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第7官界彷徨

第7官界彷徨

町子の日記

 松陰日記         正親町町子(1676-享保8年)
              法号 理性院本然自覚大姉
 正親町(おうぎまち)町子は、柳沢吉保の側室です。
 徳川綱吉の側用人から老中にまで上りつめた吉保の姿を、吉保から多くの資料を提供され、傍らから描写。「源氏物語」をふまえた物語日記になっています。
 人にも物にも恵まれた豊かな町子の生涯が、その豊かさに溺れない誠実な筆致で綴られている名文です。

 正親町町子の「松蔭日記」には六義園での雪の様子が書かれています。
「雪のころ、はた、いへばおろかなり、幾重となき山のこずえ、おかしきほどに、つもりて、はるばるとみやられたるに、さすがに松杉のけぢめは、わくべかりけり、かれたる木の、たかう、けうときに、ふりおける雪の、ことさらにもてつけて、つくりつけたらむさましたるなど、あなうつくしと見ゆ。」

 吉保は、将軍綱吉の寵愛を受けましたが、綱吉の死後は急いで身を引いて六義園で余生を送りました。吉保の放漫な財政運営の政治は批判が多かったものの、子どもたちは長子が大和の国郡山城主となり、またそれぞれ各地の藩の城主となって、政権交代ののちにお家とりつぶしもされなかったというのは、幕閣から隠居して2度と政治に関わるつもりのなかった、吉保のいさぎよさにも関係するかもしれません。
 吉保は北の方の他に側室6人、子どもが15人(男子7人)もいました。

 その隠居生活の中で、吉保は町子とともに、半生の記を町子の日記として残したようです。

 資料や記憶の多くは吉保から受け取ったものの、将軍家とのさまざまな交流の華やかさの中に、町子の草子地としてのコメントが光っています。

 上野の桜、市ヶ谷の八幡宮の露天の品物を全て買い上げたこと、将軍家との訪問のやりとりなど、細かく華やかに書かれています。
 中に、町子の息子が将軍家に訪問した折り、いろいろなものを頂戴したこと、そして
「かやうのことは常にもある事なれど、こは、かく、わざととりたてて響き給ふを、心のやみに、いといみじとおもふ」
 と書いています。
 我が子が登城したことが、名誉なこととして世に知られたことが、親として嬉しく心がさわぐ、と。
*人の親の心はやみにあらねども子をおもふ道にまよひぬる哉
 という後撰集の歌から。

 伸びやかで明るい町子の日記です。時には兄の歌なども「いい加減に作ったらしい」と酷評しています。
 文体は源氏物語そっくり。そういえば樋口一葉まで文語体だったんですよね。

 正親町(おおぎまち)町子になぜか心惹かれるのは、同じ名前の町子、第七官界彷徨の小野町子と同じ名前だからかも知れません。
 町子は享保8年、48歳で亡くなっています。
 法名、理性院本然自覚大姉
 リアリストっぽい戒名ですね。



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