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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2005年04月07日
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カテゴリ:旅行
 関東地方での挨拶めぐりを終えて、この週の半ばに故郷に戻った。
 しかし6日には日本の大学時代の指導教授が院生を連れてゼミ旅行に岡山に来ると言うので、挨拶かたがた会って飲んだ。岡山駅前の大通りでは高層マンションの建設ラッシュで、しかも竣工する前に全室完売の状況だという。金があるところにはあるのかもしれないが(この工事は関西の企業が進出して来ているという)、本当に日本は不景気なのだろうか。

 翌7日は先生方を案内、というより便乗して岡山市内の古墳を見て回った。院生の一人が古墳時代後期(6世紀)の横穴式石室を専門にしているし、先生も本来古墳時代が専門である。院生の一人は弥生時代の土器が専門なので資料館で土器を見させて、僕を含む三人はレンタカーで岡山市内を東西に走った。
 最初は備中国分寺の裏手にある江崎古墳(総社市)。全長50mほどの前方後円墳で、巨石を用いた横穴式石室をもち、中には石棺が残っている。先生と院生は中に入ると早速スケッチと採寸をしている。この古墳は周辺のこうもり塚古墳や作山古墳程には目立たないし農家の裏手なので訪れる人も少ないが、石棺にも触れるし石室の規模でいえばこうもり塚に匹敵する古墳である(墳丘はおよそ半分の大きさ)。時期は6世紀後半、男女ニ体が埋葬されていたが早くから天井石が崩れて荒らされていたようだ。現在はコンクリートを用いて天井が被われている。

 次はそのやや東の岡山市内にある造山古墳へ。この古墳は岡山県で最大、全国でも四位の規模を誇る前方後円墳である(長さ360m)。より上位の古墳はいずれも天皇陵とされて立ち入りできないから、一般の客が墳丘上に立ち入りできて古墳の巨大さを実感できるものとしては最大といえる。時代はやや早い5世紀のもので、横穴式石室が導入される以前のものである。発掘されていないが竪穴式石室をもつことは間違い無い。
 この古墳の前方部には神社が立っていて、その脇に石棺を転用した手水のための石槽が置いてある。また神社の脇には同じ石棺のものと見られる石蓋の一部が転がっている。時期的に見てこの石棺がこの古墳から出たものとは考えにくく、周辺の古墳から運ばれたものだろうとのことだった。
 後円部のふちには土塁のようなものがあるが、これは豊臣秀吉が近くの備中高松城を水攻めした際(1582年)に陣地として使用されたときに作られたものだろう。平野にぽつんとある古墳は格好の陣地になり、戦国時代にはよく城として使われた(大阪の「仁徳天皇陵」=大仙古墳、茶臼山古墳など)。

 近くのうどん屋で昼食を済ませ、岡山市街に戻る。まず岡山市埋蔵文化財センターを訪問。うちの墓の近所にあって、しかもうちが檀家となっている寺の裏手にあるのに恥ずかしながらその存在を全然知らなかった(目立たないところにあるのは確かだが)。ここでは小規模ながら岡山市内の発掘の成果が展示されており、無料で見ることもできる。
 そこの方に情報を教えてもらい、岡山平野北端にある龍之口山の麓にある唐人(カロウド)塚古墳へ行く。すぐ脇の賞田廃寺跡で発掘と整備事業が進んでいるのだが、この古墳はほとんど知られていない。しかしやはり1mを越すような巨石を積んで造られた横穴式石室を備え、中に入って石棺を見ることもできる。石棺は蓋が無くなっており、天井から降って水滴で棺内に水が溜まっている。石室の入り口には祠があるが、やはり早くから盗掘されて空っぽだったのだろう。墳丘も削られたりして原型を留めない。6世紀後半のものだろうか。

 この日最後の目的地は、そこをさらに北上した牟佐大塚古墳である。これも6世紀後半のもので、直径30mほどの円墳である。外から見える墳丘の大きさこそこれまで挙げたどの古墳にも及ばないが、石室の構造や使われた石の大きさはもっとも甚だしい。入り口と玄室(棺を置く墓室)をつなぐ羨道ももっとも長い。途中こうもりの死骸が落ちていたが、こういう横穴式石室はこうもりの格好の巣となる。中にはやはり巨大な石棺が残されているが、横に大きな穴があけられており、盗掘者が副葬品目当てに石を割ったのだろう。
 この牟佐は岡山平野から北方の山地へ抜ける旭川の谷間を扼する交通の要衝にあり、地元豪族の墓と考えられるという。この古墳からは旭川や岡山平野に抜ける街道がよく見渡せたはずだ。

 6世紀という時代はこうした巨石を用いた横穴式石室が日本中で建設された時代である。それ以前の墳丘の大きさ、すなわち外見重視から、埋葬施設の結構や巨石築造技術の高さ、副葬品の数では無く希少さをステータス・シンボルに変えた時代だった。その背景には「あの世」の観念など死生観の変化もあった。
 同じような巨石を用いた古墳はヨーロッパでは新石器時代(紀元前3000年頃)に数多く造られているが、それが数百年というタイムスパンであるのに対し、日本の場合はおよそ1世紀という比較的短期間に集中している。いわば古代(同時代のヨーロッパに即せば中世初期と呼ぶべきかも知れないが)日本の建設ラッシュ時代、バブルのようなものといえるかもしれない。同時代のヨーロッパの貧相な王墓(副葬品はともかく)、一握りの王侯貴族に墳墓建設が独占された中国、そして墓をあまり重視しないイスラム世界などにくらべると、日本中(東北は除く)でこうした巨石墓が数多く建設されたことは印象的である。
 古墳時代は寒冷期にも関わらず新技術(鉄器・土木技術)による新田開発などで人口が急増したらしいのだが、その辺も関係しているのだろう。同じような「建設ラッシュ」ですぐに思いつくのは、鎌倉時代の寺院建設(奈良と鎌倉の大仏など)、1600年前後の築城ラッシュ、そして明治の文明開化、昭和の高度経済成長だろうか。





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最終更新日  2005年04月09日 15時36分36秒
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