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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2004年11月29日
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カテゴリ:歴史・考古学
 先日の日記で短いイラク通史を書いたが、その中で762年に着工されたバグダード市が本来は「マディーナ・アッサラーム」という名前だったと書いた(長ったらしいので以降「バグダード」で統一)。日本語に訳せば「平安の都」、つまり「平安京」ということになる。ほぼ同時代の793年(遷都は翌年)、日本でも桓武天皇により平安京が建設されるが、8世紀後半に同じ名前の都市がユーラシアの東西に出現したことになる。
 なお「バグダード」というのは、イスラム文明に大きな影響を与えたペルシア語で「神の賜いしもの」という意味があったそうだ。一方の「京都」は「京」も「都」も「ミヤコ」と読め、「京」と通称されるのが普通だった。「京都」という言葉は、日本の実質的な政治的中心が関東に移った鎌倉幕府(1192~1333年)の記録である「吾妻鏡」に散見されるという。
 「中国文明の亜流」と言われることの多い日本の都と、当時イスラム文明の首府だったバグダードを同列に扱うのはおこがましく、本来は同じように「平和」を意味する名前を持つ中国(唐)の首都・長安を並べないといけなのかもしれないが、長安が建設されたのは隋王朝時代の582年だったので(当時は大興城といい、唐代に長安と改名)、同時代性では平安京のほうが近いし、まあ「偶然」を並べてみただけのお遊びですから。
 
 バグダードと平安京(京都)の共通点はいくつかある。まず建設当初は計画都市だったこと、そして新王朝の都ということである。
 先に後者について言うと、桓武天皇は紛れも無く「万世一系の」皇室の出身だが、それまでの天武系に代わって天智系から即位した光仁天皇の息子であり、彼自身は「新王朝の創始者」という自負をもっていた。一方バグダードのほうは、およそ100年続いたウマイヤ朝(661~750年)に代わったアッバース朝の新都として建設された。桓武は「光仁朝」のいわば二代目だが、バグダードを建設したカリフ(ハリーファ。アラビア語で「代理人」の意があり、スンニ派信徒総代という意味)、アル・マンスールも二代目だった。

 都市計画について。
 建設当初のバグダードは直径2.35kmの円形をしており、高さ34mの二重の城壁と幅20mの水堀で囲まれていた。この円を四分割するように四つの城門があり、クーファ、ダマスカス、モスル、バスラといった要衝に通ずる街道が伸びている。城門から都市中央に向かう道路沿いにはアーケードがあり商店が並んでいたという。アーケードの裏側にあたる扇形の部分には役人のための住宅街がある。都市中央は城壁で囲まれた大きな円形の広場となっており、その中央に高さ48mの緑色のドームをもつ宮殿と、付属のモスクや衛兵の詰め所があったという。市街地はこの円城(アル・ムダッワラ)の外にも広がり、水運・灌漑のため運河が掘削され、周辺の農村や世界中からやって来る商人で賑わっていた。なおこの円城は現在跡形も無く、現在のバグダードで言えばティグリス河西岸のムテナ空軍基地の場所にあたる。
 イスラム教を始めたアラブ人は元来砂漠の遊牧・商業民で、都市と砂漠の間を行き来する「越境者」ではあったが、帝都建設の経験は無かった。「世界の中心」たる王宮を中心として円形に広がるこの都市計画は、むしろアラブ人に征服されたペルシア人のもつ、世界を円盤の地上と半球の天空からなるとする観念を体現していた。このような真円形都市は北シリアの紀元前1000年頃の後期ヒッタイト都市(サムアル=ジンジルリ)に既に見られるが、イラクではアラブ人が滅ぼしたサーサーン朝ペルシア(224~651年)のアルダシール1世によって建てられた円形都市(3世紀のアルダシール・フワッラ)が、このバグダードの円城に瓜二つである。「バグダード」という名前といい、先行するペルシア文明の影響が非常に大きかった。
 バグダードは当時の人口についてはっきりした記録が無いが、10世紀の記録には「公衆浴場6万、モスクは30万あった」といい、そこから最小で人口150万という説が導き出されたが、この数字はいささか荒唐無稽の感がある。当時の都市面積7000haから推測して、30万~70万というのが妥当ではないかと言われている。同時代の中国の首都長安にほぼ匹敵し、他にこの規模があったのは唐の副都・洛陽か、同じイスラム文明圏内のコルドバ(スペインにあった後ウマイヤ朝の首都)くらいだろう。

 一方の日本の平安京は、かつて「平安京エイリアン」というゲームが流行ったが、街路が碁盤の目状に東西南北に走り(グリッド・プランという)、120m四方の街区(ブロック)を形成していた。外形は南北5.3km、東西4.5kmの長方形で、バグダードの円城よりも大きい。バグダードや長安といった大陸部の都市との決定的な違いは、築地塀はあっても城壁は無く、防御施設を欠いていることだろう。広大な沖積平野のど真ん中にあるバグダードと違い、盆地にあって三方に山が迫っている。平安京以前には渡来系の秦氏による開発が進んでいた。
 このようなグリッド・プランはギリシャやローマの植民都市にその先駆を見ることが出来(ヒュポダモス・プラン)、外形が真四角なのもローマ時代の植民都市に存在するが、東アジアでは鮮卑族の征服王朝である北魏の平城(406年竣工)及び洛陽(502年竣工)を嚆矢とする(こうした方形都市は北京まで受け継がれた)。その完成形といえるのが唐の長安で、詳述しないがその都市設計には陰陽五行説や「周礼」の思想が取り入れられている。バグダード同様、「周礼」で王宮は(方形)都市の中央にあるべきとされているが、長安の宮城は中央北端に片寄っている。ただし長安の場合は市街の北に城壁に囲まれた、「禁苑」という市街よりも大きい皇帝専用の広大な「自然保護区」があり、それも都市の一部とすれば中央に宮城が位置することになる。
 日本では7世紀末の藤原京が中国式都城を模倣しており(藤原京では宮城が中央にある)、平安京もその系譜上にある最大にして最後の都市だった。平安京も長安に倣ったのか宮城が中央北端に偏っている。また怨霊を恐れた桓武天皇が京都の周辺地形を十分吟味したことも知られている。
 平安京の人口だが、市街全てに人が住んでいたとして官人・工人など12万程度と推測されるが、実際には湿地の多い右京(現在の西京極のあたり)は空き地も多かったようなので、10万程度が妥当だという。それでも同時代のヨーロッパにそれほどの人口をもつ都市は無かったし、平安京は「日本唯一の都市」といえた。

 こうして新王朝の計画都市としてほぼ同時代に建設された二つの「平安京」のその後を見てみる。このような計画都市は実際の地勢を無視して建てられることも多いので、変化も大きかった。
 バグダードではカリフたちが円城内の宮殿を嫌い、郊外の高燥な場所に離宮を作ることが多くなった。やがてバグダードの中心は9世紀にはマフディ宮殿を中心とするティグリス河対岸(=東岸、かつての国防省のあたり)に移動、9世紀半ばにそれを囲む城壁も建設された。市街はさらに南側に移動し(現在のパレスチナ・ホテルなどの周辺、すなわち「サダム・シティ」南側のティグリス河東岸地区)、11世紀末には城壁が作りなおされた。この城壁は20世紀初頭まで残っていた。なお20世紀初頭にバグダード鉄道が開通し、中央駅が旧市街から外れたティグリス河西岸に建設されると、バグダードの中心はさらに移動し、市役所や大統領宮殿は西岸に建設された。
 バグダードはアッバース朝が衰退した10世紀頃から人口が減少し始め、当時「人口はかつての十分の一」と記録されている。その後の人口推移を知る手がかりは少ないが、20世紀初頭には人口14万くらいだったという。20世紀に人口が爆発、1950年に50万、1980年に300万、そして現在は577万人と加速度的に増えた。
 一方京都ではやはり低湿地の西京が忌避され(当初から手付かずだったともいう)、10世紀末には「人家漸く稀にして、ほとんど幽墟に近く」と記されるほどになった。市街はかつての平安京の範囲を越えて東側に拡大、鴨川の東岸に及んだ。平安京時代の宮城(北野天満宮と二条城の間の区域)よりも東に位置する現在の京都御所は、1331年に光厳天皇が里内裏を皇居と定めてからである。16世紀末に豊臣秀吉が市街を囲む「御土居」を設けたが、これが京都市街の持った最初にして最後の防御施設である。
 京都の人口は度重なる戦乱にもかかわらず漸増し、17世紀におよそ40万(町人が大部分)、幕末も同程度の人口だったと見られ、江戸、大坂に次ぐ日本第三の大都市だった。現在の京都市の人口は130万程だが、市街地もかつての平安京の区域を大幅に越えている。
 中世の京都で町衆が活躍したように、イスラム都市ではワクフという互助制度があり、裕福な市民が寄進してモスクや水道、浴場などの公共施設が整備された。周辺からの人口集中が起きた近現代はともかく、この両市民は「都市民の中の都市民」といえただろう。

 この二つの「平安京」はカリフもしくは天皇という権威をいただく都市だけに、当初の名前とは裏腹に政争・戦乱の舞台にもなっている。
 アッバース朝は5代目の英主ハールーン・アル・ラシードが809年に死んでから、カリフ位を巡る内紛で急速に衰退、アッバース朝の権威は認めつつもイランやシリアは実質的に独立し、アッバース朝の支配領域もバグダード周辺と南イラクに限られることになる。836年から895年には首都が一時北方のサーマッラーに遷された。
 936年以降、諸侯(アミール)中の最強のものはアミール・アル・ウマラー(大将軍)と呼ばれ、バグダードにあってカリフに代わって実権を握り、カリフを自侭に交代させるようになった(カリフになれるのは「五体満足な者」と限られていたので、退位させたカリフの眼を潰すのが通例になった)。945年、イラン系のブワイフ朝がバグダードに入城して大将軍を名乗り、1055年には中央アジアから進出してきたトルコ系のセルジューク朝がバグダードに入城し「スルタン」の称号を授けられ、カリフの政治的実権が完全に否定された。
 1258年2月、中央アジアから侵攻してきたフレグ率いるモンゴル軍はバグダードを包囲、カリフであるムスタッシムは降伏した。モンゴル軍はバグダードを略奪しカリフを殺害、アッバース朝のカリフは37代をもって途絶えることになった。スンニ派にとっては宗教的権威を喪失する大事件となり、イランやイラクに多いシーア派はこの事件を「不信心者に対する罰」として歓迎し、両者の相克やイスラム世界の分裂傾向は決定的になった。
 バグダードは1534年にオスマン帝国の支配下に入り、地方都市としてその地位は低下した。第一次世界大戦中の1917年にイギリス軍に占領され、1932年にイラクの独立と共に首都として返り咲いた。しかしフセイン政権下では1980~88年のイラン・イラク戦争、1991年の湾岸戦争、そして2003年のイラク戦争とそれに続くアメリカ軍占領下の混乱など、戦火が絶えないのは、残念ながら我々が日々のニュースで目にする通りである。
 京都はというと、実力主義の武士が台頭する中、戦乱に巻き込まれることになる。12世紀半ばに保元・平治の乱が起き、それによって成立した平氏政権は1180年に対中貿易の拠点・福原(神戸)に遷都しようとしたが、旧勢力の抵抗が大きく果たせなかった。平氏を滅ぼし1192年に征夷大将軍となった源頼朝は首府を鎌倉に置き、京都の政治的絶対性が失われる。モンゴル軍は日本にも来襲したが、京都では怨敵調伏を祈っていればよかった。
 1338年に成立した足利幕府は首府を京都に置き、京都の絶対性は取り戻されたが、却って幕府の内紛である応仁の乱(1467年)によって京都は荒廃の憂き目にあった。1603年に成立した徳川幕府は再び首府を関東に置き、さらに明治新政府は1869年に東京(江戸)に遷都、名実ともに京都は千年に及ぶ首都としての役割を終えた。太平洋戦争では末期に原爆の投下目標とされたが、辛うじて爆撃を免れている。

追記:「エルサレム」も「平和の都」という意味があるそうだ。なんたる皮肉。





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最終更新日  2004年12月02日 00時58分43秒
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