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カテゴリ:家庭科
斉藤美奈子先生と言えば、同姓同名のミスミナコサイトウのことを、どうしても思い出してしまいます。バブルが咲かせたあだ花?でも、彼女の豪華絢爛のうしろに、意外と真面目な一面を感じてしまい、きわものとは言えない何かを感じる私です。
ミスミナコサイトウ(斉藤澪奈子)は、1956年東京生まれ、高校卒業後、ヨーロッパに留学、主にロンドン、フィレンツエで物理化学とルネッサンス美術史を学ぶ。 そして30代後半で結婚して、女の子を産んだそうです。 イタリアとの貿易、ファッションブランド、セミナーやカウンセリングに活躍。日本語以外に5カ国語を話し、豊かなブランドの知識で、当時の女の子たちの憧れの的になりました。 彼女の書いた「超一流主義」の前書きには嫌いな人なら身震いするような言葉がいっぱい。 「皆さま、お元気でいらっしゃいますか?ヨーロッパでの生活から私が学んだことは、”ディグニティー(誇り)”を持って生きるということでした。 ヨーロッパの上流の人々は、美しいものをこよなく愛し、毎日の生活をエレガントでバラの香りがあふれるようなたおやかさで包んでいます。しかし、エレガントに生きるためには、目には見えないたくさんの「努力」といえるものが必要だということも痛感しました。」 「さて、私が日本に戻ってからそろそろ8年が過ぎようとしていますが、最近私の生まれ故郷の日本の女性たちが、あまりにマテリアルで表面的な生き方しかしていないのを見て「もうそろそろ本当の一流の生き方を学んで欲しい」という思いがつのってしまいました。本当の美意識を養うことや、心の洗練に励むことが、ブランド製品で身を固めたり、見栄だけの生活様式を追いかけることより大切なのに、誰もそれを教えてあげない・・」 「私は、ヨーロッパ仕込みの”ディグニティー”と”ポジティブ・シンキング”という考え方を身につけたことで、女性として生まれたことの本当の幸せや、女性としての成功を味わっています。」 「さあ、皆さま、私と一緒に、生きていることの美しさをたくさん体験して、輝くようなディグニティーを胸に、気高い日々を送りましょう。」 ミスミナコは、こうして、バブルで手に入れた「財」のようなものを手にした親たちの、貧しい成長の記憶にはなかった上流階級の香りをちょこっと嗅がせて、夢を見させてくれた人だったんですね。 自分にはかなわぬ夢だったけど、努力すれば娘にはブランド品も海外旅行も、聖心もフェリスも白百合にも行かせられるという・・・娘は母の代理戦士の時代の水先案内人・・・。 彼女は、人間をアッパーとロウアーの2種類にわけて評論しています。おおまかにいうと成金ぽいのをロウアーといってものすごく馬鹿にしています。成金になれなかった私はこの部分でひどく共感したのでした。 メイクや食事、ブランド、香水などの女の子向けのものの中に少しだけ理屈をこねた文もあります。 「私のことを”ハイソ(ハイソサエティーの略。こういった短縮語を日本人は好むが、私の感性には合わない)評論家”と呼ぶ人がいるが、私は評論家ではないし、その類の人種が嫌いである。 私が思うに、評論家は”不毛の人々”にすぎない。なぜなら、いかに過去の歴史的かつアカデミカルなデータを学んだとて、決定的なリアルタイムの経験には、誰もかなわないからだ。 すなわち、評論家たちの積み重ねられた机上の努力は、たった一回の実践という経験の前では、瞬時にして消え去る運命に置かれているわけである。」 こうしてマスコミにももてはやされた彼女でしたが、経歴や出自の詐称疑惑などが起き、ブームも消えました。女の子を出産したあと、亡くなったそうです。 当時、ほんとに面白いと思ったアッパーのわけかた、ちょこっと真似をしたりもしました。今読むと、そう面白くも斬新でもないのは、時代が彼女に追いついたのと、私が年をとったせいでしょう。 でも、今になると彼女の息づかいが聞こえてくるような近さを感じます。けっこう本物だったんじゃないかと思うんです。 斉藤美奈子先生は、講演の時に同じ名前の彼女のことを話されることもあるそうです。いつか、斉藤美奈子による、ミスミナコサイトウの分析を読みたいものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.09.27 12:35:09
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