政権への反動から、1921年からは三期連続で共和党が政権を担当した。「正常への回帰」をモットーに当選した第29代ウォレン・ハーディングは、在任中に閣僚の汚職が絶えず「史上最悪の大統領」呼ばわりされている。その急死を受けて1923年にカルヴィン・クーリッジが第30代大統領に昇格した。
 1920年代のアメリカ社会は、第一次世界大戦から続く未曾有の好景気の一方で、ストライキや労働争議が頻発し、ロシアのような共産革命が起きるという恐怖感から世情は騒然としていた。さらに禁酒法によって酒の密売で利益を得たマフィアが跋扈する、華やかながら暗さを伴う時代となった。
 1920年代のアメリカは、大衆社会の到来でもあった。ヘンリー・フォードが開発した流れ作業による大量生産方式によって自動車が安価に大量生産されるようになり、既に1923年にはアメリカ国内に1300万台の自動車が走り、その数は6年で倍になった。大量生産は購買・消費社会への転換をもたらした。
 自動車の他に大衆社会を象徴したものはラジオだった。1920年に世界で初めてピッツバーグで定期的なラジオ放送が開始され、1922年には全米で564局に増えていた。大統領クーリッジは極端な寡黙で知られたが、その彼がラジオの前で演説した史上最初の大統領になった。ラジオの聴衆は中継される野球の試合、特に1927年に60本塁打を放ったベイブ・ルースの活躍に熱狂した。人々はラジオから流れる、ニューオーリンズの黒人音楽に起源をもつジャズの虜になり、また商品宣伝に購買意欲を掻き立てられた。
 こうした大衆社会は偶像を欲する。1927年に大西洋無着陸横断飛行に成功し、ニューヨーク凱旋の際400万の群集に迎えられたチャールズ・リンドバーグなどは、この時代を代表する英雄だろう。上記のベイブ・ルースや、「ジャズの都」シカゴのマフィアの顔役アル・カポネなどの動向に、大衆は我が事のように興奮した。娯楽として映画産業も発展し、1927年には最初のトーキー映画が製作され、1929年にはアカデミー賞の授与が始まり、同年ミッキーマウスの第1作アニメ映画「スチームボート・ウィリー」が公開されている。
 こうした大衆社会の陰で、アメリカ南部では1915年にク・クルックス・クラン(KKK)が再建され、1924年にはその加盟者が500万人に達し、黒人やユダヤ人、移民などの排斥を叫んだ。また西海岸では日系人排斥運動が起き、特定国の移民を制限する移民割当法が制定されるなど(1921、24年)、アメリカの保守・排外主義が活発化した時代でもあった。1925年に学校でのダーウィンの「進化論」の教育を禁止する判決がテネシー州で出されたのはその反映ともいえる。

 経済面では、共和党政権(大富豪アンドリュー・メロンが一貫して財務長官を務める)は高関税を設定して国内産業、特に大企業を保護したが、一方で農業は顧みられず、砂嵐による砂漠化と機械化(1916年、フォードによるトラクターの大量生産開始)による人員削減、そして市場投機に左右され低落する農産物価格によって、農民は疲弊した。ジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」(1939年)はそうした世相を背景にしている。 
 外交面では1922年のワシントン軍縮会議で、列強海軍の主力艦の比率を規定して建艦競争を防ぐと共に日本に対する優位を確実なものとし、日英同盟を破棄させ、また中国に青島を返還させるとともに満州での日本の特殊権益を認めた石井・ランシング協定をも破棄し、太平洋及び中国をめぐるライヴァル・日本を封じこめ、外交的に完勝した。
 1929年には米仏の主導で多国間による不戦(ブリアン・ケロッグ)条約を締結して、国際問題の平和的手段による解決・武力行使の忌避を誓い、世界最大の経済大国アメリカの繁栄は、世界平和の中で保障されるかに見えた。

 1928年、ニューヨーク株式市場で史上最高値を記録した。その年第31代大統領に当選した共和党のハーバート・フーヴァーは、苦学して富豪になった善意の人かつプロテスタントという「典型的」アメリカ人と見なされ、8割もの選挙人を得る勝利だった。彼は「小さな政府」と景気維持のため税の引き下げを公約し歓迎された。アメリカ人の誰にも、この繁栄がいつまでも続くと思われた。
 その楽観は1929年10月24日の株価大暴落(「暗黒の金曜日」)で打ち砕かれた。過剰な設備投資と生産、ヨーロッパ諸国の復興による需要の減少、成長に比して低い賃金水準による国民の購買力低下、高関税政策と不安定な金本位制による貿易の不安定などがその原因といわれる。
 恐慌はたちまち全世界に波及し、アメリカでは失業率が20%を越え、3年で工業株価は10%程度にまで、工業生産は53%、貿易は35%にまで落ち込んだ。フーヴァーは高関税で国内産業を保護しようとしたが却って逆効果となり、無能の烙印を押されて一期でその座を追われた。


2005年09月15日
アメリカの歴史(8) ニューディールと第二次世界大戦

 1932年11月の大統領選挙では、民主党のフランクリン・デラノ・ルーズヴェルト候補(ニューヨーク州知事)が、現職のフーヴァー大統領(共和党)を大差で破った。1929年から続く経済恐慌に有効な対処ができなかったフーヴァーは不人気で、国民には「フーヴァーで無ければ誰でも良い」という空気があった。ルーズヴェルトは「ニューディール」(新規巻きなおし)を公約に掲げて当選し、どん底のアメリカ経済再生が至上命題だった。
 ルーズヴェルトは当時50歳。ニューヨーク州のオランダ系の名家に生まれた彼が19歳のとき、同族で従兄弟にあたるセオドアが第26代大統領に就任している。妻のエレノアもセオドアの姪にあたる。弁護士、州議会議員ののちセオドア同様海軍次官を務め、1920年の大統領選挙では民主党の副大統領候補となったが落選する。翌年小児麻痺にかかり生涯車椅子生活を余儀なくされたが、闘病ののち州知事に当選し、ついに第32代大統領の座を射止めた。
 ルーズヴェルトは1933年3月に就任するが、その2ヶ月前、同じく経済恐慌にあえぐドイツではナチスが政権を獲得しアドルフ・ヒトラーが首相に就任している(翌年大統領を兼任し総統を名乗る)。ルーズヴェルトは結局前人未到の四選を果たし(1951年の憲法修正により現在は三選禁止)、1945年4月の急死まで12年間在任することになるが、奇しくも同月、ヒトラーはソ連軍包囲下のベルリンで自決する。世界恐慌から世界大戦へと至る時代に強力な指導力を発揮し、ついには激突することになる二人の任期はほぼ重なっている(なおこの間日本では首相がのべ13人交代した)。そして、経済恐慌対策という就任当初の課題も、それに対する全体主義的な経済政策という点でも共通している。

 ルーズヴェルトが就任最初の100日にしたことは、不良債権を抱える銀行の閉鎖で、連邦準備制度(FRS、他国でいう中央銀行に近い)と連動した「健全な」銀行のみの存続を許可した。さらに金兌換の停止、ドルの50%切り下げ、農家や地主の債務支払い軽減など思い切った施策だった。
 ニューディール政策の柱となったのは、1933年のテネシー川流域公社設立(TVA)及び全国産業復興法(NIRA)、1935年の農業調整法(AAA)である。それらを一口で言えば、従来の「小さな政府」に対して「大きな政府」を目指したもので、市場任せだった経済を国家が一部統制し、また国民福祉を政府が管理するという手法である。
 TVAは前任者フーヴァーが既に行っていた公共事業による雇用拡大政策をさらに推し進めたもので、テネシー川流域にダムを建設し治水・灌漑、電力開発や土壌流出防止を目指した地域開発プロジェクトだった。NIRAは企業に対して生産規制や公正競争を強いる一方で労働者の最低賃金や最長労働時間を保障させ、生産と国民購買力の適正バランスの国家の監督による維持を目指した。AAAは綿花やタバコなどの作付けを制限する一方で、余剰生産物を政府が買い上げて農民の保護と購買力回復を目指した。
 1935年にはニューディール第二期として雇用促進局の設立、労働者に対する団体交渉権・ストライキ権の保障、失業保険・寡婦年金・老齢年金などの整備を行った。
 このような政策には議会の反発があり、また1935年にはNIRAが最高裁判所によって憲法違反と裁定され、ルーズヴェルトは度々妥協を余儀なくされる。そのためかニューディール政策は掛け声の割になかなかその効果を表わさず、最大の課題である失業率は就任当時の25%からは下がったものの依然として高く(1937年は14%)、またアメリカがGNPを1929年のレベルに回復するのは1940年になってからだった。唯一成功したのは農業部門で、1937年までの4年間で農民の収入は1.5倍になった。
 総統として独裁権力を手に入れたドイツのヒトラーは、強力な全体主義的・統制経済的手法で公共投資を拡大、失業問題を劇的に解決して国民の圧倒的な支持を得たが(その一方国債の濫発で債務が増大)、民主主義国アメリカでそれは望むべくもなかった。しかしルーズヴェルトはラジオを通じて分かり易い言葉で国民にその政策の目的を説明し、また従来の大統領にない指導力で行政の長として振舞ったためその支持率は高く(妻のエレノアもいわゆる「ファーストレディ」の嚆矢となった)、1936年の大統領選挙では選挙人の98%を得る圧倒的勝利で再選された。
 この二期目には最高裁判所改革と党内反対派の押さえ込みを目指したが、反発を招いて1937年の小不況(失業率が19%にまで悪化)後の中間選挙で共和党の勝利を許すことになる。

 国内経済政策を公約の筆頭に掲げて登場したルーズヴェルトだが、世界恐慌後のブロック経済化もあり国際情勢は先鋭化しつつあった。既に1931年には満州事変が勃発し、日本軍が中国の東北部を占領し満州国を建国したが、これは20世紀初頭から一貫して中国市場の門戸開放・領土保全を主張していたアメリカの外交政策に真っ向から反するものだった。国際的な非難を浴びた日本は1933年に国際連盟を脱退する。この日本の膨張政策に対し、1934年にルーズヴェルト政権はロシア革命で成立した社会主義国・ソヴィエト連邦を国家承認し(列強中では最も遅い)、日本への牽制役として期待した。
 一方アメリカが自らの「裏庭」とする中南米諸国に対しては「善隣外交」と呼ばれる態度で臨み、保護国化していたキューバやハイチから手を引き、一方でバティスタ(キューバ)、トルヒーヨ(ドミニカ共和国)、ソモサ(ニカラグア)といった親米的な独裁者を支援した。1938年のリマにおける汎アメリカ会議では、南北アメリカ諸国の団結が謳われた。同年、アメリカは植民地フィリピンに対して10年後の独立を約束している。
 アメリカは1935年に中立法を制定して交戦国への武器輸出を禁止していたが、1937年に入るとヴェルサイユ体制に反して膨張政策を続ける日本・ドイツ・イタリア(同年この三国は防共協定を締結)との対決姿勢を明確にしてこの法律を緩和する(中国に対し軍事支援)。特に1937年10月の「隔離演説」では日中戦争の渦中にある日本を非難し、侵略国家は国際社会から隔離すべし、と主張した。1938年のミュンヘン会談(ドイツのチェコ侵略)でヨーロッパ情勢が一気に緊張すると、アメリカは軍備増強路線に転換する。

 1939年、ドイツのポーランド侵攻に対し英仏が宣戦布告、第二次世界大戦が勃発した。アメリカは中立を宣言するが、及び腰だった第一次世界大戦の時と異なり、ルーズヴェルトはヨーロッパ情勢に多大な関心を寄せていた。1940年、ドイツがフランスを降し緊迫する戦況を受けて、ルーズヴェルトは異例の三選を目指して大統領選挙に立候補する(大統領は二期で引退する慣例だった)。ヨーロッパでドイツに対して孤軍奮闘するイギリスを援助すべしと主張する共和党候補に対抗してイギリスへの援助策を発表、また共和党員を要職につけてこれを取り込み、56%の得票で三選された。
 1941年に入るとイギリス支援を本格化し、まず1月に「四つの自由原則」演説をしてファシズム諸国との対決姿勢を闡明し、3月にはレンド・リース法を制定してイギリスへの無償軍事援助(ドイツの無差別潜水艦戦に対抗し、商船保護のため駆逐艦50隻を供与)への道を開いた。6月にドイツ軍がソ連に侵攻すると、レンド・リース法をソ連にも適用した。7月にはドイツ海軍に対抗する根拠地としてイギリス占領下のアイスランド及びグリーンランドに進駐、10月にはアメリカ駆逐艦がドイツ潜水艦に撃沈される事態に至る。この年にはアメリカ史上初めて一般徴兵制が施行され動員体制も整えられた。また1941年8月には大西洋上でイギリス首相ウィンストン・チャーチルと会見し、民主主義の原則を確認し、また無力化した国際連盟に代わる戦後の国際平和維持機関設立を定めた大西洋憲章を発表している。
 ルーズヴェルトはヨーロッパ戦線に関心を持ちイギリスに肩入れしていたが、ドイツとの開戦は国内の反対もあって踏み切れなかった。一方日本は快進撃を続けるドイツとの間で1940年に日独伊三国軍事同盟を締結しており、同年の日本による北部仏印(仏領インドシナ)進駐や、その前年のアメリカによる日米貿易協定破棄もあって、日米関係は一挙に悪化した。
 1941年4月にソ連の三国同盟加入を見越して日ソ中立条約が締結されたが、2ヶ月後にドイツがソ連に侵攻すると、寝耳に水の日本は北進(対ソ戦)と南進(資源供給地である東南アジアでの勢力拡大)の間で揺れたが、結局自活のため南進に決し南部仏印に進駐する(7月)。これに対しアメリカは態度を硬化させ在米日本資産の凍結や石油・鉄鋼など戦略物資の対日禁輸に踏み切った。事態打開を目指して日米交渉が続いたが、アメリカ側は原則論に則って中国からの撤兵や三国同盟の破棄を要求した(ハル・ノート)。日本側はこれを最後通牒と受け取った。
 ただルーズヴェルトは太平洋での早期開戦を望んでいたとは思えない。というのはアメリカが大量に建造中の戦艦や航空母艦が竣工するのは1942年後半と見こまれており、それまで開戦を引き延ばした方が有利である。日本に比べGNP比12倍の国力をもつアメリカにとって、時間は味方だった。

 1941年12月7日未明、日本海軍機動部隊がハワイの真珠湾軍港を空襲し、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えた。日本側の宣戦布告文書手交が遅れた為、この攻撃は「卑怯なだまし討ち」とされ世論は沸騰、議会は僅か一票の反対という圧倒的多数で日本との開戦を支持した。直後に日本と同盟関係にあるドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告し、第二次大戦は文字通りの世界大戦となった。
 アメリカは「民主主義の兵器廠」を自負してその産業を兵器増産にシフトし、1943年には全ての産業が軍需動員庁の監督下に置かれたが、その結果14%もあった失業率が劇的に下がり、特に太平洋沿岸で都市人口が増加、また1500万人(国民の11%)が兵士として動員されたため国内産業での女性やマイノリティ(黒人)の社会進出をもたらし、離婚率が16%から27%に増えている。一方で11万人の日系アメリカ人(うち三分の二はアメリカ生まれ)及び南米諸国に住む日系人2千人が敵性市民として強制収容された。この過去についてアメリカ政府が謝罪したのは1982年、補償は1988年である。
 開戦当初はアメリカ側の戦争準備が十分間に合わなかったため、太平洋で日本軍の進撃を許し米領フィリピンやグアム島を占領された。また大西洋ではドイツ潜水艦が跋扈しアメリカ商船を攻撃していた。しかし1942年後半にアメリカ軍は北アフリカやガダルカナル島に上陸し反撃を開始する。兵器生産が最高潮(50億ドル以上)に達した翌1943年には、イタリアに上陸してムッソリーニ政権を崩壊させ、太平洋では孤島に分散する日本軍を破り、また日本の商船団を徹底的に攻撃した。1944年にはドイツ軍占領下のフランスに上陸してこれを解放、太平洋ではフィリピンをほぼ奪還し、大勢は決した。
 ルーズヴェルトは1944年7月に、ブロック経済への反省とアメリカ主導による戦後の世界経済体制を想定してブレトン・ウッズで45ヶ国(その多くはアメリカの軍事援助を受けていた)による会議を主催し、国際通貨基金(IMF)や世界銀行の設立を決めた。同年彼は大統領選に出馬して四選を果たしている。
 アメリカ軍がライン河を越え、沖縄に上陸し、日独両国の都市が徹底的な空襲でほぼ灰燼に帰して連合軍の勝利が目前となっていた1945年4月12日、ルーズヴェルトは脳溢血に倒れそのまま死去した。63歳だった。即日副大統領のハリー・S・トルーマンが昇格し第33代大統領に就任した。ソ連軍によってベルリンが陥落し、ヒトラーが自殺してドイツが降伏するのはその3週間後、広島と長崎にアメリカの新兵器・原子爆弾を投下され、ソ連にも裏切られた日本が降伏するのはその4ヶ月後のことである。
 この大戦でアメリカ軍はヨーロッパ戦線で17万人、太平洋戦線で12万人の死者を出した。民間人の死者はドイツ潜水艦に撃沈された商船の船員など6千人だった。第一次世界大戦とは対照的に、この大戦で主導的役割を果たしたアメリカは、戦後の世界で指導的役割を演じることになる。


© Rakuten Group, Inc.