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第7官界彷徨

第7官界彷徨

国語・国文学会・薔薇篇

月に2回古文の講義を受けています。時間は1時30分から。徹子の部屋を見ながらつい寝てしまうという1日のサイクルの中、睡魔との闘いです。先生に教わったことを忘れないように、メモすることにしました。

*誰もが知っている故に文学的価値がないような気がする(俗っぽい)俳句に
初雪や二の字二の字の下駄の跡というのがあります。降る雪や二の字二の字の下駄の跡だという人もいます。これは本当は「雪の朝二の字二の字の下駄の跡」というのだそうで、芭蕉時代の捨女という有名な方の句。丹波の方の人で、なんと、彼女が6歳の時に作ったのだそうよ。(2/10)

*三才女。
 三人の、才女と呼ばれる人ががいたそうです。それは小式部内侍、伊勢大輔、そして紀貫之の娘紀内侍。大鏡の鶯宿梅という話に、村上天皇が彼女の家の梅の木を所望されたので、「勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答えむ」という歌を差し上げたところ、帝は気の毒に思ってその木を返した。という話で載っています。ただし、この歌は拾遺和歌集では読み人知らずで載っているそうです。戦前の小学唱歌に「三才女」という歌があって、この三人のことが歌になっています。(2/26)

*とんでもない
 先日テレビのクイズで間違った敬語についてやってました。「とんでもございません」の、どこがまちがっているか。それは「とんでもない」というのが、一つの単語だからですね。もし、この言葉で、敬語にしたければ、「とんでもないことでございます」となります。また、「とんでもないこと」と言うと、その本人に責任があることになります。本人に責任がない、またはやむを得なかった場合は「とんだことで」となります。今はどうでもいい感じ。日本語、乱れてますね。(4/28)

*小説と物語の違う点
 小説は、時間を追って進みますが、(前とか、後からとか)物語の形式は、読む人にわかりやすいように、そのシーンのあらすじをまず説明しておいて、それから細部に入る。現在の小説に慣れてしまっていると、主語がないし、ちょっと迷いますね。

*思ひきや
 今、「思いきや」とは、現在そう思っていたのに違ったときに言いますね。しかし、これはもとの意味は「思っていただろうか。いや、思わなかった」でした。
 有原業平の歌に
 忘れては夢かとぞ思ふ
   思ひきや雪踏み分けて君を見むとは
 というのがあります。
天皇になれず不遇な一生を送った惟喬親王と、親王が隠れ住んでいた小野で出会ったときの歌だそうです。

*左見右見
 これは「とみこうみ」と読みます。
 左は「とかく」のとです。右は「とかく」のかくです。
とかくの「と」はそのように、ということ。
とかくの「かく」はあのようにということ。です。


2008年4月15日      於オークラ千葉ホテル
 今日は、源氏千年の記念イベントを行いました。でも、それをいうと先生の機嫌が悪くなります。ずっと地道に古典の研究を続けて来た先生には、源氏千年なんて付け焼き刃ふうに盛んに行われている、講座やイベントは、許せないものみたいです。

 会場はこの前下見に行ったホテルで、30人ほどの規模で行いました。

 テーマは「古今、伊勢、それから源氏」
 古今、伊勢、と男の文化から発展した源氏物語は、女の文化として、男が思った以上に完成された存在である。
 源氏物語が、今日まで命を保ち続けている根本的な要因は、やまとうたの世界で、正統(カノン)として認知されてきたことにある。

 ということなのですが、そこには、紫式部のやまとうたに対する厳しさ、優しさ、思い入れがあるからなんだそうです。

 やまとうたに対しては唐歌があり、それは漢詩として日本に入って来ました。
 詩経の序文には
「詩は志なり」という言葉があって、中国では詩は何より大事なものとされていたそうです。しかし、現実は志が高くても政治の中枢に入れるということはなく、屈原は自殺、孔子は彼の論を認められず放浪の旅に出た。

 など、いろいろなエピソードを紹介していただいた中で、紫式部は紀貫之に対して、特別な感情を持っていた可能性、というのが面白かったです。
 貫之は紫式部よりも100年くらい前の人だと思うのですが、源氏物語の中に折々、貫之の名が出て来るというのです。

*絵は巨瀬の相覧、手は貫之かけり「絵合」

*長恨歌の御絵、亭子院のかかせ給ひて、伊勢、貫之に詠ませたまへる、やまと言の葉をも、唐の歌をも。「桐壷」

*多かめりし事どもも、かうやうなるをりのまほならぬ事数々に書きつくる、心地なきわざとか、貫之が諌め、「賢木」

*ものとはなしにとか、貫之がこの世ながらのわかれをだに、「総角」

 どうも、源氏物語のストーリーの中で、大事な局面に紀貫之が出て来るらしいです。紫式部にとって貫之は、相当な影響を与えているようです。

 紫式部は、日記にあらゆる周囲の人々を厳しい論評で切ってすてているようですが、厳しい反面、良い点もきちんと見ているとのことで、和泉式部の場合

「歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまこそ侍らざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき1ふしの、目にとまるよみそへて侍り、、、」
 と書いています。
 古い歌の知識もなく、歌作りの方法も知らず、本当の歌よみというには値しないけど、かならず何か人の心に残る歌を読む、、、すなわち、天性の歌詠みである、と評価しているんだそうです。
 紫式部の論理的な目、理想を追い求める姿勢、など、すばらしい人だったんだな~と再確認できました。




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