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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2005年04月23日
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カテゴリ:旅行
 今日は所用があってボッフムに行く事にした。ルール地方にあるかつての工業都市・ボッフムに行くのはこの半年で3回目になる。天気は快晴で外出にはうってつけの日だった。
 その後ケルンに行って日帰りで戻ってきたのだが、今日は都合8時間電車に乗っていたことになる。ギーセンとルール地方との間にはヴェスターヴァルト、ジーガーラント、ザウアーラントなどと呼ばれる丘陵地帯があって大都市が無いので、特急列車が走っていないためどうしても時間がかかる。そうでなくとも僕は「週末チケット」(日本の青春18切符のようなもので、特急や新幹線に乗れない、5人まで共有できる一日乗り放題券)で行ったので時間がかかったのは仕方ないのだが。

 駅で売られている新聞を見ると、全国紙には揃って一面トップにアジア・アフリカ会議で演説する小泉首相の顔写真が大きく掲載されている。昨日日本の過去の侵略について反省とお詫びを表明したことがこうも大きく扱われるとは、正直思わなかった。中国や韓国に対する効果の程はともかく、世界に向けての宣伝としては絶妙なタイミングだったのかもしれない(もっとも見出しには「中国は満足せず」とも書かれていたが)。
 朝8時過ぎに列車に乗り、ギーセンで電車を乗り換え、さらにジーゲンで乗り換えてボッフムに向かう。この列車には黄色と黒のシャツを着たBVB(サッカー・ブンデスリーガのボルシア・ドルトムント)のファンが大勢乗りこんできて列車の中で大騒ぎしていた。連中はハーゲンで降りて行ったが、連中の残したビール瓶を乗りこんできた貧しそうなアラブ人数人組がすかさず拾い集めている(ビール瓶やペットボトルはデポジット制なので換金できる)。今度は入れ替わりに全身黒尽くめの衣装やパンファッションの若者が大勢乗りこんできた。「ナチス反対」という旗を持ったりワッペンをつけている者が居たが、一体何なんだ。

 出発から4時間でボッフムに着く。ここの用事はすぐに済んだ。せっかくこの地方に来たのでケルンに行くことにする。僕はドイツに留学してウン年になるが、人口およそ100万、ドイツ第四の都市であるケルンに恥ずかしながらまだ来た事が無かったのである。
 ボッフムからケルンまでは急行電車でおよそ1時間。途中デュッセルドルフまではものすごく混んだが、その後はガラガラになった。ケルンに近づくと列車は速度を落とし、ライン河にかかる長い橋をゆっくりと渡った。
 橋を渡りきるとそこはケルン中央駅で、ドイツ最大のケルン大聖堂は駅の目の前にあるのでもう車窓から間近に見える。竣工まで600年かかったというこの大聖堂はあまりに有名でケルン随一の観光名所だが、大きさの割に二本の塔が低く随分バランスが悪く(ドイツでもっとも高いのはウルム大聖堂の塔)、ありていに言えばいささか不恰好の感はある。まあ圧倒される大きさであることには違いないのだが。
 駅を降りて外に出ると、大聖堂の周りの広場はすごい人出である。スケボーするガキんちょも多い。あと中国人観光客が目立った。ドイツはヨーロッパではいち早く中国人に観光ビザを出すようになったので、今や日本人よりも目立つようになった。

 ケルンは英語やフランス語で「コローニュ」というが、「ケルン」にしろ「コローニュ」にしろ、ケルンのローマ時代の名前である「コロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシウム」の最初の「コロニア」が訛ったものである。香水の「オー・デ・コロン」が「ケルン水」という意味があるのは比較的知られていると思う。19世紀初頭、ナポレオンに従軍したフランスの兵士が故郷の妻への土産にケルンの香水を持ちかえってその名が広まったということになっているが(当時ドイツはフランスに占領されていた)、そもそも18世紀の初めにあるイタリア商人が「ケルン水」という商標で売り出したのが最初だそうだ。
 さて「コロニア」である。「コロニア」はローマ帝国内の属州の中に数ある都市の中でも、ローマ市民権を持つものが入植した都市のみに皇帝が名づける由緒ある都市の称号である。紀元前1世紀、ローマ帝国に友好的だったゲルマン人のウビー族がライン河を渡って移住し(ライン河西岸は本来ケルト人の土地だった)、集落を営んだのがケルンの起源である。紀元後50年、時のローマ皇帝クラウディウス帝はこの集落に防壁を設け、退役軍人を入植させ、妻のアグリッピナの名を冠して上記の名前をつけた。ケルンはマインツ(モゴンティアクム)やレーゲンスブルク(カストラ・レギーナ)と並んでドイツでもっとも長い伝統をもつ都市といっていい。そのため市内各所からはローマ時代の遺跡が発見される。現在ケルン市の地下鉄新線(南北線)が建設中だが、緊急発掘調査が行われているようだ(同じように長い伝統を持つ京都に地下鉄を作ったときも、至る所に遺跡が出てきて大変だったらしい)。
 ローマ時代のケルンは2世紀の最盛期には人口三万を数えたが、4世紀にはゲルマン系のフランク族の侵入を受け、ローマ帝国が滅亡するとフランク王国の支配下に入った。この時代多くのローマ都市は廃棄されたが、キリスト教司教座のあったケルンはその命脈を保ち、カール大帝の時代(800年頃)には大司教座が置かれて中世都市としての地位を確立した。13世紀には大司教が追われて有力市民の自治が確立され帝国自由都市となり、推計人口4万を数えドイツ最大の都市に成長した。この都市のシンボルである大聖堂の建設が始まったのもこの時期である。近代以降はライン河の水運を生かした産業都市として発達し、そのために第2次世界大戦でひどい戦災にもあったが、ドイツ第四の都市としての地位を保っている。
(ケルンの歴史については、今回の一時帰国の際に購入した魚住昌良・著「ドイツの古都と古城」山川出版社を参照した。読みやすいだけでなくあまたある類本の中では学問的に最もしっかりしていると思う。お勧めです)

 さてもうあまり時間が無かったので、僕は大聖堂の脇にあるローマ・ゲルマン博物館だけを見た。この博物館はケルンで出土したローマ時代の遺物を中心に展示しているが、その数たるやものすごい。またモザイク床画や石碑(墓碑や記念碑)など、圧倒される建造物も展示している。考古学や歴史が好きな人は大聖堂よりもこちらをお勧めしたい。僕個人としては、どういう脈絡か知らないがこの博物館に所蔵されている、ケルチ(南ロシア)で発見された騎馬民族の装身具(5世紀頃)を見ることが出来たのが収穫だった。
 今は「ノルトライン・ヴェストファーレン州の埋蔵文化財保護」という特別展が行われており、ケルンを中心に緊急発掘で見つかった、恐竜の化石から第2次世界大戦の捕虜収容所跡までに及ぶさまざまな時代の遺物がコンパクトに展示されている(8月まで)。博物館の売店や近くの本屋で本を随分買ったのでカバンが重くなった(博物館のガイドやカタログのほか、「ローマ時代の技術」「バイエルンの原史時代」)。また来なくては。
 列車に乗って家路につく。帰ってきたのは10時前だった。帰ってきたらそのまま飲み会に参加する手はずだったのだが、飲み会の主役であるイラク人(この春新しく来た留学生)の都合が悪いというのでお流れになった。今日は珍しく電車の乗り継ぎなどが予定通りにことが運んだのだが、最後に外したようだ。

(追記)
 「クライン孝子の日記」を見ると、今日の午後デュッセルドルフの日本総領事館の前で中国人留学生数百人が反日デモをした、とある。ついにドイツにまで飛び火か??僕の住む地域を管轄するフランクフルト総領事館(オイローパ・センター)のほうには行われるのだろうか。あのビルには日本関係の団体や企業が多く入っているからなあ。
 第三国のドイツでやるというのは、「歴史を直視し反省する国」の同情を引こうというつもりなのだろうか。やれやれ。





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最終更新日  2005年05月31日 21時10分48秒
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