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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

その2

ケルケネス・ダー 2004年06月29日(火)

 今日はうちでゆっくりした後、夕方研究所での講演に行く。
 講演はトルコの遺跡ケルケネス・ダー(Kerkenes Dag、「ダー」とはトルコ語で「山」の意味。「ケルケネス」はペルシアの叙事詩「シャー・ナーメ」に登場する英雄カイカウスの名が訛ったものという)での調査についてだった。講演者はアンカラにある中東工科大学の講師を務めるジェフリー・サマーズ博士。同氏はイギリス人で、かなりきついスコットランド訛りの英語を話すので、最初はチンピラかと思ってしまった。
 今日は英語での講演ということもあり、聴衆は露骨に少なかった。ドイツには日本に比べはるかに英語が出来る人が多いのだが、お年寄りには英語への拒否感が根強いらしい。

 僕はこの遺跡には数年前に行った事があるが、ものすごい巨大遺跡でびっくりしたことがある。また乗って行ったジープのギアが壊れてひどい目にあった。ここの調査隊はイギリス人主体だが、僕らのジープもイギリス製のランド・ローヴァーだった。しばらくはイギリス車を呪ったものだ。

 ケルケネス・ダーはトルコのほぼ中央部、ヨズガット市の郊外にある遺跡である。いくつかの山の稜線にまたがって走る城壁の跡が遠目にも見ることが出来るほどの大遺跡で、南北2.5km、東西1.5km、城壁の総延長は7kmにも及ぶ。これは日本の歴史でいえば藤原京(694年~710年)ほどの規模になる。
 かつての城壁や建物の礎石の上端が地表に露出しているのでその構造が容易に推測できる。7つの城門、50以上の塔、そして巨大な宮殿のような建物、城塞、人工的な貯水池などを備えた都市だった。城壁や城門は石を丁寧に高さ5m程にも積み上げたもので(この山自体が岩山なので石材には事欠かない)、高い技術の存在を推測させる。1993年に始まった調査ではレーダーを使った地底探査のほか、発掘も行われている。
 ただ不思議なことは、この「計画都市」は山上にあって居住にはかなり不便なこと(その証拠に、普通の都市遺跡ならば当然見られる複数の時代の痕跡が無い)、発掘しても生活の痕跡(土器片や獣骨、すなわち日常生活から出るゴミ)が比較的希薄なことである。

 問題はこの遺跡の年代である。ここ数年の発掘でフリュギア語(現在のトルコ中央部)の断片的な碑文などが出土しているが、古式ギリシア文字と共通の文字を使うフリュギア語は、未だ解読されていない。出土する土器などは漠然と紀元前7世紀から6世紀頃のものと考えられるのみである。近年出土した青銅製の飾り板や、グリフォン(竜のような怪獣)をあしらった浮き彫り片は東方のペルシア起源と見れなくも無い。
 建築を見てみると、前室をもついわゆるメガロン式の建築物や石を金属の鎹で留める技術は西方のギリシアやリュディア(トルコ西部)の影響を強く示唆している。一方で列柱の立ち並ぶ大広間をもつ宮殿は東方のアケメネス朝ペルシア(紀元前6~4世紀)や、古くは古代エジプトの宮殿形式を彷彿とさせる。
 城壁に囲まれた巨大な計画都市という点では、やはりトルコの地に栄えたヒッタイト文化を連想させる(ヒッタイト帝国の首都ボアズキョイ、後期ヒッタイトの都市遺跡であるギョルリュ・ダーやジンジルリ)。特にボアズキョイやギョルリュ・ダーは、山上という立地条件や生活の痕跡が薄い宗教的色彩を持った都市という点で酷似している。

 ここで注目されるのが、先日この日記で取り上げたヘロドトス(紀元前5世紀のギリシアの歴史家)の著書「歴史」である。その記述によれば、紀元前550年頃にメディア(現在のイランにあったという)王国を滅ぼしたペルシアの大王キュロスに対して、メディア王家と縁戚関係にあるリュディア(既出。現トルコ西部)王クロイソスは危機感を抱き、かつてのメディア領であり今はペルシアの手に落ちたカッパドキア(トルコ中央部)への侵攻を決意する。
 「歴史」巻1・76節を以下に引用する(松平千秋訳・岩波文庫)。
「クロイソスは軍隊とともに渡河し、カッパドキアのプテリアという地域に着くと―なおこのプテリアはこの地方においては最も要害堅固な場所で、黒海沿岸の町シノぺとほぼ同じ(南北の)線上にある―、ここに陣地を構え、シリア(カッパドキア)人たちの田畑を荒らし回った。クロイソスはさらにプテリアの中心都市を占領奴隷化し、また近隣の町々も全て占領して、何の罪も無いシリア人たちを立ち退かせてしまった。
 キュロスも自分の軍隊を集め、さらに通過する地域の住民をことごとく引き連れて、クロイソスに立ち向かった。(中略)・・・、両軍はこのプテリアの地区において、力と力の対決をすることになった。激しい戦闘となり、両軍とも多数の戦死者を出したが、結局勝敗決せず、日没と共に物別れとなった」
 なおクロイソスは結局キュロスに敗れ、リュディア王国は滅亡してクロイソス自身は火あぶりにされたとも、キュロスに近侍して生き長らえたともいう。これは紀元前547年の出来事とされている。

 ケルケネス・ダーの遺跡は、位置的にはシノぺ(現在のシノプ)の真南にあたり、また要害堅固さでは同時代のトルコのほかの遺跡の追随を許さない(かつてはボアズキョイがプテリアであると考えられていたが、20世紀の発掘調査で完全に否定された)。当然発掘者であるサマーズ氏はケルケネス・ダーはヘロドトスの伝えるプテリアであると考えている。発掘で焼土が出てきたこともその証拠となりうる、と主張している。
 しかし実際のところ、ケルケネス・ダーの都市がいつ建設され、またいつ放棄されたかは今のところはっきりとは証明し得ない。この時代の土器の研究はまだ進んでいるとはいえず、また一部の出土遺物はクロイソスよりも後のペルシア時代に属する可能性がある。
 さらに先日紹介した、ヘロドトス「歴史」の記述内容と中近東の楔形文字で書かれた粘土板文書の解読成果を突きあわせた限りでは、メディアという「イランから小アジアにまたがる大帝国」の存在はかなり疑わしくなってきている。その証拠にケルケネス・ダーではメディア(すなわちイラン高原)起源と思われる遺物がほとんど見られない。むしろ西方のフリュギアやリュディア系の遺物がほとんどである。
 ヘロドトスの中近東の歴史に関する記述は取り扱う上で一定の注意が必要となってきている。世界史の授業や資料集の最初のほうに登場する「オリエント四国並立の図」すなわちメディア、新バビロニア、リュディア、エジプトの勢力範囲図は、訂正されなければならない日が来るかもしれない。

 しかしいずれにしてもケルケネス・ダーという、謎に包まれた巨大都市遺跡の重要性は変わるまい。


 2005年01月15日 メディア王の誕生

 なんか紛らわしいタイトルだが、ここでいう「メディア」は「マス・メディア」のメディアではない(つまりハーストとかハワード・ヒューズとかベルルスコーニとか、ましてや「エビジョンイル」やナベツネの話ではない)。紀元前にイランに居た民族およびその国の名前である。
 「マス・メディア」の「メディア」はラテン語で「中間」を意味するmediumの複数形で、イラン山岳部に居て元来「マーダ」と呼ばれたメディア人とは関係ない。まあここ数日のメディアをめぐる議論からメディア王国を連想したというのと、今ちょうどメディア(イランのほうの)について調べ物をしているので、メモのつもりで書く。
 今まで何度か書いてきた「ヘロドトス「歴史」を読む」の続きでもある。王妃の裸を覗き見したのをきっかけに王になったリュディア王ギュゲスについて以前書いたが(「のぞきをして王になった男」。リュディアは現在のトルコ西部にあった王国)、今回の即位伝説はやや趣が異なる。

 メディア人というのはイラン高原に居た民族で、紀元前1000年頃までにイラン高原にやってきたインド・ヨーロッパ語族の一派である。言語的にはペルシア語に近いようだし、「イラン系」ということで総称される中に含まれることもある。
 ヘロドトス「歴史」の第1巻では、紀元前500年以降数度に渡ってギリシャに攻めこんできたペルシア人が、いかにしてアジア(中近東)の覇権を握ったかということが述べられるが、メディアの説明はそこで出てくる。ペルシア人以前にはアッシリア(今のイラク北部)人が「上アジア」、つまり小アジアより東のアジアの覇権を520年にわたり握っていたが、その支配はメディア人の離反で崩壊した、と記している。以下ヘロドトスの記述を引用する(松平千秋訳の岩波文庫版を利用)。

 ・・・メディア人はそれぞれ集落を作って生活しており、国家というものがなく不法行為がはびこっていた(ヘロドトスは詳しくは書いていないが、無法状態・弱肉強食ということだろうか)。
 さてメディア人にデイオケスという男が居た。彼は独裁者になることを夢見て、上のようなメディアの状況に鑑みて周囲と逆に正義を守ることに精励したという。もともとデイオケスは自分の集落では名望があったが、その名望を他の集落にも及ぼそうと努力した。
 人々はデイオケスが正義の人だというので彼を裁判官に選んだ。デイオケスはますます正直・公正に振るまい、彼の評判はメディア中で高まった。よその集落からもわざわざデイオケスに裁いてもらおうとやって来る者が増えた。ついにはメディア人たちはデイオケス以外の裁きを受けたがらなくなった。
 頃は良し、と見たデイオケスは、「もう自分は裁判の椅子には座りたくない、自分のことを放擲して隣人のために日がな裁判をしても何の得も無いから、もう裁きはしない」と宣言して引っ込んでしまう。たちまちどの集落でも無法状態が復活し、メディア人たちは困ってしまった。
 メディア人たちは集会を開いて善後策を協議したが、そのうちの一人が「このままでは我々はこの国には住めぬ。我々の中から王を選んで国を治めてもらおう。そうすれば我々は家業に励めるし、不法行為におののいて国を捨てることもしなくてよいではないか」と述べた(ヘロドトスはこの発言をしたのはデイオケスの息のかかった者と見ている)。人々はこうして王制の導入に賛成した。
 さて誰を王に選ぶかということになったが、誰もが公正なデイオケスを推奨してやまなかったので、彼が王に選ばれた。デイオケスは王にふさわしい宮殿を造営することと、王の地位を強化するため親衛隊をおくことを条件としてこの申し出を受けた。
 この結果首都アグバタナ(エクバタナ)が建設されて壮麗な城郭が築かれ、またデイオケスは自分の気にいった者を親衛隊として登用した。宮殿では彼は誰にも姿を見せず、政務は取次ぎの役人を通して処理されたという。これは王として振舞うデイオケスの姿を見れば、かつての同輩が不快に思い謀反を起こすだろうと危惧してのことだった。(余談だが、日本や中国では皇帝が自分を「朕」と呼ぶが、「朕」は日本語で「キザシ」と読める。つまり臣下にとって皇帝は感じるものであって直接見る対象であってはならない。この自称を始めたのは秦の始皇帝であるが、その500年前のデイオケスと合い通じるものがある。始皇帝は取り次ぎ役人たる宦官の趙高の専横を許し、またこの自称と裏腹に各地に巡幸して民衆に顔を見せたために、「彼、取って代わるべきなり」と考えた項羽や劉邦といった野心家の反乱を招くことになる)
 デイオケスは王として独裁を固め、治安・正義を守るためにきわめて峻厳な態度で臨んだという。また全国に密偵を巡らして不法行為がないか監視探知させた。デイオケスはメディア王位に在ること53年、死後は息子のプラオルテスが王位を継いだ。・・・
 ・・・プラオルテスはアッシリアの支配に反旗を翻し、プラオルテスの子キュアクサレスの代に、アジアを支配するアッシリアを破り全ての上アジアはメディアの支配下に入った。キュアクサレスの子アステュアゲスを倒してアジアを統一したのが、アケメネス朝ペルシアである。・・・

 支配者が公正や弱者保護(寡婦や孤児の保護)といった社会正義を掲げてその支配の正当性を主張・宣伝するのは、中近東(西アジア)では既にメソポタミア(今のイラク)に栄えていたシュメール人の時代、つまり紀元前三千年紀には行われていた。ヘロドトスのこの記述はそうした中東の伝統的支配理念を反映したものだろう(実現していたかどうかはともかく)。この伝統は今も中東に息づいていると思うのだが、フセイン政権などはいい例だが現実の政権はどうもえこひいきが過ぎるようだ。
 このデイオケスは実在の人物らしく、紀元前8世紀のアッシリアの記録には「ダイウック」という名前で出てくる。ダイウックは多く居たメディア人首長の一人で、アッシリアの宿敵ウラルトゥ(今のトルコ東部に栄えた王国)のルサ1世に息子を人質として送って援助を受け、45人の首長が団結してアッシリア帝国の侵略に抵抗したが、紀元前713年にアッシリアのサルゴン2世に敗れて捕虜となり、家族ともどもシリアのハマに流刑されたという。
 アッシリアの記録を見る限り、当時のメディアはヘロドトスの伝えるような統一王国ではなく、部族連合のようなものだったと分かる。ダイウックは部族長の一人に過ぎない。ダイウック=デイオケスが都したというエクバタナは現在のハマダンにあたると考えられているが、今も人が住むハマダンの市街地を掘り返すわけにはいかないので、いくつかの遺跡が調査されたほかはメディア王国の初期のことはよく分かっておらず、それに加えてメディア人は自身の文字史料を残していない。
 アッシリアの記録には、紀元前673年頃にカシュタリティ(ペルシア名フシャリスタ?)なる人物が諸侯に推戴されてカル・カッシという城塞を首都とするメディア人の王になったという記述があるそうだが、このカシュタリティはデイオケスの息子プラオルテス(ペルシア名フラワルティ)にあたるのではないかと考えられている。ヘロドトスのデイオケス即位に関する記述はむしろこちらに近い。
 世界史の教科書ではアッシリア滅亡(紀元前612年)後にエジプト、リュディア、バビロニア、メディアの四国が並び立って西アジアを分割支配した、と教わり地図も出てくるが、メディアについてはイランからトルコ東部を統一するような大帝国が存在したのかどうかは最近は疑問視されている。去年の夏に参加した学会ではアメリカの学者が「ヘロドトスが伝えているメディアの物語は、実際はウラルトゥの史実を反映しているものだ」と唱えていた。
 ただメディア人という民族集団が存在したのは間違い無く、のちにメディアを支配下において西アジアを統一しギリシャにまで攻めこんだアケメネス朝ぺルシア(紀元前550頃~330年)の時代には、メディア人は支配民族であるペルシア人と並んで貴族として重用されている。騎馬民族スキュタイ人と並んで騎馬戦を得意とする戦士集団だったようで、「アキナケス」と呼ばれる柄と刀身が一体造りの短剣は、スキュタイのみならずメディア人の風俗でもあるようだ。



 2005年01月23日 ミイラで得る幸福な来世

 ・・・・皆様こんにちは、わたくし「オシリス葬祭」営業部のランプシニトスと申します。この度はわが社のご奉仕について説明させていただきます。
 人間亡くなりますと、その魂である「カア」が口から出ていってしまいます。このカアはあちこちさまようのですが決して消滅することはございません。ましてやカアは時々遺体に戻って来ることもございます。昨今野蛮なギリシャ人が遺体を焼いて灰にしたり、傲慢なペルシア人が遺体を鳥に食べさせたりしておりますがとんでもないことで、このように遺体が無くなってしまうとカアの戻る場所が無くなってしまいさまよう事になってしまいます。そんなことでは故人のあの世(イアルの野)での幸福な暮らしは望むべくもありません。そのためにご遺体はミイラとして保存しておき、時々食べ物もお供えしなければならないのです。わが国エジプトではもう数千年もそうしております。
 イアルの野は一面の葦の原で、緑溢れ水量豊かなそれは素晴らしく美しい田園地帯です。故人はイアルの野で現世と同じように自給自足の悠悠自適な農耕に従事し、神々に親しく接しつつ永遠の生命を得ます。

 お葬式の手順ですが、ご不幸のあった家庭の女性の方々には顔に泥を塗ってもろ肌脱ぎになっていただき胸を叩きながら大声で泣いていただきます。男性も同様です。こうして死者への哀悼を示すのです。しめやかなムードを盛り上げる泣き上手な「泣き女」もこちらでご用意させていただきます。
 さて肝心のご遺体ですが、これは既に述べましたとおり腐ってなくならないよう、葬儀が終了しましたのち、専門職人の手でミイラに加工する必要があります。こちらに木製の見本模型がございますが、松竹梅3コースございます。
 「松」コースの場合、鼻孔から腐りやすい脳髄を刃物や薬品で取り出し、黒曜石で腹部を切開してこれまた腐りやすい内臓を取り出します。取り出した内臓は椰子油で清め別途壷(カノプス)に収めますのでご安心ください。心臓のみは故人の記憶や精神が宿る神聖な器官ですので防腐処置ののちご遺体に戻します。内臓を取り出した腹腔には防腐のため没薬と香料(肉桂と乳香を除く)を詰めて縫い合わせ、ご遺体を天然ソーダ(ナトリウム化合物)にきっちり70日間漬けます。
 こうすることで水分が抜かれて腐りやすい脂肪などは取り除かれ、肉体の保存率が良くなります。これが済みますとご遺体を取り出して洗い、亜麻布の包帯で丁寧に巻き、防腐のための蜂蜜を塗りさらに樹脂(天然ゴム)を塗りつけて真空パックして、ご親族にお引渡しということになります。ミイラを収める人型の木棺の料金もセット価格に含まれて居りますのでご安心ください。
 「竹」コースの場合、内臓を取り出す過程を簡易化するため注射器で薬品を肛門から流し込んで栓をし、全身を70日間ソーダ漬けにいたします。その後栓を取りますと溶けた内臓が流れ出ます。このコースでは、包帯を巻く作業以降をご遺族にご負担していただきます。「梅」コースの場合、下剤で腸内を洗浄するだけでソーダ漬けにし、その後の作業はご遺族の負担となります。このコースの場合、ご遺体が腐る多少のリスクがございます。
 先日ミイラ職人が死後間も無い美貌のご婦人の遺体に辱めを加えていたというショッキングなニュースがございましたが、わが社ではそのようなことを防止するため死後4日目以降にミイラ製作に取りかからせていただいております。なおナイル河で溺死もしくはワニに襲われた方のご遺体は神に属しますので、わが社ではお扱いいたしかねます。
 気になるお値段ですが、「松」コースが銅500デベン(1デベン=91グラム)、「竹」が銅200デベン、「梅」が銅100デベンのご奉仕価格となっております。
 愛するご家族とのお別れを演出し、故人の来世における永遠の暮らしを幸福なものとするために、我が「オシリス葬祭」に是非ともご用命くださいませ。
 なおイアルの野での農耕作業が面倒だという方のために、故人に代わり農耕に従事させるためのウシャブティ(像)のご用命も承っております。・・・・

 ・・・とまあふざけたことを書いてみたが、これはヘロドトス「歴史」巻2、85~90節に書いてある古代エジプトの葬送に関する記述をいじったものである。
 価格についてはヘロドトスは書いていないので、古代エジプトで雄牛1頭が銅50デベンしたという取引記録に基き、現代日本の牛1頭(去勢牛)の平均価格40万円を基準として、松竹梅それぞれ社葬規模・参列者100人規模・40人規模の葬儀の葬儀会社による設定平均価格に換算してみた。特に日本で高価なお墓の値段を考慮していないし、まあ「お遊び」なので当時と現代の物価の違いは言いっこ無しである(なお銅の生産量が桁違いな現代では、銅1デベンはおよそ30円くらいでしかない)。なおドイツでは墓地代も含めて葬送・埋葬におよそ50万円かかるらしい。
 現代の法律では遺体を埋葬せずミイラにしたら犯罪になるんだよなあ(一部の共産主義国のぞく)。そういや最近そういう宗教団体があったっけ(あれは「死んでない」と言い張っていたのだから違うか)。

 なんでこういう日記を書いたかというと、以下のニュースを見たためである。

(引用開始)
<ミイラ発見>エジプト・カイロの遺跡で 早大研究所が発表
 エジプト・カイロ近郊のダハシュール北遺跡を調査している早稲田大学エジプト学研究所は21日、約3750年前の古代エジプト中王国・第13王朝期と見られるミイラを発見したと発表した。未盗掘で、未破壊の完全な形で発見された例としては最古級という。保存状態は極めて良く、当時の墓制や宗教慣行など今後の研究に寄与しそうだ。
 ミイラを納めた木棺は今月5日、地下約5メートルで見つかった。棺には「セヌウ」という男性の名前と、行政官を意味する「アチュ」という称号が書かれている。ミイラは白い布で包まれ、顔を覆うマスクには青や赤、黒など鮮やかな彩色が残っている。ミイラ自体の調査はまだだが、装身具など豊かな副葬品があるのは確実という。
 ミイラや棺は副葬品目当ての盗掘で破壊された例がほとんど。しかし、今回は、棺を収めた穴の上部に岩が詰められていたことなどから発見されにくく、無事だった。
 会見した同大学の吉村作治教授(エジプト考古学)は「学史上重要な墓域の変遷の解明につながる。顔料や副葬品の産地分析が進めば、他地域との交易の様子も分かるはず」と話した。
 内田杉彦・明倫短期大学助教授(エジプト学)の話 保存状態のいい史料が少ない時代のものであり、貴重な発見だ。当時の宗教慣行などを知るうえで重要な手がかりになる。【栗原俊雄】(毎日新聞) - 1月21日20時23分更新
(引用終了)

 いやはや大発見だ。あれ、コメントを求められている内田さんて、去年酒席でご一緒したなあ。吉村先生も学会でお見かけしたことがある(とても忙しそうだった)。突っ込んだ質問をした聴衆(おじさん)に「それはご自分で調査なさってください」と答えていたのが印象に残っている。早稲田の調査隊には昔テレビ番組で高橋由美子や宜保愛子が参加していたが、宜保さんはともかく高橋由美子みたいなのが参加してくれたら調査も楽しいだろうなあ・・・・。
 ・・・さて、手元の本にはエジプトでミイラがいつ頃から作られ始めたのか書いてないが、乾燥したエジプトでは遺体が自然にミイラになることもあり、それを見たエジプト人が来世観と結びつけて人工的にやり始めたらしい。
 ミイラ作りは最初は王の独占物で、臣民は王に仕える事で永遠の生命の分け前に与るという考え方だったらしい。ところが第6王朝の崩壊で王権が失墜した第一中間期(紀元前2145年頃~)からミイラ作りは臣下にも広まり「大衆化」していった。ミイラを作れない貧乏人は「死者の裁判」の観念を発達させ、正しい行いをすれば肉体を失ってもあの世で永遠に暮らせると信じた。
 特に紀元前1千年紀に入るとミイラ作りは盛んに行われ(紀元前5世紀の人であるヘロドトスの記述は、この時代を反映している)、人間のみならず聖獣とされたワニ、トキ、猫などもミイラにされた。現在まで残り博物館に展示されているミイラのほとんどは、有名なツタンカーメン王より後の紀元前1千年紀のものである。ミイラ作りはキリスト教が広まる3世紀頃まで連綿と続けられ、特にローマ時代にはミイラの頭部に生前の肖像画を描いたマスクを載せるのが流行った。
 副葬された財宝目当てのみならず、ミイラは薬(漢方薬)になるというので、アラブ時代以降は盗掘されることも多かった。
 ヨーロッパ近代初期では死んだ王の心臓とかを取り出したりしているが、あれは古代エジプトの風習と何か関係するのだろうか(eugene9999さんによれば、ハプスブルク家に起源があるようです)。上にも書いたけど、共産主義国ではミイラ製作が絶対権力の象徴として今も健在ですね。


 2005年01月29日 ラクダvsウマ

 今日もヘロドトスの「歴史」からのエピソード。このところ騎馬民族に関して調べものをしているので、馬に関わるエピソード。「歴史」巻1の80節。
 ・・・紀元前550年、メディア人の支配を脱しイラン高原の支配者となったペルシア人の王キュロス(ペルシア語でクール)は、中東征服を目指して遠征を開始した。最初の標的は小アジア(現在のトルコ)西部を支配するリュディア王国で、その王はクロイソスといった。クロイソスは砂金による富裕でギリシャにも知られ、都市国家アテネで民主的な法を制定したソロンとの問答も有名である。
 クロイソスはキュロスに滅ぼされたメディア王家と縁戚だったのでペルシアに敵意をもち、エーゲ海沿岸のギリシャ人都市国家やスパルタと同盟して背後を固めた上で、紀元前547年、両国の国境だったハリュス川(クズルウルマック)を越えて侵攻した。ところが軍勢に住民まで引き連れて(これは遊牧民のことを指すのだろうか)立ち向かったキュロスに撃退された。クロイソスはいったん退却し態勢を立て直そうとした。
 ところがキュロスはクロイソスの裏を掻いて追いすがり、リュディアに侵入した。騎兵を軍隊の主力とするペルシア軍ならではの作戦だろう。ところがリュディア側も勇猛な騎兵で知られ、長大な槍を武器とするその騎兵の馬術は中東一とされていた。当時中近東にはウクライナやコーカサスに起源をもつ遊牧騎馬民族スキタイ人が傭兵として多く活躍していたようで、ペルシア人もリュディア人もスキタイの馬術を取り入れたのだろう。
 両軍はリュディアの首都サルディスの近くで対峙したが、整然と布陣する名高いリュディア騎馬軍団に、キュロスは恐怖を覚えた。そこでメディア人ハルパゴスの献策を入れて、陣中に駄獣(食料や荷物を運ぶ家畜)として多くいたラクダの荷を下ろし、騎兵をラクダに騎乗させて陣頭に並べた。
 翌朝、いざ戦闘が始まってみると、リュディア軍の馬はペルシア軍の先頭をきって駆けて来るラクダの臭いを嫌い、またその奇妙な姿や鳴き声を恐れて、騎手のいう事を聞かずに逃げ散ってしまった。得意の騎兵隊が戦わずして壊滅したリュディア軍は、馬から下りて懸命に戦ったが敗北した。サルディスは陥落、リュディア王国は滅亡し、クロイソスは火あぶりにされたとも、キュロスの側近として生涯を終えたともいう。・・・・

 本当に馬はラクダを怖がるのだろうか。まあラクダが臭いというのは本当らしいけど。馬というのは神経質な動物らしいから、ラクダを初めて見たら驚くかもしれない。
 ラクダというと童謡「月の砂漠」でお馴染みの、中東を代表する家畜と思われている。ただ僕は中東にはよく行くが、ラクダに乗ったことは一度も無い。現代の中東では人や物の運搬手段としては自動車、家畜ではせいぜいロバが主力で、扱いにくいラクダに無理に頼る必要が無いからである。
 僕はトルコやシリア、レバノンしか行ったことが無いので、サウジアラビアやエジプトなど砂漠地帯ではまた様子は違うのだろう。シリアやトルコの観光地には、鳥取砂丘みたいに観光客相手のラクダが居るには居る。
 
 ラクダにはヒトコブとフタコブの2種がいる。ラクダや馬は本来アメリカ大陸が起源の動物らしいのだが(馬はその後絶滅し、スペイン人が来るまでアメリカに馬は居なかった)、更新世にユーラシアに移動してきたという(人類とは逆の動きである)。現在家畜化されているヒトコブとフタコブの起源となる野生種については議論があったが、別々の野生種から家畜化されたというのが定説になっている。フタコブラクダの野生種は現在も中国とモンゴルの国境に細々と生存している。
 フタコブのほうは寒さに強いが暑さに弱くまた気性が荒く、駄獣としての利用に限られていた。ヒトコブは高温と乾燥に強いが寒さと湿気に弱いという、フタコブと相反する特徴がある。そのため20世紀になるまでヒトコブとフタコブの分布が重なることはほとんど無かった。ヒトコブは北アフリカ・中東、パキスタンまで分布し、フタコブはより高緯度の、コーカサスからモンゴルまでの中央アジアに分布している。
 他の家畜に乏しいアラビア半島ではヒトコブラクダは非常に重宝されてており、駄獣、騎獣としてのみでなく、その肉や乳も利用できる。ただしラクダは妊娠期間が長く2年に一度しか妊娠しないので繁殖が遅く、肉獣としての利用には向いていない(あと臭くて美味しくないという話もある)。
 なおヒトコブ・フタコブの両種を交配することも出来るそうだ。生まれた子供のコブは1個もしくは1個半で、ヒトコブよりも毛が長く寒さにも強く、また大きさも純血種の両親より大きくなり家畜として理想的だそうだ。ただ雑種同士の交配を続けると能力が劣るそうで(力が弱いということか?)、純血種と交配させるそうだ。トルコやイランのように高原で冬の寒さが厳しく湿気も多いところでは、こうした雑種が多く利用された。
  
 ラクダの家畜化はアラビア半島(ヒトコブ)とカスピ海東岸(フタコブ)でほぼ同時に、しかし別々に行われたらしい。その時期は紀元前3千年紀で、この時代は地中海沿岸でオリーヴの栽培が始まったことに象徴されるように「第2次農耕革命」ともいえる時代である。第1次農耕革命が生存に必要な食料である穀物や食肉獣の家畜化が中心だったのに比べ、第2次のほうは食生活や家畜利用の幅を広げる変化だった。「革命」と名づけているが、数世代かかってようやく実現したものだろう。
 乗り物としてのラクダが記録に現れるのは紀元前1千年紀になってからで、画像資料として残るのはテル・ハラフ(シリア)の浮き彫りが最古だという。アッシリアとシリアの諸侯連合軍が戦った紀元前853年のカルカル(シリア)の戦いではラクダに乗ったアラブ人の騎兵1000騎が参加している。これは間違い無くヒトコブラクである。この戦いに勝った(アッシリアの馬は驚かなかったのだろうか?)アッシリアの宮殿は北イラクにいくつかあるが、その宮殿の壁を飾った浮き彫り(紀元前7世紀)には、ラクダにまたがりアッシリア軍と戦うアラブ人の姿も表わされている。またフタコブラクダも描かれているので(バラワト門)、両種とも中近東に入ってきていたのは間違い無い。
 ヘロドトスの話に出てくるラクダはおそらくフタコブラクダだろう。現在のトルコ東部はアッシリア時代にはフタコブラクダの産地として知られていたからである。ただトルコ西部にあったリュディアの馬がラクダを見て逃げ出すというからには、あまり広まっていなかったのかもしれない。のちに建設されたペルシアの首都ペルセポリス(イラン)の壁の浮き彫りには、エジプトから朝貢されたヒトコブラクダも表現されている。

 フタコブラクダは中国には紀元前4世紀までには入ってきたという。唐代には西方趣味からフタコブラクダをあしらった焼き物が作られている。中国ではそれほど珍しい動物ではないのだろうか?
 日本には推古天皇の時代、599年9月に百済(朝鮮半島南西部)から贈られたという記録が「日本書紀」にあり、これが最古のようだ。数年後高句麗も贈っているというが、これらは当然フタコブラクダだろう。ただしその後もラクダは日本に馴染みが無かった。
 江戸時代にはオランダ商人が連れて来たが、浮世絵とかを見る限りヒトコブラクダのようだ。本来将軍への献上品だったのだが11代将軍家斉は受け取りを拒否(可愛くないからか?)、オランダ長崎商館長ヤン・コック・ブロムホフは長崎の馴染みの遊女にこのラクダのつがいを贈ったが、彼のオランダ帰国と共に香具師に売られて日本各地で見世物にされた(1823年)。首が鶴、背のコブが亀に似ているのでめでたい動物とされ、33文(現在の貨幣価値でおおよそ500円)という高額な見物料にも関わらず、見物人が押しかけて押すな押すなの大盛況だったようだ。群集の騒ぎに動じず悠然と寝たり食っているしているその姿から、鈍い人のことを「らくだ」と呼ぶようになり、落語のタイトルにもなっている。このラクダは寒さに耐えきれず北陸で斃死したという。


 2005年02月01日  酔っ払い使節始末記

 ペルシア人というと紀元前6世紀にイラン高原を拠点としてまたたく間にヨーロッパからパキスタン・中央アジアにまたがる大帝国を築き、紀元前330年にアレクサンドロス大王に滅ぼされるまで2世紀に渡って中東に覇を唱えた民族だが、「歴史」第1巻133節にはペルシア人の食習慣について興味深いことが書いてある。
 ペルシア人は自分の誕生日をとても大事にし、誕生日には動物を丸焼きにして盛大に食べるいわば「誕生日パーティー」をしていた。これは年変わりと共に自動的に全員一歳年を取っていた当時としては、とても珍しい風習だったようだ。
 またペルシア人は主食は僅かしか摂らないが、食後のデザートは食べきれないくらい食べるという。甘党ということかもしれないが(中東のおじさんは今も大の甘党である)、なんだかいかにも太りそうだ。ギリシャは作物に恵まれず、同じ物を大量に食べるだけの粗食だったから(今のドイツみたいだが)、これもギリシャ人ヘロドトスにはきわめて異様に見えたらしい。

 さて甘党のはずのペルシア人だが、実はお酒も大好きだったようだ(甘辛両党?)。その証拠に、大事なことを相談するときは必ず酒を飲みながら相談し、その時の合意事項を翌日しらふになったときにもう一度確認してようやく正式決定したという。
 酒を通して本音を語ったり人間関係を円滑にするあたりは、なんだか日本の会社みたいではある。逆にいくら飲んでも酔っ払わない(もしくは酔っ払った素振りを見せない)ドイツ人には、出来ない相談かもしれない。
 なおこの当時の酒は葡萄酒が一般的だった。濃い目の原酒を大きな壷の中で水割りにして飲むのが一般的だった(ウィーン名物の1つ「ホイリゲ」のようなものか)。ストレートで飲むのは「スキタイ式」と呼ばれ、野蛮なこととされていた(「歴史」巻6、84節)。イラクやシリアではビールも作られ、産地(銘柄)も重視された。スキタイ人は馬乳酒も飲んでいたことだろう。

 ペルシア人には酒がらみの失敗談もある。以下「歴史」巻5、18節以下。
 ・・・紀元前513年、ペルシアの大王ダレイオス(ダーラヤワウ)はボスポラス海峡を渡ってヨーロッパ大陸に遠征、スキタイ(ウクライナ)攻略は失敗したが、部将のメガバゾスに兵8万を授けてヨーロッパ大陸に残した。メガバゾスは現在のブルガリアに居たトラキア人を征服し、さらにペルシア人貴族7人を選抜し、ギリシャ北部のマケドニア王国にペルシア帝国への服属を勧告させた。
 マケドニアというと150年後のフィリッポス2世、その息子アレクサンドロス3世(いわゆるアレクサンダー大王)のときに全ギリシャを征服しさらにはペルシアを倒して中東全土を支配するのだが、この当時は都市も少なくギリシャ人から異民族扱いされる貧しい一小国に過ぎなかった。その王アミュンタスは即座にペルシアへの服属を決めた。

 ペルシア使節7人はアミュンタスの王宮で盛大な歓迎を受けた。任務も成功したというので、彼らの大好きな酒を酌み交わして上機嫌だったが、そのうちの一人がアミュンタスに告げていうには、
「我がペルシアでは、宴会には妻妾も参加するもんなんですが、なんかこう、この男ばっかりの宴会は味気ないですね。ペルシアに服属を決めたことですし、こう、ペルシア式でお願いできませんかね」
「わが国(マケドニア)では宴会に女を同席させる習慣は無いが、我が宗主国を代表するあなた達の希望ならそうしましょう」
と答えたアミュンタスは、宴会場に妻妾を呼ばせ、ペルシア人に向かい合って座らせ酌をさせた。綺麗どころを見たペルシア人たちは感激して、
「このなされ方は頂けない。こんなことなら始めから呼ばぬほうがましじゃ。こう、隣りに座ってもらえんかいね」
アミュンタスがペルシア人たちの隣りに座って酌をするよう女達に命じそうさせると、ペルシア人たちは「もうおじさん我慢できないんだもんね、良いではないか良いではないか」とばかりにお触り攻撃を始めた。生真面目なヘロドトスは「乳房をまさぐった」「唇を吸おうとした」とあからさまに書いている。
 アミュンタスは自分の妻妾や娘がペルシア人の酔っ払いの悪ふざけの相手をさせられるのを苦々しく見ていたが、この光景に憤慨したその息子のアレクサンドロス(アレクサンダー大王の先祖にあたるアレクサンドロス1世)は父親を引き取らせて、
「宴もたけなわですが、皆様方にはこの女達の中から好きなのを選んで抱いていただいて結構です。ただ女達に風呂を使わせますからお部屋でお待ちください」
とペルシア人に言い渡した。ペルシア人は有頂天で部屋に戻った(さすがに風呂は覗かなかったようだ)。
 女たちの風呂上りを部屋で首を長くして待っていたペルシア人の許には(日本の時代劇だと襖1つ隔てた隣りの部屋に布団が敷いてあるところだ)、アレクサンドロスが仕立てた女装した美少年が送りこまれ、彼らは酩酊するペルシア使節を短剣でことごとく刺殺した。
 行方不明になった使節団に対してペルシア帝国は捜索隊を何度もマケドニアに送ったが、アレクサンドロスはその都度捜索隊長に賄賂を贈ってこの件をもみ消したという。・・・


 宴会に女を侍らせるというのは同時代のギリシャでもそうだったし(日本の芸者にあたる、高い教養を備えたプロの遊女が居た)、のちの西洋ではクルティザンヌ(娼婦)はパーティーに欠かせない存在だったし今でも夫妻同伴はパーティーの基本だが、マケドニアには本当にそういう習慣が無かったのだろうか。
 むしろ現在のイラン始めイスラム圏の農村部では、今もパーティー(結婚式など)は男女別々というのが普通だから、逆転していて興味深い。もっとも、中世イランの酒場には酒姫(サーキー。その多くは女性ではなく美少年だった)と呼ばれるお酌役が居たのだが。

 酒好きで知られたペルシア人の末裔は現在のイラン人だが、1979年のイラン・イスラム革命以来、イランでは飲酒一切が禁止されている。外国人といえども、空港の税関で酒瓶が見つかれば没収される(パキスタンでは没収はされないが「外に見えないようにしろ」と言われた)。もっとも多くの人が人目につかないところや、酒が飲めるトルコなどの外国で飲んでいるみたいだが。
 敬虔なイスラム教徒たるイラン人が酒を飲まないのは、コーラン第5章「食卓」メディナ啓示92~93節の以下の記述に拠っている。
「これ汝ら信徒よ、酒と賭矢と偶像神と占い矢とはいずれも厭うべき事、悪魔の業。心して避けよ。さすれば汝ら運が良くなかろう。悪魔の狙いは酒や賭け矢などで汝らの間に敵意と憎悪を煽り立て、アッラーを忘れさせ、礼拝を怠るようしむけることにある」
 ただ第2章「牝牛」メディナ啓示216節には「酒と賭け矢については・・・・これら二つは大変な罪悪ではあるが、また人間に利益となる点もある。だが罪の方が得になることより大きい」ともあり、これを根拠に「飲み過ぎなければいい」と都合よく解釈して飲む人もいる。なおシャリーア(イスラーム法)では飲酒の罪は鞭打ち80回だそうだ。
 イスラム教の開祖ムハンマドが若かった頃(6世紀末)、アラビア半島はペルシア(ササン朝)の支配下にあった。隊商商人として各地に出張していたムハンマドは、アケメネス朝の頃と変わらず酩酊するペルシアの役人の狂態を見ていたのかもしれない。



 2005年02月04日 古代人の婚姻・性生活

 人間の内面をもコントロールするため性生活(=婚姻)にまで規制を加えたキリスト教やイスラム教という一神教の普及で、性のことは隠すべき恥ずかしいことという観念が世界中に広く定着して久しいが、古代は随分とおおっぴらだった。それもそのはずで、元来生殖は「全ての始まり」でめでたくかつ神聖なことであり、隠すべきことではなかったのである(もちろん人前でそれをすることとはまた違うのだが)。だから日本やインド、ギリシャやローマでは男根が崇拝された(縄文時代の石棒、道祖神、インドのリンガ、ギリシャ・ローマの巨大な男根を備えた神像など)。日本は比較的そうした「古代的」思考が残ったほうだといえるだろう。
 ヘロドトスの「歴史」は紀元前5世紀初頭のペルシア戦争の記録が主だが、ヨーロッパ、西アジア、北アフリカ各地の民俗誌、地理誌でもある。その中から婚姻制度や性生活に関する部分を拾ってみよう。

 「歴史」には「妻を共有する」という民族が散見される。中央アジア(トルクメニスタン)のマッサゲタイ人、ルーマニアに居たアガテュルソイ人、リビアのナサモネス人、アルジェリアに居たアウセエス人などである。妻を共有する理由は「互いに兄弟となり部族民全部が近親となって、相互の間に嫉妬や憎悪の念が生ぜぬようにするため」だという。同じような習俗は、ややのちの時代(紀元前1世紀)のカエサル「ガリア戦記」の中で、ブリテン島(イギリス)に住むケルト人の習俗として紹介されている(この場合は親子兄弟で女性を共有するという)。
 この中でナサモネス人は一夫多妻だが、花嫁は「初夜に参列者の男全員と同衾し祝福される」といい、アウエセス人は「正式な結婚はなく同棲せず家畜同然に交わり、生まれた子供は生後三ヶ月したらもっとも顔つきの似た男の子供とされる」という。アウエセス人の習俗は、西日本の村落部を中心に近代まで続いていた「若者組」「若衆宿」による夜這いの習慣や、それを洗練させた平安時代の「妻問い婚」を彷彿とさせる。
 ヘロドトスが上に挙げた民族はいずれも平原もしくは砂漠の遊牧民である(カエサルの挙げたブリテン島のケルト人は農民だが)。こうした社会では息子が父親の妻妾(生母は除く)を相続する習慣があったことは、中国北方遊牧民・匈奴について記した司馬遷の「史記」にも見られることである。厳しい自然条件下で不安定な生活をする遊牧民は実力主義社会だが、女性を「子供を産む貴重な財産」と見ていたのである。モンゴルの覇王ジンギスカンの母親も正妻も敵対部族に略奪された経験がある。
 以上は一見すると乱婚制に見えるが、ヘロドトスはこうした社会を大袈裟に書いたのかもしれない。

 さて上に書いたように男女の交合はめでたく神聖なものであったのだが、それは古代文明発祥の地メソポタミア(今のイラク)でもそうだった。実際に男女の交合場面を表現した護符や像などが出土している。また神殿の中では神々の交合が再現された。
 ところがこの信仰はやがて「宗教的淫売」へと堕していく。神殿に娼婦が居ついて売春するのである。ヘロドトスはその習慣をもつ民族として、バビロニア人(イラク)、リュディア人(トルコ西部)、キプロス人などを挙げ、破廉恥と非難している。神殿で売春が行われないのはギリシャとエジプトだけだという。
 リュディア人の場合、娘たちは我が身を売って自分の嫁入りのための持参金を稼いだという。一方バビロニアでは全ての女性は一生に一度、女神ミュリッタ(ベリトもしくはイシュタル)の神殿で通りかかる見知らぬ男と交わらねばならぬといい、「器量の良い女はすぐに勤めを終えたが、器量の悪い女は3年も4年も待たされる」という。
 今のその地に多いイスラム教徒が聞いたら、飛び上がって怒りそうな習俗である(まあイスラム諸国の一部には公娼制度もあるのだが)。

 以下同じような奇妙話を。
 バビロニアでは1年に一度、集落ごとに年頃の娘を集め、一種の競りで器量良しの娘との婚姻権を競ったという。なぜこういうことをするかというと、それで得た金で今度は器量の悪い娘に持参金を持たせ、金目当ての男と結婚させるためだという。ヘロドトスはこの制度を「気が利いている」と評価しているが、彼の時代にはこの習俗はもう無くなっていたという。なお現在のイタリア・ヴェネチア近辺に住んでいたウェネティー族も同じような習慣があったという。
 エジプトのぺロス王は突然盲目になった。神のお告げによれば「夫以外と交わったことのない女の尿で目を洗えば再び目が見えるようになる」というので、彼はまず自分の妃の尿で試したが、視力は回復しなかった。そこで次々といろいろな女で試したが視力は戻らなかった。ついに治ったとき、彼はその尿を出した女を自分の妃とし、以前に試した女たちを一箇所にまとめて焼き殺したという。随分乱暴な話だが、古代エジプトの女性は案外奔放だったのかもしれない。なおこのぺロス王は実在のどの王にあたるのか不明である。
 リビア東部に居たアデュルマキダイ人は、王が気に入った娘の初夜権を持っていた。同じような習慣は中世ヨーロッパにもあったし(映画「ブレイブハート」に出てくる)、チベットのラマ教では僧侶が新婚の娘の初夜の相手を勤め祝福したという(今はこの習慣はもう無い)。
 あとヘロドトスによればインド人は「畜生同様に公然と交わる」と書かれている。これが具体的にどういうことを指すのか分からないが、なんとなく「カーマスートラ」の国らしい気もする。

 こういう観察記録を残したヘロドトス自身が属する古代ギリシャ社会についても書かないと不公平だろう。ギリシャというと「ミロのヴィーナス」のような女体賛美、壷絵に描かれた奔放な交合(男女及び男男)場面、そしてアリストファネスの喜劇「女の議会」「女の平和」に描かれているように、女性の地位は高かったという印象を受ける。
 ところが現実は逆だった。都市国家アテネの場合、市民権を得られるのは市民階層の女から生まれた者と限られていたので女の子は大事にされたが、家に閉じ込められた箱入り娘だった。15歳くらいで親の決めた相手と結婚するが、大抵は資産や地位のある30歳くらいの男が選ばれた。結婚後も宗教行事以外の公的な場に出ることは憚られ、買い物などは奴隷に任せて家に閉じこもっていた。男性の浮気は咎められないが、女性の姦通は死罪だった。出産事故が多かったので男よりも平均寿命は短く、36歳くらいだったという。
 むしろ下層階級のほうが女性の自由はあったが、やはり男の子が重宝がられ女の捨て子が多かった。こういう子供は奴隷か遊女にされた。ヘタイラと呼ばれた教養をもつ高級遊女もこの階層の出身である。アリストファネスの喜劇は現実の逆だからこそ喜劇なのであり、またトルコ北東部にいたという女だけの戦士部族アマゾン(英語でアマゾネス)も、現実のギリシャ女性を裏返しにした空想の産物である。
 なお「プラトニック・ラブ」で知られる哲学者プラトンは国家体制を論じた著書「国家」の中で、女性の共有を主張している。彼の師であるソクラテスは名高い悪妻クサンティッぺに悩まされたが(なおギリシャでも一夫多妻が行われており、ソクラテスにはもう一人ミュルトいう名の妻がいた)、その姿を見たプラトンは生涯独身だった。

 一方ローマのほうはギリシャに比べ女性の地位は高かったといえるだろう。女性の離婚・再婚も行われた。あまりに婚姻関係が乱れているというので、帝制ローマの初代皇帝アウグストゥスは紀元後9年に婚姻に関する法令を出したが効果は無く、むしろ皇帝の一族内でそのような光景が見られた。その手の逸話は多すぎるのでここでは避ける。
 ローマ帝国北方(ドイツ)の蛮族ゲルマン人の習俗を記録した「ゲルマーニア」の著者である2世紀の歴史家タキトゥスは、ゲルマン人社会では一夫一婦が基本であること(高貴なものは政略結婚目的から一夫多妻もあった)、ゲルマン人女性が貞淑を求められ離婚や姦通はもっての他とされていることを紹介している。誘惑や姦通が「時世の習い」とむしろトレンドのように思われていたローマ社会への警世の意味もあったのだろう。
 ゲルマン人社会は奇妙なところがあり、ライコス日記のときに紹介したことがあるが、カエサル「ガリア戦記」には「一番童貞を長く守っていた者が絶賛される。その童貞を守っていることにより身長も伸び体力や神経も強くなるものと思っている。二十歳前に女を知ることは恥としている。このことについては少しも隠し立てしない」と書かれている。ゲルマン人の子孫たる今のドイツ人はどうなんだろね。

 いきなり話は飛ぶが、竪穴住居から出土した一家族の発見状況から、日本の縄文時代には一妻多夫婚が行われた可能性が指摘されている。姥山貝塚の場合、1つの竪穴住居に住んでいたのは老女一人、成人女性一人、成人男性二人、幼児一人で、この5人の具体的血縁関係は不明だが、女系社会だった可能性を示しているという。


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