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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

スペイン史(1) 前近代

2006/08/28
スペインの歴史(1) 原始からイスラムの征服まで

 スペイン(エスパーニャ)は面積50万平方キロ(日本の1.3倍)、人口4400万人(日本の約1/3)の、ヨーロッパ大陸西端の国である。
 スペイン、ポルトガル両国があるイベリア半島は南北850km、東西1000km強で、3000m級の山が聳えるピレネー山脈によって北隣のフランスと画されている。またイベリア半島の南端にあって最も狭いところで幅14kmしかないジブラルタル海峡は、地中海と大西洋を隔てる要衝であり、対岸はもはやアフリカ大陸(モロッコ)になる。かつてフランス皇帝ナポレオンは「ピレネー以南はアフリカである」と喝破したと伝えられるが、その当否はともかく、スペインがその辿った歴史や環境によって地続きのフランスとは大きく異なる雰囲気の国であることは否めない。
 スペインは緯度でいえば北海道中部から東京辺りまでになるのだが、北大西洋海流などの影響でかなり温暖な気候となっている。イベリア半島の中央部には山脈がいくつか走り、中央部のカスティージャ(カスティリア)地方は比較的乾燥した丘陵地帯であるのに対し、北部のガリシア及びバスク地方は降水量の多い大西洋気候、また地中海岸のカタルーニャ地方とアンダルシア地方は地中海性気候であり、それぞれ植生が異なっている。この気候の多様性が地方性やヴァリエーションの豊かなスペイン料理を生み出した。
 スペインはイベリア半島本土の他、地中海に浮かぶバレアレス諸島、大西洋にあってモロッコ西方にあるカナリア諸島、そしてアフリカ大陸北岸のセウタ及びメリジャに飛び地を領有している(逆にジブラルタルは1704年以来イギリスの主権下にある)。これは15世紀以降に成立したスペイン海上帝国の名残りであるが、その最大の遺産はむしろ、現在スペイン語が中南米を中心に3億人以上の母語とされ、数え方によっては中国語や英語に次いで世界で三番目に巨大な人口を擁している事実だろう。
 一方でスペイン本土の中では、フランスに接するバスク(エウスカディ)地方とカタルーニャ地方は独自の言語を保持し(特にバスク語はインド・ヨーロッパ語族ですらない孤立した言語である)、スペイン語(=カスティージャ語)と共にその地方で公用語となっている。先日(2006年6月)住民投票でカタルーニャ州のさらなる自治権拡大が決められ、また過激なバスク独立運動を続けてきたETA(「バスク祖国と自由」)は今年3月に無期限停戦を宣言、6月にスペイン政府はETAとの交渉を開始すると発表したばかりである。

 スペインで最古の人類の痕跡は、1994年にグラン・ドリナ洞窟で見つかった85万年前の人骨で、西ヨーロッパでは最も古い。人類揺籃の地であるアフリカ大陸に近いことを思えば不思議ではない。後期旧石器時代の洞窟壁画も各地で発見されており、とりわけ約1万5千年前の野牛の絵が色鮮やかに残っているアルタミラ洞窟(スペイン北部)が著名であろう。
 西アジアで始まった農耕・牧畜は、地中海沿岸部(カーディアル文化)を経由して紀元前4700年頃にイベリア半島に伝わった。紀元前4000年頃からは巨石墓文化(アルメリア文化)、そして紀元前2600年頃から鐘形土器文化(ロス・ミジャレス文化)が始まるが、これらの文化は西ヨーロッパと共通するものであり、北アフリカからドイツに至る広い地域を越えた文化交流が想定されている(イベリア半島を起源と考える説もある)。
 紀元前2200年頃、やはり東方から地中海経由で冶金術が伝わって青銅器時代が始まるが(エル・アルガル文化)、伝統的な巨石墓が作られ続けた。

 紀元前1000年頃、現在のレバノン海岸部にあった都市国家を原郷に持つフェニキア人たちは地中海全域に漕ぎ出した。彼らはアフリカ北岸(チュニジア)にカルタゴ市を建設し、さらに西方のイベリア半島南岸に至ってガディル(現在のカディス)やマラカ(現マラガ)などの植民市を建設した。銅や銀、錫といったイベリア半島の豊富な鉱物資源入手が彼らの目的であったろう。のちにギリシャ人もこの交易・植民競争に参入したが、鉱物資源の豊かな国として彼らに知られたタルテッソスはスペイン南部にあったとされる。
 フェニキア人たちは様々な東方の文物をスペインにもたらしたが、その中で最大のものはオリーヴの栽培だろう。現在スペインは世界最大のオリーヴ生産国になっている。またブドウ栽培(ワイン醸造)やニワトリもフェニキア人がもたらしたようだが、こちらはそれぞれ現在世界4位・6位である(ちなみに最近日本でもスペイン原産のイベリコ豚が話題になっているようだが、養豚は世界4位)。さらにスペインの代名詞である闘牛すらもフェニキア人がもたらしたという説がある。ローマ時代の「ヒスパニア」という地名の転訛である「エスパーニャ」(スペイン)という国名の語源さえも、フェニキア語の「イシャパニム(イワダヌキの地)」に由来するという(バスク語起源説もある)。
 一方フェニキア人たちが入植した頃には、既にイベリア人と呼ばれる原住民が居た。いうまでもなくイベリア半島の語源であるが、インド・ヨーロッパ語族に属しておらずアフリカ起源説さえある彼らは、現在のバスク人の祖先であるとも言われている。イベリア人はフェニキア人やギリシャ人に影響されながらも独自の文化を保持した(「エルチェの貴婦人」と呼ばれる石像はその傑作である)。また紀元前5世紀頃にはピレネー山脈を越えて北方からケルト人が流入してイベリア人と混合したらしく、ケルト語の碑文や地名が残されている。

 紀元前7世紀以降、フェニキア本国がアッシリアやペルシアといった西アジアの大帝国に支配され独立を失うと、都市国家カルタゴは自立し、イタリア半島北部に居たエトルリア人と組んで西地中海の制海権を得た(紀元前540年)。しかしその後も、商売敵のギリシャ人との衝突を繰り返すことになる。
 それに介入したのがイタリア半島の新興国家ローマである。ギリシャ人に味方したローマは紀元前261年に第一次ポエニ戦争で初めてカルタゴと激突し、勝利した。敗れたカルタゴが目を付けたのがイベリア半島南部の開拓で、その鉱物資源による収入でローマへの賠償金を前倒しで支払った。さらにイベリア半島支配の拠点として紀元前227年にカルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)を建設する。
 カルタゴの復興を恐れたローマは紀元前218年に再び戦争を仕掛ける(第二次ポエニ戦争)。カルタゴの将軍ハンニバルはイベリア半島を拠点に戦備を整え、アフリカ象を引き連れてイタリアを転戦、ローマを苦しめたが、大スキピオ率いるローマ軍が紀元前206年までにイベリア半島南部を制圧するや戦局は逆転、再びローマの勝利に終わった。カルタゴは大スキピオの甥・小スキピオによって紀元前146年に滅ぼされた。
 イベリア半島ではローマ帝国が領土拡張を目指してイベリア人・ケルト人と硬軟織り交ぜた和戦を繰り返したが、小スキピオは紀元前133年にケルト人の根拠地ヌマンティアを攻略した。その後も抗争は続いたが、紀元前19年までにイベリア半島はほぼローマ帝国の版図に組み入れられた。
 ローマ人は盛んに都市や水道を建設し、その結果住民のローマ化が進み、のちにラテン語から現在のスペイン語が発達することになる(ただ半島北端の住民はローマ帝国に従属せず、彼らの子孫が現在のバスク人であるという)。ヒスパニアと呼ばれたイベリア半島は、その豊かな鉱物資源や農業生産でローマ帝国の中心地の一つとなり(ローマ人が愛好したガルム=魚醤の主要な産地でもあった)、ローマ帝国の最盛期(2世紀)を現出したいわゆる五賢帝のうち4人までがヒスパニアに出自をもち、また文人セネカもコルドバの出身である。 
 3世紀頃には住民の間にキリスト教が広まった。これもまた地中海起源の文化を象徴するものだろう。

 さしものローマ帝国も数世紀を経て揺らぎ、分裂傾向になるが、4世紀末からそれに乗じてゲルマン系の諸部族が次々と帝国西部に移動して来る。いわゆる民族大移動であるが、スペインにやって来たのはバルト海沿岸に居たスエビ族、ポーランド辺りに居たヴァンダル族、そしてルーマニア辺りに居た西ゴート族である。スエビ族はスペイン北西部(ガリシア地方)に定着したが、409年に来住したヴァンダル族はすぐに後続の西ゴート族に追われ、アンダルシアという地方名にその名を残すのみである。
 西ゴート族は初めトゥールーズ(フランス南部)に都し、王であるエウリッヒはゲルマン族で初めてラテン語による成文法を制定した(470年)。507年にフランク族に敗れるとピレネー山脈以北の領土を失い、トレドに遷都した。この王国は王と貴族の権力闘争で弱体化し、この内戦につけこむ形で551年にはイベリア半島南部を東ローマ(ビザンツ)帝国に一時的に奪われた。
 こうした危機の中、西ゴート族は当初三位一体を認めないキリスト教アリウス派だったものを589年にローマ・カトリック派に転じ、ラテン系住民との融和が図られた。これ以降のスペイン史を通じ、キリスト教会は政治上無視できない要素となっていく。654年には西ゴート族とラテン系住民に共通の法が制定され、西ゴート族は先住のラテン系住民に同化され言語学上は姿を消していくことになる。現代の公用語であるスペイン語やカタルーニャ語はラテン語から発達した言語である。

 7世紀にアラビア半島で興ったイスラム教は、一世紀足らずでイランから北アフリカまでを制覇した。北アフリカにあったウマイヤ朝の将軍ターリク・イブン・ズィヤードは西ゴート王国の内戦に乗じ、711年にアフリカ大陸との間の狭い海峡を渡ってイベリア半島に上陸した。かつてギリシャ人に「ヘラクレスの柱」と呼ばれていたその場所は、彼の名に因んでジェベル・アル・ターリク(ターリクの山)、訛ってジブラルタルと呼ばれるようになる。
 アラブ軍は西ゴート軍を破って王国をその滅ぼし、718年までにウマイヤ朝はイベリア半島の大部分を征服したが、北西のガリシア地方では西ゴートの残党を率いたペラヨによる抵抗が続き、アストリアス王国が樹立された。
 アラブ軍の北上は続き、732年にはピレネー山脈を越えてフランス南部にまで及んだ。北上するアラブ軍をフランク王国の宮宰カール・マルテルが撃退したのが世に名高いトゥール・ポアティエ間の戦いであるが、その後繰り返された攻防でフランク王国は概ねアラブ軍をピレネー山脈以南に撃退することに成功した。ウマイヤ朝はコルドバに総督を置いてイベリア半島を支配した。
 750年、シーア派の反乱をきっかけにウマイヤ朝が倒れ、アッバース朝がカリフ(イスラムの教主)の地位に就くが、ウマイヤ家の生き残りであるアブド・アッラフマン(1世)はシリアからスペインに逃れ、756年にコルドバを都とする後ウマイヤ朝として分離独立する。アッバース朝は討伐軍を派遣するが撃退された。これは祭政一致で統一されていたイスラム世界の分裂の始まりでもあった。
 スペインでは後ウマイヤ朝に心服しない者も多く、サラゴサ総督イブン・アラービーもその一人で、当時西ヨーロッパに覇権を樹立していたフランク王国に救援を求めた。フランク王カール大帝は778年にピレネー山脈を越えてスペインに侵入したが、ロンスヴォーの戦いでウマイヤ軍に敗れた。この出来事に取材したのが、十字軍時代の11世紀に成立した叙事詩「ローランの歌」である。
 四方に精力的な遠征を続けたカール大帝は、後ウマイヤ朝の内紛に乗じて803年にもスペインに遠征しているが、ピレネー山脈を越えるのは困難であり、バルセロナ周辺を領するスペイン辺境伯を置いてウマイヤ朝と講和した。このスペイン辺境伯領と上述のアストリアス王国こそが、キリスト教勢力のイスラム教勢力に対する戦い、いわゆるレコンキスタ(「再征服」)の出発点となっていく。



2006/09/12
スペインの歴史(2) イスラムの盛衰とレコンキスタ

 822年に即位した後ウマイヤ朝第4代のエミール(首長)、アブド・アッラフマン2世は、文化振興に力を注ぎ、アンダルシア地方はアッバース朝の都があるイラクと共に、イスラム文化の中心となった。文学や芸術を愛好した彼は、コルドバに音楽院を設立した。
 スペインの伝統楽器の一つにギターがあるが、その起源は中東の弦楽器ウードにあるという(ただし「ギター」の語源はキタラという古代ギリシャの楽器にあり、地中海世界に広く分布する楽器である)。彼の治世下、領内のキリスト教徒が多くイスラムに改宗し、アラビア語がイベリア半島の文化語として定着した。キリスト教徒にとっても、既に読める者が少なくなっていた聖書がアラビア語に翻訳され、内容を理解できるようになった。彼の死後(852年)、キリスト教徒の内乱が頻発して王朝は一時的に衰退した。
 912年、第8代エミールにアブド・アッラフマン3世が歳若くして即位する。彼は内乱で分裂した国をまとめ、北アフリカのファーティマ朝(シーア派)との対抗上929年にカリフ(イスラム教スンニ派の教主)を自称した。彼の治世は後ウマイヤ朝の絶頂期といわれ、イスラム文化が花開き都市が興隆した。首都コルドバは戸数11万、モスクの数600といわれ、人口は少なくとも30万、イスラム世界ではイラクのバグダードに次ぐ大都市であり(ヨーロッパ大陸最大の都市でもあった)、アルカサル宮殿を筆頭に壮麗な建築物で飾られていた。
 宰相アビ・アミル・アル・マンスールは彼の後継者たちをよく輔弼してバルセロナやアストリアスなどのキリスト教国を征服したが、1002年の彼の死後、後ウマイヤ朝は再び内乱に陥って20以上の小首長国(タイファ首長国)に分裂、1031年に滅亡した。こうしたイスラム教国側の内紛により、キリスト教諸国の反撃を許すことになった(後述)。

 1085年、キリスト教のカスティージャ王国に主要都市トレドを奪われると、危機感を抱いたイスラム首長は北アフリカのムラービト朝に援助を要請、イベリア半島の南半分はムラービト朝の支配下に入った。ムラービト朝ははるか南方、現在のモーリタニア(アフリカ)に興ったイスラム神秘主義教団に起源をもつ王朝で、厳格なイスラム教徒であったこともあり、領内のキリスト教徒やユダヤ教徒にはその支配を嫌ってキリスト教国に移住するものもあった。そうした者の中に古代ギリシャ・ローマ古典や聖書のアラビア語注釈に通じた者もおり(聖書注解学のアブラハム・イブン・エズラなど)、彼らの影響によって西ヨーロッパにいわゆる「12世紀ルネサンス」が興ったのはなんとも皮肉な結果であろう。
 ムラービト朝は当初こそキリスト教徒を撃退したが、イベリア半島の在地首長との抗争を繰り返して弱体化、アラゴンやカスティージャといったキリスト教国の攻勢を受け、1147年に北アフリカのベルベル人王朝であるムワッヒド朝に倒された。やはりイスラム教団を母体とするムワッヒド朝もイベリア半島に支配を及ぼしてキリスト教徒と戦ったが、やがて当初の宗教的情熱は薄れ、求心力を失った王国は分裂し1269年に滅亡した。なおアリストテレス注解でヨーロッパのスコラ学に多大な影響を与えたムハンマド・イブン・ルシュド(アヴェロエス)はコルドバの出身で、ムワッヒド朝に宮廷医師として仕えていた。
 1238年にナスル朝がムワッヒド朝から離反してグラナダに都したが、他のイスラム首長国はムワッヒド朝の混乱に乗じたキリスト教国に次々と征服され、ナスル朝はイベリア半島の南端に僅かにへばりついた格好でイスラム最後の牙城となった。ナスル朝は王国の存続のためカスティージャ王国に従属し、貢納を強いられた。巧みな外交で生き延びたナスル朝は、14世紀後半のムハンマド5世の時に最盛期を迎えた。彼はグラナダにあるアルハンブラ宮殿(その名に反し赤ではなく白い宮殿である)を現在残る姿に整備した。北アフリカのチュニス出身で、官僚として諸国を転々としたのち祖先の地アンダルシアに渡って彼の寵臣になったイブン・ハルドゥーンは、失脚ののち著述に専念して「歴史序説」を著し、イスラム世界最高の歴史家として知られる。
 しかしナスル朝をとりまく情勢は徐々に悪化、1492年1月2日、最後の王ムハンマド12世はスペイン王国(カスティージャとアラゴンの連合王国)に降伏してグラナダを明け渡し、北アフリカに亡命した。1502年、スペインは領内のイスラム教徒に改宗令を出し、イベリア半島におけるキリスト教とイスラム教の共存状態は幕を閉じ、メスキータ(モスク)は教会に改修された。ムハンマドの預言以来拡大を続けたイスラム教にとっては初の失地であり、アル・アンダルス(アンダルシア)という地名は過去の栄光と哀しみを意味するものである。
 イスラムは姿を消したが、その文化はスペインに濃厚にその姿を残している。例えばスペイン語で砂糖をアスーカル、米をアルーズと言うが、それぞれアラビア語(スッカル、ルッズ)に由来し、その栽培もアラブ人の到来と共にもたらされ、中世ヨーロッパでは唯一の生産地だった。スペインの名物料理として日本でもおなじみのパエージャ(パエリヤ)は、その材料である米もサフランもアラブ人が持ち込んだものであるし、その名前すらアラビア語起源(「残り物」を意味するバキーヤ)という説もある(ただし、「鍋」を意味するラテン語に起源するという説が一般的)。

 「レコンキスタ」というスペイン語は、日本語で「再征服」あるいは「失地回復」と訳される。これは概ね8世紀から15世紀にかけて、キリスト教徒によるイベリア半島におけるイスラムとの戦いと定義され、十字軍と共に宗教あるいは文明の衝突として理解されている。しかし実際のところ、キリスト教徒側もイスラム教徒側もそれほど統一的に相手に対抗したわけではなく、同教徒を討つために異教徒と手を結ぶことは頻繁に行われた。
 レコンキスタ最大の英雄とされ叙事詩に謳われた騎士エル・シド(ロドリゴ・ディアス)が良い例で、史実では1081年に主君であるカスティージャ王アルフォンソ6世に追放されたとき、彼はイスラム教徒であるサラゴサ侯アル・ムタミンの庇護を受けて傭兵隊長となり、キリスト教徒の軍隊と戦っている(のちにヴァレンシア領主としてムラービト朝の攻撃を防いだ)。レコンキスタが一連の連続する宗教戦争であるという見方は、ローマ教皇あるいはスペイン王家によって行われた政治宣伝を鵜呑みにしているというべきだろう。
 レコンキスタの起点となったのはイベリア半島北端の山岳地帯で、西ゴート族の残党を名乗るアストリアス王国と、フランク王国のカール大帝による遠征の結果設置されたスペイン辺境伯領である。9世紀になると、アストリアス領内のサンティアゴ・デ・コンポステーラでキリスト教の聖人ヤコブの墓が見つかったと宣伝され(ヤコブが処刑されたのはパレスチナである)、キリスト教意識が高められた。なお聖ヤコブはレコンキスタの象徴としてスペインの守護聖人となり、同地も巡礼地となった。
 アストリアス(914年に首都の名に因んだレオンと改名)の東部はイスラム軍の攻撃を防ぐため多くの城塞が築かれたが、それがカスティージャという地名の起こりとなる。のちレオン王国からブルゴスを都とするカスティージャ(1035年)とポルトガル(1139年)の両王国が分離する。一方スペイン辺境伯領にはナヴァラ、アラゴンなどの王国が成立した。

 1008年に後ウマイヤ朝が分裂状態になると、それに付け込む格好でこれらの各王国は南方に版図を拡大した。カスティージャは1085年にトレドを奪取したが、文化都市トレドの占領により、アラビア語の知識(数学・化学・哲学)がユダヤ人などによってラテン語に翻訳され、その刺激が西欧における「12世紀ルネサンス」の契機となった。1208年にはパレンシアにイベリア半島で最初の大学が設立されている。
 一方アラゴンは1118年にサラゴサを占領、さらに1137年にはカタルーニャ公国と統一して地中海に進出する。この拡大には同時期に始まった十字軍運動も影響しており、騎士団が結成されて「異教徒との聖戦」のためにフランスやドイツから多くの騎士が馳せ参じた(最近ニュースでよく聞くような話である)。
 1185年にムワッヒド朝がカスティージャ軍に勝利すると、ローマ教皇インノケンティウス3世はキリスト教徒の結束を呼びかけた。これに応じた騎士がピレネー山脈を越えて参集し、また互いに抗争を続けていたイベリア半島のキリスト教国が連合した。1212年、ラス・ナヴァス・デ・トロサの戦いで連合軍はムワッヒド軍を撃破した。
 1224年にムワッヒド朝で内紛が起きると、各国はそれぞれに攻勢を始め、アラゴンはヴァレンシアを征服(1238年)、1230年にレオンと統一したカスティージャはコルドバ(1236年)やセヴィージャ(1246年)といったアンダルシアの主要都市を攻略、1251年にはついにジブラルタルに達し、イスラム勢力はイベリア半島南端にナスル朝が僅かに残るのみとなった。ナスル朝はカスティージャの属国となり、宗教の異なる国家間の抗争状態は事実上終了した。キリスト教国内のイスラム教徒は都市の特別地区に移されて課税された他、奴隷にされる者もあった。

 イスラム勢力には勝ったものの、人口の2割を奪ったペストの流行(1349年)もあって各国は疲弊した上、貴族の発言権が強かったカスティージャでは隣国アラゴンも巻きこむ内乱が発生してレコンキスタどころではなかった。アラゴンはさらなる活路を東方の地中海に求め、1235年にバレアレス諸島、1282年には「シチリアの晩鐘」事件(イタリア人の対仏反乱)に乗じてシチリア島を奪い、1326年にはジェノヴァとの抗争の末サルデーニャ島も支配下に収め、1442年にはナポリに上陸してイタリア南部を領有し、西地中海での制海権を確立した。一方カスティージャは北アフリカのマリーン朝による侵攻を撃退し(1340年)、英仏百年戦争のさなかのフランスと結んだりした。
 こうした状態は、1474年にイサベルがカスティージャ女王に即位することで変化した。ポルトガル王子との結婚を拒んだ彼女は1469年に自ら選んだアラゴン王太子フェルナンドと結婚しており、フェルナンドはイサベルの共同統治者となった(1479年にはアラゴン王に即位)。これに反対するフランスやポルトガルの攻撃を撃退したのち、1479年に両国はこの夫妻の下での統合が宣言された。統一スペイン王国の誕生である(正確にはバスク人のナヴァラ王国を1512年に併合することで統一が完成)。
 両王は統一のため中央集権的な法律や国家制度、そして教会(イサベルの摂政を務めたトレド司教ヒメネス・デ・シネロス枢機卿の影響)などの様々な改革に取り組んだが、その中でも1481年に異端審問の改革が行われて国家組織の一部となり、スペインはきわめて厳格なキリスト教国となり、ユダヤ人やイスラム教徒に対する風当たりが強くなった。もともと国家の成り立ちからして教会の影響が強かったが、新たな統一国家として団結するには敵を作ることは都合の良いことだったろう。
 イベリア半島の最南端に残っているイスラム国家を滅ぼすことは、こうした政策の当然の帰結である。スペインは1482年にナスル朝への攻撃を開始、1492年1月、ナスル朝は滅亡した。ここに実質的には200年前に終わっていたレコンキスタの完了が宣言された。イスラム教国への攻撃は北アフリカにも及び、メリジャやオランなどを占領したが、このうちメリジャは現在もスペイン領である。こうした功績によって両王はローマ教皇アレクサンデル6世により「カトリック王」の称号を授けられた。
 このキリスト教化の完成と共に、当時スペインに16万人住んでいたユダヤ人(マラーノ=豚と呼ばれていた)、またモリスコあるいはムーア人と呼ばれるイスラム教徒はスペイン国家によりキリスト教への改宗を迫られ、北アフリカやオスマン帝国(トルコ)、北イタリアに移住するものが相次いだ。


2006/09/17
スペインの歴史(3) 「陽の沈まぬ帝国」の光と影

 スペインやポルトガルはイスラム勢力との戦いで制海権を得るために、15世紀には大西洋上の島に支配を及ぼしていた。ポルトガルはさらに探検を進めてアフリカ航路を発見し(1487年に喜望峰に到達)、さらにその向こうのインドへの道を切り開き、アフリカでの黄金や奴隷交易、さらに当時ヴェネツィアやイスラム商人に独占されていたインド洋の香辛料交易に参入しようとしていた。カナリア諸島を領有したものの、スペインは一歩出遅れた。
 ここにクリストフォロ・コロンボ(コロンブス)というイタリア人の航海家がいた。地球は丸いという学説を信じた彼はポルトガル王の許に赴き、大西洋を西に進めばインドに到達出来ると力説した。しかしアフリカ周りのインド航路(東進)が実現化しつつあった当時、ポルトガル王はコロンボに取り合わなかった。次いでコロンボはスペイン女王イサべルを訪ねた。アフリカ航路をポルトガルに独占されていたスペインにとって、コロンボの案は画期的である。
 レコンキスタ完了直後の1492年8月、コロンボは3隻の船団でスペインを出航して西に向かい、61日後にカリブ海のサン・サルヴァドル島に上陸、さらにキューバやハイチを発見した。コロンボは原住民から得た珍奇な品を携えて帰還し、アジアに到達したと主張した。喜んだイサベルはコロンボを副王に任じてさらに三度の航海を支援したが、のちのアメリゴ・ヴェスプッチの航海によってインドではなく未知の「新大陸」であると分かり、彼の名に因み「アメリカ」と名づけられる。
 この成功は同時に、インド航路を独占しようとしていたポルトガルとの紛争となった。世俗的なローマ教皇アレクサンデル6世(スペイン貴族ボルジア家の出身)は調停に乗り出し、1494年に大西洋上のポルトガル領アゾレス諸島の西方370レグア(西経46°)で両国が世界を分割するというトルデシジャス条約を締結させる。これによりポルトガルがブラジルを領有したのに対し、スペインは残りのアメリカ大陸の開拓を独占することになった。

 スペインによる地理学上の発見は続き、1513年にバスコ・ニューネス・デ・バルボアがパナマ地峡を横断してヨーロッパ人として初めて太平洋に到達、そして1519年に出航したフェルナン・デ・マガリャンイス(=マゼラン。彼自身はポルトガル人)のスペイン船団は2年かけてついに西回りでの世界周航に成功した。
 アメリカ大陸にはモンゴロイド系の先住民が居て独自の文化をもち、特に中南米には都市や国家をもつ文明が栄えていたのだが、火器や騎兵をもち詭計に優れたスペイン兵の前には無力だった。コンキスタドールと呼ばれる冒険者によるアメリカ大陸の征服が続き、1521年には中米のアステカ帝国がエルナン・コルテスによって、1532年には南米のインカ帝国がフランシスコ・ピサロによって滅ぼされた。探検は北米にも及んだが、人口が希薄で荒漠なため放棄された。
 スペインは中南米に副王を置いて直接支配し、その産物を収奪した。とりわけスペイン人が目の色を変えたのは豊かな金銀である。インディオと呼ばれた先住民はスペイン語を習わされキリスト教化されると共に奴隷化され、農園経営や銀の採掘(1546年に採掘の始まったポトシ銀山が有名)に従事させられた(スペインによるアメリカ大陸での収奪を告発した司祭バルトロメ・デ・ラス・カサスの著作に詳しい)。「世界システム」とも呼ばれる、ヨーロッパを中心とした世界経済の一体化、あるいは中南米の従属経済の始まりである。
 さらに悲惨なことにインディオにはスペイン人が持ちこんだ天然痘や結核などの病気に対する抵抗力がなく、人口は激減した(逆に梅毒は南米起源である)。労働力を補うため1510年以降アフリカから黒人が奴隷として連行され、特に南米で白人・モンゴロイド・黒人の人種混交が進むことになる。
 南米からはジャガイモ、トマト、唐辛子、カボチャ、トウモロコシ、タバコなどの作物がもたらされ、貧しかったヨーロッパ人の食生活を大きく変えていく(逆にスペイン人はアメリカに麦や馬、羊、牛を持ち込んだ)。アメリカ先住民にとっては災厄以外の何物でもなかったろうが、世界史上画期的な出来事に違いない。

 カスティージャとアラゴンの両王国統一で成立したスペインにとって、当面の敵は以前から西地中海をめぐって対立していたフランスだった。そのフランスの最大の敵はオーストリアやオランダを領有し、神聖ローマ(ドイツ)皇帝の地位をもつハプスブルク家である。両国接近のため、1496年にイサベルとフェルナンド2世の次女フアナはハプスブルク家の王子・フィリップ美公と政略結婚した。
 ところがスペイン王家の子女が次々と夭折してフアナのみが残った。1504年にイサベルが死ぬとフアナはカスティージャ王位を継承し、フィリップが共同統治者となる。やがてフィリップが死にフアナが発狂したと宣言されると、ハプスブルク家とスペイン王家の領土は全て二人の長男であるカールが継承することになった。こうしてスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝・オーストリア王としてはカール5世)の下、スペイン、オランダ、イタリア南部、オーストリア、そして中南米などスペインの海外領土をもつハプスブルク家の巨大帝国が成立した。
 ドイツ語が苦手でスペイン人という自覚があった彼にとっての敵は、バルカン半島への進出を続けるイスラム教のオスマン(トルコ)帝国、選挙で神聖ローマ皇帝の地位を争ったフランス、彼の即位の翌1517年に始まる宗教改革で成立したプロテスタント(新教)、そしてドイツ国内の新教派諸侯たちである。神聖ローマ皇帝かつスペイン王という、カトリック教会の擁護者としての宿命的な地位を一身に負う彼は、これらの敵との戦いを続けた。
 彼のスペイン兵はオランダやイタリアでフランス軍と戦い、1525年にはパヴィアの戦いに大勝してフランス王を生け捕りにするなどして名声を得たが、オスマン帝国に対しては1529年にウィーンを包囲され、1538年にプレヴェザの海戦で敗れるなど守勢が続いた。
 度々勝利を収めたものの、新教派の勢いはとどまる所を知らずドイツ諸侯の抵抗は続き、またフランスとも和戦を繰り返して得るところは少なかった。ドイツ人にもスペイン人にもよそ者扱いされたカルロスは、オーストリア王と神聖ローマ皇帝の地位を弟のフェルディナンドに分与して1556年に退位し、2年後にスペインで死んだ。

 カルロスを継いでスペイン王となったのは、息子のフェリペ2世である。父と同じくスペイン王、ハプスブルク家、そしてカトリックの擁護者としての使命に燃えた彼は、まず首都を国土の中央にあるマドリードに遷し、自身は王宮・修道院・王家の廟所を兼ねた郊外のエスコリアル宮殿に起居した(宮殿にこもっていたため書類王と呼ばれる)。
 彼の政策の柱は貴族を抑えた中央集権・絶対王政の確立、そしてカトリック擁護のための戦いである。後者の目的のため、彼の治世下のスペインでは異端審問や魔女狩りが盛んに行われ、イスラム教徒やユダヤ教徒に対する締め付けが一段と厳しくなった。1568年にはグラナダでモリスコ(イスラム教徒)の反乱を招いている。
 こうした内なる敵の他、宿敵フランスとの対決が続き、同国内の内紛でカトリック派を支援して戦争を続けた。また地中海でのイスラム教のオスマン帝国との戦いも続き、オスマン帝国のキプロス島攻略に端を発したレパントの海戦(1571年)でオスマン帝国の艦隊を撃滅し、その攻勢を挫いた(この海戦にはのちに小説「ドン・キホーテ」を著わした作家ミゲル・デ・セルヴァンテスも従軍し、負傷している)。
 1580年には王家が断絶した隣国ポルトガルの王位も兼ね、フェリペの領土はヨーロッパの他、彼の名に因んで名づけられたフィリピン(1564年領有)やインド洋沿岸の港湾都市、そして中南米と世界中に広がり、「陽の沈まぬ帝国」と呼ばれた。

 日本に最初に到達したヨーロッパ人は、1543年に中国船で種子島に漂着したポルトガル人だったが(銃器が伝来)、東アジア海域に参入したスペイン人も、世界有数の銀産出国だった戦国時代の日本と多くの交渉を持った。
 中でも日本に初めてキリスト教を伝道したフランシスコ・ザビエルは著名だろう。彼はナヴァラ王国(1512年にスペインに併合)の出身でパリ大学に学び、そこで出会った同じバスク人のイグナチオ・デ・ロヨラと共にイエズス会を設立する(1534年)。当時ヨーロッパは宗教改革の最中で、危機感を持ったカトリック側でも改革運動が模索されており、イエズス会はその一つだった。海外布教のためザビエルはインドのポルトガル領に渡り、そこで日本のことを聞きつけ1549年に鹿児島に上陸した。彼の滞在は2年と長くなかったが、日本におけるキリスト教布教の基礎が確立された。
 その後日本におけるキリスト教信者数は40万人に迫り、1584年と1615年には日本の大名の使節がマドリードを訪問したりしたが、日本を統一した豊臣政権や徳川幕府はスペインの領土的野心を疑ってキリスト教を弾圧し、オランダと結んだ徳川幕府は鎖国の手始めとして1624年にスペインと断交した。

 フェリペ最大の敵となったのはイギリス(イングランド)である。イギリス女王メアリは政略結婚でフェリペの妃となりプロテスタントを弾圧したが、1558年に彼女が死んで異母妹のエリザベスが即位すると、フェリペの求婚を拒んだ彼女はイギリス国教会を中心とする反カトリック政策を始め、フランシス・ドレイクなどのイギリス艦船はスペインの交易船や植民地に対する海賊行為を続けた。
 さらに痛手となったのが、1568年に始まるオランダの独立運動である。プロテスタントが広まった市民社会であるオランダに、フェリペはカトリック(異端審問)の絶対王政支配で臨んだのである。当時オランダやフランドル地方(ベルギー)はヨーロッパ金融業や織物産業の中心地で、その税収は中南米植民地で得られる銀の7倍に上っていた。
 イギリスは果然オランダの独立運動を支援して英蘭両国の艦船によるスペイン商船や植民地への攻撃が続き、1581年にオランダは独立を宣言する。禍根を断つべく1588年、艦船130隻、陸兵2万7千からなるスペインの無敵艦隊(アルマダ)はイギリス遠征に向かったが、嵐による被害やイギリス艦隊との交戦で大打撃を受け、一敗地に塗れた。
 中南米植民地から流入する大量の銀はスペインに富をもたらしていたが、同時に「価格革命」といわれる猛インフレーションも引き起こしていた。こうした中でフェリペは戦争を繰り返して放漫財政を続け、足りない分は重税や貨幣の改悪で補おうとしたが間に合わず、何度も国庫破産が宣告された。経済活動の中心だったユダヤ人やイスラム教徒への弾圧も経済の悪化に拍車をかけた。厳格なフェリペの個性とは裏腹に、貴族や官僚には拝金主義が広まって汚職がはびこった。
 「陽の沈まぬ帝国」スペインの栄光は、既にフェリペの治世中に翳りが見えていたのである。1598年、フェリペは71歳でエスコリアル宮で薨じた。

 1621年に即位したフェリペ2世の孫フェリペ4世は芸術を愛好・保護したが(宮廷画家としてディエゴ・ヴェラスケスがいた)、一方で戦争好きでもあった。
 オーストリアと組んでハプスブルク家の世界帝国再興を目指した彼は、ドイツ三十年戦争に介入してオランダを攻撃したものの得るところ無く、1648年のウェストファリア講和条約でオランダの独立を認めさせられた。この間1640年にポルトガルとカタルーニャが分離独立(カタルーニャは1652年に再統合)、続くフランスとの戦争も1659年に敗北同然の和平に終わった。スペインの凋落は誰の目にも明らかとなり、ヨーロッパの覇権は「太陽王」ルイ14世のフランスに移る。
 フェリペ4世の子カルロス2世は病弱で、その治世下にスペインの内政はますます悪化した。人口は570万人にまで減少、中南米での収奪や重税にもかかわらず国庫は破産状態で、官僚や兵士の給料は遅配が続き汚職がはびこった。国内では貨幣経済から物々交換に後退したところもあった。
 1700年にカルロスは嗣子なく死去し、スペインにおけるハプスブルク家の支配は終焉した。芸術・文化が花開いたスペインの黄金時代の終焉でもあった。



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