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第7官界彷徨

第7官界彷徨

上野誠先生の万葉集

2011年4月
 今日は、NHKラジオの「古典購読」を聴きました。
 上野誠先生の「万葉集」で、テーマは飛鳥。

969番    大伴旅人
*しましくも行きて見てしか神名火の淵は浅みて瀬にかなるらむ

 神名火とは神のいる森、そこを流れている淵、すなわち飛鳥川の、、、という歌

626番    八代女王が大王にたてまつる
*君に因り言の繁きをふるさとの明日香の川に禊ぎしに行く

 君とのことで噂されているので、さっぱりしたくて明日香川でみそぎをしました

3267番
*明日香川瀬瀬の珠藻のうちなびきこころは妹に寄りにけるかも

 川の藻は、激流だったらお互いになびきあうけど、おだやかな流れだったら離れてしまうのさ。

1557番    丹比真人国人(橘奈良麻呂の乱に連座)
*明日香川行き廻る岡の秋芽子は今日降る雨に散りか過ぎなむ

 この岡は雷の丘。明日香川の風景。

2702番
*明日香川水往き増さりいや日けに恋の増さればありかつましじ

 恋が増せば生きてはいけない。

 明日香の地を愛した明日香人たちの歌、そしてまた、万葉集は女歌が元気なのも特徴です。

103番     天武天皇
*わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後

 こちらでは大雪が降っているよ、大原のそちらの古い里にはまだだろうけれど

104番    藤原夫人
*わが岡の龍神に言ひて降らしめし雪のくだけし其処に散りけむ

 私が龍神に言ってふらせた雪のかけらがあなたの所に行ったのよ

 大原と天皇が住む板蓋宮は500メートルくらいの距離。
 万葉集の歌のやりとりは、現代のツイッターみたいな感覚かもしれない。

2011年7月2日
 さてNHKラジオ第2放送、上野誠先生の「万葉集」。今週は平城京に住んでいた人たちが難波に行くときのことを詠んだ歌。

 奈良と難波をはばむ壁のような山脈。当時の人たちは急いで行く場合は急峻な生駒山(くらがり峠)を越えて行きました。
2201番
*妹がりと馬に鞍おきて射駒山うち越え来れば紅葉散りつつ
 当時馬でいくというのは大変なことだったそうです。今のイメージで言えば「高級外車」くらい。
 万葉集では「もみち」はほとんどが「黄葉」ですが、この歌だけは「紅葉散筒」と。

3032番
*君があたり見つつも居らむ射駒山雲なたなびき雨は降るとも
 2人の間を隔てる山。それを見て偲んでいるから、雲よあの山を隠さないでおくれ。
 難波、河内と平城京を隔てる生駒山は文学になりました。

 遣唐使だけでなく「遣新羅使」も送られました。彼らは平城京から難波の港に集合、瀬戸内海、筑紫、壱岐対馬を経て新羅の都を目指しました。
 難波に集合の後は、勝手に家に帰る事は許されなかったのですが、目を?盗んで生駒を越えて妻に会いに行った遣新羅使もいました。秦間満(はたのままろ)という人。

3589番
*夕されば日暮らし来鳴く伊駒山越えてぞ吾が来る妹が目を欲り 
 お前に会いたくて生駒山を越えて帰ってきてしまった!
3590番
*妹に逢はずあらば術無み石根踏む伊駒の山を越えてぞ吾が来る
 石だらけの険しい生駒山を越えて来たんだよ!

 生駒山は高いので大阪湾に出ると、一番最後までその姿が見え、よそから大阪湾に入るといちばん先に見えてくるので、人々はその姿を愛しました。
 関東から来た防人の歌。

4380番
*難波門をこぎ出て見れば神さぶる生駒高峰に雲ぞたなびく
 栃木県足利の人だそうです。

 難波に行くのに回り道だけど楽に行けるのは竜田山です。
2211番
*妹が紐解くと結びて竜田山今こそ黄葉はじめてありけれ
 とくとむすびては「竜田山」にかかる枕詞だそうです。
2214番
*夕されば雁の越えゆく竜田山時雨に競ひ色づきにけれ
 鳥は山を容易に越えて行けるが、人は歩いて行くしかない。
 そんな竜田山は時雨と競争して色づいている。

4395番    大伴家持の歌
*龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむわが帰るとに
 龍田越えは山の端であり、そこは風の神のいる風の道でもありました。龍田は当時桜の名所でもあり、その桜を見ながら家持は、自分が難波から帰るときはもう散っているだろうとつぶいやいたのです。

 平城京の人たちは頻繁に難波との往復をしつつも、道に対する思いを旅心にしていたようです。




2011年7月10日
今週のNHKラジオ第2放送の「万葉集」は、奈良盆地の南部から見た東の三輪山、西の二上山の歌でした。

 上野誠先生によれば。明日香に都があった592年から694年、藤原宮の695年から709年、平城京の710年から784年と、万葉集の時代は盆地生活者の時代だったと。

 三輪山を詠んだ名歌。
17番     額田王
うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の  山の際に
い翳るまで 道のくま い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを
しばしばも 見放けむ山を 情なく 雲の 隠さふべしや

 これは、額田王が、大和から近江へ旅立つ時に
 奈良山を超えてしまえば三輪山が見えなくなるので、道の曲がり角角にふりかえって見る。
 三輪山は、山自体がご神体でした。

18番
三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなむ隠さうべしや

 せめて雲だけでもこの気持ちを察して隠さないでほしい。
 三輪山は神の山として「三輪のはふり」という神官がお守りしていました。

712番
味酒を三輪のはふりが斎ふ杉手触れし罪か君に遇ひがたき

 神官たちの祀っている三輪山のそこにある岩も木も神そのもの。そこに生えている杉の木に手を触れて汚してしまった罪なのか、あなたに会う事ができないでいる。

1517番   長屋王の歌
うま酒「三輪のはふり」が山照らす秋の黄葉の散らまく惜しも

三輪山は他国との出入り口であり、人々は裏を流れる初瀬川で身を浄めて旅立つのでした。

 二上山は大和の人にとって日の沈む山です。
 持統天皇は息子草壁皇子のために、優れた資質を持つ大津皇子を排除。大津皇子は自刃して果てました。謀反人として皇子は国境の二上山の麓に葬られました。

165番    姉の大伯皇女の歌
うつそみの人にある我や明日からは二上山を兄弟とわが見む
166番
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君がありといはなくに

 上野誠先生は、ぜひとも奈良に来て、この2首を思いつつ二上山に沈む夕日を見てください、と。しかし、この落日の山は、河内の人にとっては朝日の登る山なのでした。

1098番
紀路にこそ妹山ありと言へ櫛上の二上山も妹こそありけれ

 紀の国に妹山があるっていうけど、わが大和の二上山にも妹山があるんだよ。と、お国自慢。
 この二上山を越えると河内の国へ行けます。

 他国へ転勤しても、二つのこぶのある山には二上山と名をつけて偲びました。
3955番
ぬばたまの夜は更けぬらし玉くしげ二上山に月かたぶきぬ

 この歌は、越後に赴任した大伴家持が、土師宿禰道良という人の歌を書き留めたもの。
 この二上山は富山県にあるのです。

 海も山もそこにある動植物も神として敬い愛着をもって大切にしてきた日本人!
 海を汚し山を削り、生きものたちを絶滅させてきた現代日本人って哀しいですね!
 
2011年7月16日
NHKラジオ第2放送、古典講読の時間の上野誠先生の、今回は「吉野」でした。

 今でこそ吉野といえば桜ですが、万葉集には「吉野の桜」は1首もなく、平安時代には吉野といえば雪の名所であり、吉野が桜の名所になったのは西行以降だそうです。

 万葉集の吉野は主に「川」が歌われているそうです。

 吉野は672年の壬申の乱の折り、大海人皇子が吉野に隠遁したのち挙兵した場所で、天武天皇とのちの持統、文武、元明、聖武天皇など、その血と政治を継承する人たちにとっての特別の場所でした。いわば革命の聖地。
 持統天皇は在位11年の間に記録されているだけで31回以上吉野に御幸されたそうです。

25番   天武天皇の歌
*み吉野の みみがの峰に 時なくぞ 雪は降りける
 間なくぞ 雨は降りける その雪の 時なきが如 その雨の 間なきが如
 隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を

 定めもなく雨や雪が降る長い長い道を 曲がり角ごとにふりかえり振り返り、思い沈みながら歩いて歩いてやってきた その山道を

679年5月5日 天皇は吉野に
 5月6日 六皇子盟約 を結び
 5月7日 飛鳥に帰る
 六皇子盟約とは、
1/?野讃良(持統天皇)は全ての皇子の母である
2/だから兄弟争ってはならない
3/6人の皇子の代表は草壁皇子とする

 自分が死んだら、?野讃良を中心に結束を固め、草壁皇子を後継者にする、と6人の皇子と盟約を結んだ。

27番   679年5月吉野の宮にて
*よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よよき人よく見つ

 良き人というのは、天皇と?野讃良。君たちが平和に暮らせているのは、自分がこの吉野から兵を挙げて壬申の乱に勝利したから。この吉野を良く見てほしい。私たちの国はここから始まったのだ、、という天武の思い。

 天武の死後、草壁皇子が病死し、?野讃良が持統天皇となります。

36番   柿本人麻呂の歌 
*やすみしし わが大王の 聞こしめす 天の下に 国はしも 多にあれども
 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に
 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡り
 船競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らず
 水はしる 瀧の宮處は 見れど飽かぬかも

 多くの大宮人も吉野の離宮にやってきて栄える吉野

37番 反歌
*見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む

☆歌が政治の重要な位置を占めていたのは、中国から来た考えなんでしょうね。
  
2011年7月24日
 さて、一週間の早い事!また万葉集のお勉強をしました。
 NHKラジオ第1放送の上野誠先生の「古典講読」。今週のテーマは宇治でした。

 大きな川のない奈良盆地で暮らしていた万葉人は、水量豊富な宇治川を、特別な感慨を持って見、歌に詠みました。

 大津の棚上山の木を宇治川に流し、大椋池に木を溜める。それを南下させて和泉川の岡田の駅から陸地を人力で引っぱり、奈良山を越える。
 それからその材木を佐保川に浮かべて南下、初瀬川を通って藤原の宮を建設しました。
 現在の地名では滋賀~京都~奈良と三県にわたって巨木を運び都を作ったのです。その重要な交通の要所が宇治でした。

264番 柿本人麻呂の近江より上ってきて宇治川のほとりにて
*もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行方知らずも

 網代というのは、川に八の字に杭を打って行き、その先端(川下)に集まった魚を捕らえる漁。
 杭を打ったために河の流れが変わって行方が分からない、壬申の乱の頃の不安な思いを追想している?うまいですね~人麻呂!

1135番 
*宇治川は淀瀬無からし網代人舟呼ばふ声をちこち聞こゆ
 漁師さんがいたみたい。

1136番
*宇治川におふる菅藻を川早み取らず来にけりつと(お土産)に為ましを
 食べられる藻が生えていたらしい。瀬が早くて取ってお土産にできなかった。

1138番
*宇治川を「船渡せを」と呼ばへども聞こえざるらし梶の音もせず
「船渡せを」というのは当時の口語らしい。

1139番
*ちはや人宇治川浪を清みかも旅行く人の立ちがてにする
 宇治川の水があまりにきれいなので、先を急ぐ旅人が立ち去りかねるほど

1699番
*巨椋の入り江とよむなり射目人の伏見が田井に雁渡るらし
1700番
*秋風の山吹きて瀬の鳴るなへに天つ白雲翳りあふかも
 秋風が吹いて来る頃に雁がやってきた

2427番
*宇治川の瀬ぜのしき浪しくしくに妹は心に乗りにけるかも
2428番
*ちはや人宇治の渡りのはやき瀬に逢はずありとも後はわが妻
2429番
*愛しきやし逢はぬ子ゆえにいたづらに宇治川の瀬に裳の裾濡れぬ
2430番
*宇治川の水泡逆巻き行く水のこと反らずぞ思ひ始(そ)めてし
 流れて行く水のように後戻りできないように思いはじめてしまった!

2714番
*もののふの八十宇治川の早き瀬に立ち得ぬ恋も吾はするかも
 自分自身の心の中の宇治川をコントロールできないような恋をしてしまった!

 そんな万葉の歌に歌われた宇治川は交通の要所であり、
1/かつて大海人はここを渡って吉野に逃れた歴史
2/網代という漁があり、藻を土産にもした
3/渡し守がいた
4/旅人が足をとめるような景色
5/とどめられないような流れの速さ

 など、、、だそうです。  
 
 それにしても万葉人の豊かな心と描写力はすごいですね!子規くんならずとも脱帽!


2011年8月7日
万葉集の花の萩です!
 早いものでもう立秋です。万葉集もまた1週間たってしまいました。
 今回は「難波」。

 難波の宮は、645年、大化の改新の12月、孝徳天皇は都を難波に移したのです。654年寂しく崩御されるまでここに都がありました。
 何処かと言えば、大阪の「なんば」らしい。

 平城京の人たちは、難波のことをどう思っていたのか、海辺の田舎。
 そのことが分かる歌を、上野誠先生が紹介してくださいました。(ラジオね)
 当時は、京都は、、、ない。神戸の発達は幕末以降、当時の大きな町は大和、飛鳥、平城京、次に言えば難波。

1062番
*やすみしし わが大王の あり通ふ 難波の宮は 鯨取り 海片付きて
 玉拾ふ 浜辺を近み 朝羽振る 浪の音騒ぎ 夕凪に 梶の音聞ゆ
 (長いので略) 
(鯨やきれいな石の採れる海岸だった)

1063番
*あり通ふ難波の宮は海近み海童女らが乗れる船見ゆ
1064番
*潮干れば葦辺に騒ぐ白鶴の妻呼ぶ声は宮もとどろに

 これによって難波の特徴は、海辺の風情、海鳥、海女の姿などに象徴されている。
天平時代16年 聖武天皇の時代の難波宮の歌に難波に住んでいる人「なにわびと」についの歌がある。
2651番
*難波人葦火焚く屋のすしてあれどおのが妻こそ常めずらしき
(難波は湿地帯で木がないので葦で煮炊きをするので、すすけているが自分の妻はいつもかわいい!)

1726番
*難波潟潮干に出でて玉藻刈る海の乙女ら汝が名のらさね
1727番
*漁する人とを見ませ草枕旅行く人に妾は及かなく
(名前を教えて、という問いに、旅のお方に名前なんか教えられない)
(難波潟には玉藻を刈っているいる女性たちがいて臨時の歌垣の場ができていた)

平城京の人たちは難波をどうとらえていたのか
312番   藤原宇合(うまかい)
*昔こそ難波田舎と言はえけめ今は京引き都びにかり
(宇合は726年10月、33歳の時に難波宮再建の責任者になって、無事役目を果たした)
(昔こそ難波田舎といわれたが、今はすっかり都になって都らしくなった)

みやこという言葉
はじめに家を表す
「や」があり、そこに天皇のいる場所の「み」がつき、(みや)、その周辺の空間を表す「こ」がついて成立!

天皇たちが都、または「副都」にしようとした難波の重要さは「みなと」にありました。
遣唐使、遣新羅使、そしてまた「防人」たちの集合場所でもありました。
4329番
*八十国は難波に集ひ舟飾り我がせむ日ろを見も人もがも
 足柄下郡の防人が、出航の船飾りをした舟を家族に見せたいなあ、と。

 難波に集った防人の歌を大量に家持が集めたのが万葉集の出来た元らしい。
 家持が集めなければ、後世の私たちに伝わることがなかったのです!

 という、今週の上野誠先生でした!メモに間違いがあったらごめんなさい! 

2011年8月14日
様子でした。
 直線で行けば急峻ないこま越え、回り道で行けば竜田越え。

977番   草香山の直越えをして(のちのくらがり峠)
*直超えのこの径にてしおし照るや難波の海と名づけけらしも
 おし照るは難波の枕詞ですが、作者は峠を越えて照り輝く大阪湾に出会って、
 (この道だからこそ、なるほど、おし照るなにわの海と名付けたんだ!)

1428番
*おし照る 難波を過ぎて うち続く 草香の山を 夕暮れに わが越え来れば
 山も狭に 咲ける馬酔木の 悪しからぬ 君を何時しか 往きてはや見む
 (あまりにも馬酔木の花が咲いていて山からはみだすくらいだ。道を急いで一刻も早くあなたに会いたい)
 早く行ける直線の道。

 竜田越えで旅立つ人を見送る歌。難波に行く人を平城京に住んでいる人は、出かける人を竜田まで送って行き、帰って来る人を竜田まで迎えに行った天平の頃の竜田越えの事がわかる。
1747番
*白雲の 竜田の山の 滝の上の 小椋の峰に 咲きををる 桜の花は
 山高み 風し止まねば 春雨の継ぎてし降れば 秀つ枝は 散り過ぎにけり
 下枝に 残れる花は しましくは 散りな乱れそ 草枕 旅行く君が
 還りくるまで

 行きも帰りも竜田の桜を見たいので、残っている桜よ散らないでおくれ

1748番 反歌
*わが行きは七日は過ぎじ竜田彦ゆめこの花を嵐にな散らし
 (私たちの旅程は7日である。1泊で着き、難波に3~4日滞在して、また1泊して帰る)

 当時の河内には、さまざまな技術を持った亡命百済人の集落があり、渡来人のハイテク工業地帯でした。そこはファッションの最先端でもありました。
1742番 河内の大橋を一人行く娘子を見て
*級照る 方足羽河の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き
 山藍もち 摺れる衣着て ただひとり い渡らす子は 若草の
 夫かあるらむ 樫の実の 独か宿らむ 問はまくの 欲しき我妹が
 家の知らなく
(大和川(または石川)の真っ赤に塗られた橋を赤いスカートに青い上着を着て渡っている娘の姿もまた可愛らしい)

1743番
*大橋の頭に家あらばうらがなしく独りゆく児に宿貸さましを

 一方、海の方へ目を転じると、当時大阪湾はちぬの海と呼ばれていました。
2486番
*血沼の海の浜辺の小松根深めてわが恋ひわたる人の子ゆえに
 (表面上思うのはまだ浅い、ちぬの海の小松が根っこを深く張るように愛しています)

1145番
*妹がため貝を拾ふと血沼の海に濡れにし袖は乾せど干かず
 (恋人へのお土産に貝を取っていて袖を濡らしてしまった。一人で干すのはわびしいよ~!)

☆いろいろな出来事を率直に歌って、、、、万葉人の豊かさ大らかさが伝わってきますね。
 河内は流行の最先端の町だったようです。  

2011年8月20日
NHKラジオ古典講読の時間、今週の上野誠先生の万葉集は草を枕の旅の歌。
 古代の旅は、今のように楽しみのためでなく、天皇の御幸に従う旅、官命を帯びての旅でした。(貴族階級ね)そのついでに景色を眺めお土産を調達し、恋をするという楽しみがついてきた。

 今回は紀の国への旅です。

神亀元年(724年)聖武天皇即位の年10月、山部赤人は紀の国への御幸に同行します。
 917番
*やすみしし わご大王の 常宮と 仕へまつれる 雑賀野ゆ 背向に見ゆる
 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白浪騒き 潮干れば 玉藻刈りつつ
 神代より しかぞ 尊き 玉津島山

 918番  反歌
*沖つ島荒磯の玉藻潮干満ちて隠らひゆかば念ほえむかも
(潮が満ちて玉藻が隠れてしまったら思いやられることだなあ)
 919番
*若の浦に潮満ちくれば潟を無み葦辺をさして鶴鳴きわたる

 歴代の天皇はなぜ紀の国への御幸を繰り返したのか
1/即位したことを旅で人々に知らしめる
2/神武天皇の紀の国から大和入りの神話
3/白浜の室の湯を管理することで、それを使う権利を臣下に与える
4/魚介類や真珠などの紀の国の産物を管理する
 
 919番の歌は、万葉集の中の名歌として、「叙景の歌人、山部赤人」の代表作として鑑賞されている。しかし、上野先生は、この鑑賞は万葉集の研究としてちょっと違うと考える。
 独立させずに、長歌、第1反歌、の次の第2反歌として、天皇の作った離宮の自然を詠む歌の中での自然をみつめる目という部分で見るべき、とのことです。

 3318番
*紀の国の 浜に寄るといふ 鮑玉(あわびたま) 拾はむと言いて
 妹の山背の山越えて 行きし君 何時来まさむと 玉鉾の 
 道に出で立ち 夕卜(ゆふうら)を 吾が問ひしかば
 夕卜の 吾に告らく 吾妹子や 汝が待つ君は 沖つ浪 来よる白珠
 辺つ浪の 寄する白珠 求むとぞ 君が来まさね 拾ふとぞ
 公は来まさぬ 久にあらば 今七日ばかり 早くあらば 今二日ばかり
 あらむとぞ 君は聞きしし な恋ひそ吾妹

 (真珠を持って帰ると言う人の帰りを待ちわびて、夕卜(ゆふうら)=夕方に出る占いに聞いた所、長ければ7日くらい、早ければ2日くらいで帰ってくるだろうと、、、) 

反歌  3319番
*杖衝きもつかずも吾は行かめども公が来まさむ道の知らなく
(杖をついてでも迎えに行きたいが、あなたのやってくる道が分からない)

 難波や河内と違って紀の国は遠くて道も分からない。
 その紀の国にまつわる悲劇。

141番     有間皇子
*磐代の崖の松が枝を引き結び真幸くあらばまたかえり見む
 有間皇子は孝徳天皇の遺子であり、有力な皇位継承者だった。中大兄のライバルと目され、斉明天皇の657年、紀の国へ病気療養のためとして行った。
 658年斉明天皇御幸。
 10月蘇我の赤兄より「今の政治はおかしい。民は苦しむばかり、皇子よ立って政治を良い方に変えてほしい」と相談される。 
 11月    有間皇子邸包囲される
 11月5日  有間皇子捕縛される
 11月11日 藤代の で絞殺される

142番    有間皇子
*家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
(護送中のわびしさ)

 そしてこの事実を語り伝える人々が続いた。
 40年後。701年の御幸に長忌寸意吉麻呂の歌2首
143番
*磐代の崖の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも
(この松の枝を結んだ人は、帰ってきてまた見たのだろうか)
   
144番
*磐代の野中に立てる結び松こころも解けずいにしへ念ほゆ

 のちの人々は御幸の行き帰りに「あれが結び松だよ。本当は謀反じゃなかったのかもしれない。濡れ衣を着せられたのかも」などと語り合っていたらしい。

 次に山上憶良の歌。
「この歌は葬儀の歌ではないけれど、内容の意味によって挽歌に入れた」と左注がついて有馬皇子の一連の作に並べられた。次の時代の人の皇子への思いが窺われる。
*つばさなす あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
(御霊は鳥のように行きつつ見ているだろうけれど、あの無念の気持ちを人は知らなくても松だけは知っているだろう)

 天智天皇の世が終わり、天武の世も終わって、当時は謀反人とされていた有間皇子の復権がなされたと、読める歌!だそうです。
 なるほど~よく分かりました!

2011年8月28日
「みくまの」
 今週のNHKラジオ第2放送「古典講読」の上野誠先生の万葉集は、「熊野」がテーマでした。
 古代文学における熊野のイメージは頭に「み」や「ま」をつけられている場合が多く、その森の深さや自然が奈良盆地に住む人々にとって「畏敬」の念を持つものだったことが分かるそうです。
 古代の人の書き残したものによって、私たちはその頃のことを知ることができるのです。
 
496番    柿本人麻呂のうた
*み熊野の浦の浜木綿百重なす心は念へど直に逢はぬかも
(熊野の浦のハマユウがたくさんたくさん咲いているようにあなたを思っているのに直接逢えない)

 古事記の神武の東征の所に
「熊野はなかなか従わない、そのとき、土地の精霊が大きな熊の姿になって姿を現した、すると兵士たちは気分が悪くなって倒れてしまった、、、」という記述があり、その自然への畏敬が古代的な想像力によってこういう書かれ方をしたらしい。

 また、古代の人が熊野で思い出すのは船だそうです。
944番   山部赤人のうた(播磨灘あたりで)
*島隠り吾が漕ぎ来れば羨しかも大和へのぼる真熊野の船

 赤人は自分の船から、ある船を見て「熊野の船」と見分けられた。なぜか?
1/へさきに熊野のご神木「なぎ」をかかげていた。
2/船の構造上の形で分かったのではないか。

 熊野で作られた船は優秀なので全国を行き来していたらしい。
 日本書紀に「熊野もろた船」という記述があり、海のみでなく川の溯上もしていたらしい。

1033番   大伴家持のうた
*御食つ国志摩の海人ならし真熊野の小船に乗りて沖辺漕ぐ見ゆ
(天皇のための海の幸を採る志摩の漁師たちだろうか、熊野船で沖を漕いでいく)

 赤人も家持も遠目でも熊野の船が分かった!なぜ?

3172番
*浦み漕ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし
(浦と浦を漕ぎ回っている熊野の舟、熊野の舟をみんながいとおしく思っているようにそんなふうにあなたのことを思っているのです)

 なぜ熊野の舟は人々に愛されたのか?
 海と森の熊野の暮らしが培った造船技術、操船技術の高度化が、熊野の船をブランド化させた。
理由
1/多島海航海に適している=座礁、渦潮などクリア
2/機動性がある、進む、廻る、止まる
3/高速で走れる
4/用途に合わせて多目的に使える(注文に応じていろいろな船を造れる技術)
5/川ものぼれる(櫓をたくさんつけられる技術)
6/広範囲での活動実績

 なんだそうです。そしてそれを支えたのは、、、森の沢山の木、、、。

 上野先生は、日本霊異記のお話を一つ紹介してくださいました。
 「紀の国の村にあるえらいお坊さんがいて浜辺の人々を教化していて、南の菩薩と呼ばれていました。そこに修行したいという一人の僧が、法華経の教典と水瓶と縄で作った椅子を持ってやってきました。(ここだけリアルね!)
 修行を終えて僧がその地を去るときには蒸し米の干し飯などを持たせてやりました。

 2年ほどして、熊野の人が船にする川上の山の木を伐っていると、山の中から法華経が聞こえてきます。その声をたどって行ってみると、屍が、、、。
 それはあの時の僧の白骨でした。
 どくろの中に舌だけが残って、法華経を唱えていたのです。」
 
 さすが日本霊異記、変な話。
 でも、これで熊野の人が川をさかのぼって船にする材木を切り出していたことが分かります。

 熊野、みくまのって、木の文化、山の文化、海の文化が一つになって
「多元的文化論」(と言われたんだと思う)の分かる土地(見本みたい?)な土地だった、、、とのことです!

2011年9月4日
 さて、今週のNHK古典講読、上野誠先生の「万葉集」のテーマは、東うた、でした。巻14のすべては東歌だそうです。

 上野誠先生によれば、古代の地方文化が万葉集で分かる。文化の中の最も大切なのは言葉、万葉集には地方の言葉=方言で書かれているものがある。
 それは、1/東うた。2/防人のうた。だそうです。

 東うたはどんなものを言うのかと、学会で意見も分かれていたそうです。
 かつては、東歌は、東国の人の作った歌、と都から東国に行った人の歌とある。それは、方言が色濃くある歌と、大和とあまり変わらない歌もあるため。とされていた。
 そののち、歌謡だったという意見も。
 また、方言に地域差が少ないので、これは東国訛りふう歌である、という考え方も。

 ともかく、東歌には、大和と変わらないものと、かなり積極的な直裁な恋の歌、生産に関わるもの、という3つが特徴だそうです。

 巻14の最初の歌
3348番   上総国の歌
*夏麻引く海上潟の沖つ渚に船はとどめむさ夜ふけにけり
(夏麻(なつそ)引く、は「うな」(海の中の潟)の枕言葉。おそくなったので、ともかく船は留めましょう)

 千葉には海上郡海上町(かいじょうぐんうなかみまち)という町があり、ここの歌だと思っていましたが、特定はされてないみたい。

3349番   下総の国の歌
*葛飾の真間の浦みを漕ぐ船の船人騒く浪立つらしも
(船人が声をかけあうようになった、沖では浪が立つようになったらしい)

3350番   常陸の国の歌
*筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも
(私は、すごく良い絹の着物を着ているけど、あなたの着ている着物が無性に欲しいのです)
 昔、愛し合った男女は肌着を交換する週間があったのでそうです。これは女性からの求愛のうた)

3351番   常陸の国の歌
*筑波嶺に雪かも降らる否をかも愛しい児ろが布乾さるかも
(筑波山に雪が降ったのかなあ、いやそうではない、愛しいあの子が布を晒しているのだろう)
 これには、作者が見ているのは何?の論争があり、
 雪を見て布を晒す姿を想像、と、晒した布を見て雪を想像、とあるそうです。上野誠先生は、布を干しているのをみて、、、の労働の姿と捉えるそうです。

3352番  信濃の国の歌
*信濃なる須賀の荒れ野にほととぎす鳴く声きけば時すぎにけり
(ほととぎすが鳴く声を聞けば、、、の解釈がいろいろあり
・待ち人来ない
・農業(種まきとか)の時期を過ぎてしまった
・ほととぎすの声に「時すぎ」をかけた
 
 巻14の巻頭の歌5首で、上総、下総の歌は都の歌と変わらない、常陸の歌は東歌らしい、信濃の歌は都の人の作らしい。

 次に、当時の風習の分かる歌。
3371番   相模の国の歌
*足柄の御坂かしこみくもり夜の吾が下延へを言出つるかも
(足柄山の峠越えが余りに怖くて、人に教えてはいけない思っていた恋人の名前を言ってしまったよ!)
 昔は、危険な峠越えをする時に、地の神様にお供え物をする風習があったが、それがない場合、自分の大切な秘密を神に教えて、それを供物とする風習があった。
 当時、女性は自分の名前を恋人以外には明かさなかったのだが、その大事な名前を神への供物にしてしまった、なにしろそれほど怖い足柄峠越えだったんだよ~)

3560番  
*真金吹く丹生(にふ)の真朱(まそほ)の色に出て言はなくのみぞ吾が恋ふらくは
(金の精錬に使う硫化水銀を「にふ」といってその朱色は類を見ないほどの朱色だった、
 そのはっきりとした赤い色のようには、はっきりと言わないだけですよ、私が激しくあなたを思っていることは)    
 万葉の時代に金の精錬に硫化水銀を使っていたなんて、、、、それを歌にするなんて、すごい技術系の男子がいたんですね~!
 素敵!

2011年9月11日
東歌には、都の人と違った視点で歌われているものがある。
例えば、巻14の3355番 駿河の国の人のうた  
*天の原富士の柴山木の暗の時移りなば逢はずかもあらむ
(雑木の山の富士山に柴刈りに行って目印にして会った木の下も柴刈りの季節が終わって逢えなくなってしまった)
 都の人が遠く眺めて美しさを歌った富士の山も、生活の場だった。
3356番
*富士の嶺のいや遠長き山路をも妹がりとへばけに及ばず来ぬ
(長い長い富士の裾野であったとしても、妹の所に行くということならば、息を上げたりせずに雑作無く行くことだよ)

 上野先生によれば、犬養孝先生は
「山辺赤人の歌と比べてみてください。赤人は雄大だと歌うでしょう。けれど、東歌はその富士も柴山なんです」
 と言われたそうです。
 
3373番  武蔵国のうた
*多摩河に曝す手作りさらさらに何ぞこの児のここだ愛しき
(当時、衣類に関することは女性の仕事だった。織った布を柔らかくする過程で、川に曝す行程があった。それは重要な重労働だった。
 相手のきびしい労働を見る事により、愛おしさが増す、、、。
 この歌は、布の生産にかかわる人たちが歌いながら働いたものらしい。)

3400番  信濃の国のうた
*信濃なる筑摩の河のさざ石も君し踏みてば玉と拾はむ
(川の小石は無限にあって価値もないけれど、あなたが踏んだ石ならば宝石のように思って拾いましょう)
 犬養孝先生は、特攻隊の基地だった知覧に、戦後訪れて、知覧の石を拾って来て息子の死を悼む母の心を話されたそうです。

3459番  
*稲搗けばかかる我が手を今宵もか殿の若子が取りて嘆かむ
(稲つきをしてこんなに荒れた私の手を、今夜もお館の若様が手に取って嘆いてくれるのでしょう)

 現実には、お館の御曹司が呼ぶ事はあり得ないが、重労働に明け暮れる女たちが声を合わせて働きながら歌ったうたではないか、とのことです。
 もののけ姫の、たたら山でふいごをあやつる女たちのパワフルさを思い出しました。

3484番
*麻をらを麻笥(おけ)に多に績(う)まずとも明日着せさめやいざせ小床に
(麻をそんなに紡がなくても、どうせ明日着る事なんかできないんだから、働くのはやめて一緒に寝床に入ろうよ!)
 女性たちが働いているところに、男たちがやってきてこういう歌を歌ってちょっかいを出す、、、。
 現在の「桶」という言葉は「麻笥」の「おけ」から来たようです。

美女伝説も東歌にあります。
3384番   下総の国のうた
*葛飾の真間の手古奈をまことかも吾に寄すとふ真間の手古奈を
(あの(伝説上の美人の真間の手古奈が私に気持ちを寄せていたって?)
 みんなの前で歌ってみんなが笑う歌)

3385番
*葛飾の真間の手児奈がありしかは真間の磯辺に波もとどろに
(手児奈がいたならば、長い浜辺に波がとどろくようにみんなが噂していたことだろう)

3386番
*鳰鳥の葛飾早稲を饗すともその愛しきを外に立てめやも
(神にお供えをする神事の時、神が男性の場合、人間の男は外に出される。家の中には女しかいない。そんな時、男がやってくる。(通ってくる人ね)
 女は思う(あの愛しい人を外に立たせておけようか。タブーを破って受入れてしまおう)という強い決意。 
 
3387番
*足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ
(足の音のしない馬はいないものだろうか。そうしたら噂を気にしないでしょっちゅう通って行けるのに)
 継橋とは、川幅が広いので途中に橋桁を立てて板をつないで懸けた橋。江戸川は当時から広かったのですね。

 あり得ない伝説の手児奈、足音のしない馬、伝説を聞いて語り次ぐ人々の声、生活に根付いた歌、東歌には万葉の時代に東国に生きた人たちの息づかいが、なまなまと感じられるような気がします。

2011年9月18日
銀杏の秋です。万葉人も食べたかな?
今週のNHKラジオ第1放送、上野誠先生の「万葉集」のテーマは、防人の歌でした。
 前の戦争の折り、学徒出陣の学生たちが持って行った本に、斎藤茂吉の「万葉秀歌」や「愛国万葉集」があったそうです。それは防人の歌に魅かれて。
 防人の歌は素朴な農民詩であるとともに、別れる事で家族の絆に気付く「家族愛」という大きなテーマがあったから。

 そしてまた、研究者の間では隠れたテーマとして
●国家と個人の関係(心情)が、ある時は合致し、ある時は合致しない。
●歌の中の東国方言によって万葉時代8C中頃の地方文化を知ることができる
 貴重な資料になっているそうです。

 さきもりとは、大和の言葉で岬、または最前線を守る人の意。21歳かr61歳までの男が主に東国から集められ、難波までは地元の役人が引率、そこで訓練や衣服を整え、九州各地に送られるそうです。
 
 8C中頃当時の国際関係としては、白村江頃より緊張が続き、主に唐と新羅に渤海がからんで、日本は国防の必要性があったらしい。
 (そうそう、キムユシンさまの鍛えた兵は強そう~!)

 なぜ東国だったかといえば、東国は大和王権の直轄地(他の貴族の持ち物ではない)で、軍事的基盤は東国にあったんですって。
 そして防人の歌は九州で作られたと言われているがそうではなくて、集められたのは「難波津」で、家持が大伴家の仕事として防人たちと接点を持ち、防人に心を寄せて755年に集めたのだそうです。
なので、防人の歌は
●出郷時
●難波津に来る時までの歌(望郷)
●難波津の歌
 がほとんどらしい。
では
4329番  足柄下郡の人
*八十国は難波に集ひ舟飾り我がせみ日ろを見も人もがも
(各地から難波に来て、出航のために私がした舟飾りを見る人はいないのかな)
4330番  鎌倉の人
*難波津に装ひ装ひて今日の日や出でてまからむ見る母なしに
(防人の服を来て準備をして出発して行く。見る母はいないけれど)
 このように防人の歌は日本の文学の主なテーマ=母、家族、こういう歌が学徒出陣の人たちの心をとらえたのだろう、と、上野先生。

4365番  茨城の物部の道足さん
*おし照るや難波の津より船装ひ吾は漕ぎぬと妹に告ぎこそ
(私は船を漕いで行ったと伝えてほしい)
 難波の津で訓練され、身なりを整えて出発。しかし見送ってくれる人はいない。
4366番  同じく道足さん
*常陸さし行かむ雁もが我が恋を記して付けて妹に知らせむ
(常陸へ行く雁はいないのかなあ、私の心を雁に託して恋人に知らせたい)
 この歌は、前漢の武将「そぶ」が、雁の足に書状を結びつけた、という「雁信の故事」を知っている作者のもの。知識レベルの高い事が分かる。
 
4369番  茨城県那珂郡の人
*筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹ぞ昼もかなしけ

4380番  足利の人
*難波門を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく
(しばらく難波にいて見慣れた生駒山、そこを離れてさらに故郷から遠くへ行く思い)
4322番  浜松の人
*わが妻はいたく恋ひらし飲む水にかご(影)さへ見えて世に忘られず
(かご、はかげの訛り。妻の姿が水に映って妻は私を切なく恋しがっているらしい)

4344番  
*忘らむと野行き山行き我来れどわが父母は忘れせぬかも
(忘れようと、野山を越えて私はやってきたけれど、父母のことを忘れられない)
 若い防人は父母が恋しい。防人の歌は家族愛の発見、絆を確かめる文学といえる。

4346番
*父母が頭かき撫で幸くあれといひしけとば(言葉)ぜ忘れかねつる
 けとばぜ=気等婆是と書かれていて、作者の方言を大事にしてそのまま仮名にしてある。

 上野先生が仰るには
「大震災で町全体がなくなってよそに移るしかない人たちがいる、そういう人たちに「方言をなくさないでほしい、故郷の言葉を忘れないでほしい」と、ことばの研究者たちがアピールを出した。
 言葉はすむ人の文化や精神と関わる大事なもの。」と。
 
 こういう分野の専門家の人たちも、東北に心を寄せているのが分かって嬉しかったです。

4402番  埴科の神人部の人
*ちはやぶる神の御坂に幣奉り斎ふ命は母(おも)父がため
(神様のいる畏ろしい神坂峠にささげものをして自らの命の無事を祈るのは、母と父のためなのです。私の命は父母から受け継がれたもの。自分がこの難所を無事に通るのは、父母のためでもあるのです。
 自分はいのちのリレーの途中にいるものなのだから)

 こういう万葉の歌を読んで、兵士となった学生たちはどういう思いだったのでしょう。
 今まで防人の歌はあまり読んだ事が無かったので、はじめてのように、防人たちの心に触れることができました。家持くんって、すごい! エラい!


2011年11月6日
今週のNHKラジオ第2放送、上野誠先生の古典講読「万葉集」は、高市連黒人の歌な
どでした。
高市連黒人については、よく知らなかったのですが、黒人は、旅愁の歌人、アンニュ
イというイメージを持たれていて、近代の人たちに高い評価をされているらしい。
完成度が高いのかも。
時代は、人麻呂より少し後れて持統、天武天皇に仕えた頃らしい。連は朝臣よりも低
い位。

270番*旅にして物恋しきに山下の赤のそほ船沖に漕ぐ見ゆ(沖を通る赤いべんが
ら塗りの船を見てそそられる旅情)

271番*桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴きわたる
(名古屋市南区の桜田、名古屋市熱田区のあゆちがた)

272番*四極山うち越え見れば笠縫の島漕ぎかくる棚無し小船(大阪、東住吉の四
極山を、越えてきて開けた海に見えた小さなくり船。旅の不安な心情は、近代歌人に
近い感覚)

273番*磯の埼漕ぎ廻み行けば近江の海八十の湊に鶴多に鳴く(琵琶湖の船着き場
に鶴がたくさん鳴いている)

274番*わが船は比良の湊に漕ぎ泊てむ沖へな放りさ夜ふけにけり(琵琶湖の比良
の湊へ停泊しよう。沖の方へ漕いで行くなよ。もう夜もふけているのだから)

275番*いづくにか吾は宿らむ高島の勝野の原にこの日暮れなば(日が暮れてしま
ったら、高島の勝野に泊まろう)
(この歌で、作者は船にいるのか、陸を歩いているのか2つの説があるそうです)

276番*妹も我も一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる(一心同体なので
別れられない、豊川の二見の分かれ道。ここで、1、3、2という数詞遊び的用法が
出て来るのも近代的?)

次に、沙彌満誓の歌。この人は笠麻呂という人で、旅人や憶良のお友達。
351番*世間を何に例えむ朝びらき漕ぎ去にし船の跡なきがごと(人生は空し
い!)

352番、若湯座の王の歌。
*葦辺には鶴が音鳴きて湖風寒く吹くらむ津をの埼はも(鶴の声を聞いて湖の風をイ
メージする豊かさ)

353番、釈通観の歌。
*み吉野の高城の山に白雲は行き憚りてたなびきにけり(山が高いので、雲もたなび
いている)

354番、日置少老の歌。
*縄の浦に塩焼くけぶり夕されば行き過ぎかねて山に棚引く(相生市のあたり。煙を
見て類推したところで詩ができる)

☆ものを見て、想像をふくらませる万葉人の豊かな感性があふれる歌ばかり!
そうそう、黒人さんの「三河なる二見の道ゆ」は、妻ではなくて遊女に送られて帰る
道すがら詠んだという解釈でいいみたい。旅愁の歌人も、けっこう楽しい人生だった
みたいで良かったです!

2011年11月13日
万葉集の多様性
今週のNHKラジオ第2放送の古典講読の時間、上野誠先生の「万葉集」は、巻16にある、宴会の戯れ歌でした。

万葉集は、7世紀の半ばから8世紀の半ばの歌、4516首が収められていて、いろいろな階層のいろいろなジャンルの歌が入っているんですって。
すでにこの時に全ての事が試されていて、その後の各時代によってそれぞれが引き出されているので、日本の全ての詩は、万葉集の2番煎じであると言えるのだそうです。

今は笑いの短歌はあまりないけど、巻16には「心の著く所無き歌=ナンセンス短歌」があるのです。変な歌ばっかりだけど、昔の人の息吹が生き生きと伝わってきます。

次は悪口合戦です。池田の朝臣が、大神朝臣に

3840番*寺寺の女餓鬼申さく大神(おおみわ)の男餓鬼賜りてその子うまはむ(大神の朝臣は非常に痩せていたので、男餓鬼)

大神朝臣が池田の朝臣の赤い鼻を笑って
3841番*仏造る真朱(まそは、硫化水素、赤い)足らずは水たまる池田の朝臣が鼻の上を掘れ

平群朝臣が穂積朝臣を嗤って
3842番*小児ども草はな刈りそ八穂蓼を穂積朝臣が脇くさを刈れ(臭そうなうた)

穂積朝臣が平群朝臣に
3843番*何処にぞ真朱(まそほ)掘る丘菰畳平群朝臣が鼻の上を掘れ(この人も鼻が赤かったらしい)

次は色黒を嗤う
3844番*ぬばたまのひだの大黒見るごとに巨勢の子黒し念ほゆるかも(大きい色の黒を見て、巨勢の小さい色黒のやつもいたっけな~)

それに答えて
3845番*駒造る土師の志婢麻呂白くあればうべ欲しからむその黒色を(色白のしび麻呂はその黒い色に憧れてるはずさ)

駒造るは、土師(はじ)の枕詞で、馬の埴輪を造ったことに由来するそうです。

夢で作った歌
3848番*新墾田の鹿猪田の稲を倉につみてあなひねひねし吾が恋ふらくは(猪や鹿が出るので早めに稲を倉にあげてしまった、、、ように、私の恋は人に先を越されてしまった)

痩せた人をからかって作った歌。

3853番*石麻呂に吾もの申す夏やせに良しという物ぞ鰻漁り食せ

3854番*痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を漁ると河に流るな
(吉田連老という人は石麻呂という名前。身体がひどく痩せていて、沢山食べても太らなかったので、大伴家持がこの歌を贈って戯れた、、、)
親しい仲間たちの宴会で歌われた歌。それを書き取る作業をする人たちがいたことで、今私たちは1300年前の宴会の楽しさを、缶詰の缶を開けたように楽しむことができるのです。

2011年11月20日
さて、今週のNHKラジオ第2放送、上野誠先生の古典講読「万葉集」は、巻の2の相聞でした。
 万葉集って、全体として「恋歌」の発想であり、それは歌の起源のひとつに「歌垣」=集団で男女がかけあいの歌をうたい、配偶者を捜す=があるかららしい。

 雑歌、相聞、挽歌が、万葉集の3大部立てなのだそうです。

85番    磐姫皇后の歌  以下4首
*君が行き日(け)長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ

 仁徳天皇の后の磐姫皇后は、古事記や日本書紀では嫉妬に狂う悪妻として書かれているそうですが、万葉集の歌ではそうではなくて、迷いつつ待つ女。
(あなたがなかなか帰ってこないので、山をたずねようか、お迎えにいきましょうか、ひたすら待ちましょうか?)

86番
*かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを
(こんなに恋しいのなら、行くのも大変な高山に登り、固いその岩を枕にして死んでしまいたい)

87番
*ありつつも君をば待たむうち靡くわが黒髪に霜の置くまで
((くるしいけれど)生きながらえてあなたを待ちましょう。私の黒髪が白くなるまで=白髪、戸外で待って霜が下りるの二重の映像が浮かぶ)

88番
*秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いづへの方にわが恋ひやまむ
(いつになったら、どの方向に私の恋は収束するのでしょうか)

古事記と万葉集でのイメージの違いは、歌の特性として、嫉妬深いは愛情が深いにつながる。また、それほどに慕われる仁徳天皇は、素晴らしい人だ!とのアピールの意味もあった、、、らしい。

 次に、天智天皇の鏡王女へのうた(鏡王女は、額田王の姉)

91番
*妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを
(ずっとあなたの家を見ていたい(思っていたい)から、その家が遠くからよく見える場所にあればいいのに)

92番   鏡王女が答えて
*秋山の樹の下がくりゆく水の吾こそ益さめ念ほすよりは
(秋山の木の葉の下を流れて行く水のように、秘かに思う私の方が、もっともっと強く思っています)
=負けてはならじと返す、歌垣の頃より、相手に見事と思わせるように返す伝統があるのではないか=

93番   藤原鎌足が鏡王女を娶った?時の鏡王女の歌
*玉くしげ覆ふを易み明けて行かば君が名はあれどわが名し惜しも
(夜が明けて帰ったならば、あなたの浮き名はともかくも、私の名前が惜しいので、どうぞ夜の明けないうちにお帰りください)

94番   鎌足もう一押し
*玉くしげ三室の山のさな葛さ寝ずは遂に有りかつましじ
(共寝できないなら、生きていられそうにありません)
=相手の言葉を使って返し、前半は意味を持たせないで、最後に意味が分かるようしてある歌の上級テクニック!鎌足くん、なかなかです。)

95番   鎌足が釆女と結婚できた喜びを
*吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり
(私は、誰もが得難いと言っている安見児を得たよ)
=釆女は天皇のものであったが、鎌足に特別に許しが出た。鎌足は大喜びして大得意なのがこの歌。
 その得意の原因は、
○誰もが手に入れる事ができない釆女を得た。
○天皇が自分だけ特別に許してくれたという栄誉。

 で、舞い上がっている歌だそうです。美女を手に入れた喜び、という単純なものではなかった、、、のですね。
 









  
  

 

  









  


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