本文=なほ眺望くまなからむと、うしろの峰に這ひ登り、松の棚作り、藁の円座を敷きて、猿の腰掛と名付く。かの海棠に巣を営 び、主簿峰に庵を結べる王翁・徐栓が徒にはあらず。ただ睡癖山民と成って、さん顔に足を投 げ出だし、空山に虱をひねつて坐す。
<解釈>
さらに眺望をくまなく見届けたいと思い、後ろの山に這い登って、松の木の枝に棚を作り、わらの円座を敷いて、自分が猿になって座ろうと猿の腰掛と名前をつ けた。「猿蓑」!万物斉同の考えに基づき。海棠の木の上に庵を作って友と酒を酌み交わしたという徐栓、街中の隠士王翁、予は彼らのような隠者とはなれず、 山の民となってただ、のんびりと暮らしたいだけだ。
(これは最終稿で、はじめは彼らのように、また彼らよりも勝る幻住庵と書いていたらしい)
本文=たまたま心まめなる時は、谷の清水を汲みてみづから炊ぐ。とくとくの雫を侘びて、一炉の備 へいとかろし。はた、昔住みけん人の、ことに心高く住みなしはべりて、たくみ置ける物ずきもなし。持仏一門を隔てて、夜の物納むべき所など、いささかし つらへり。
さるを、筑紫高良山の僧正は、賀茂の甲斐何某が厳子にて、このたび洛にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞ふ。いとやすやすと筆を染めて、「幻住庵」の三字を送らる。やがて草庵の記念となしぬ。
<解釈>
(自分の生活)たまたま気が向けば谷の水を汲んで炊事をする。(まめでないときはどうしていたか。幻住庵には門人たちが頻繁に訪れ、来訪者の差し入れも あった。また4月21日の乙訓あての手紙には=明日あなたを訪ねたい=とある。ご馳走してもらっただろうし、お土産もあったろう。)
とくとくの雫という言葉は、吉野の山奥、西行庵を訪ねた時を思い、西行の歌を思い
*とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすほどもなき住まひかな
自分を西行に重ねながら水を汲み炊事をする暮らしを。
簡素であることに大きな価値をみとめ、侘びの風情を味わう、質素をむねとする草庵の暮らしについて「いとかろし」としている。この頃から芭蕉は「軽き」「軽軽といった言い方で、その理想的なあり方を言うようになる。
この庵の本来の所有物幻住老人の高潔な生活方針。趣向を凝らし風流めいたものは何も置いていない。守り本尊の仏様の部屋から障子1枚を隔てて夜具を置く場所などが少しだけしつらえてある。
何もないけれど、高良山の僧正が上京した折に、仲介してくれる人がおり、気軽に「幻住庵」の額を書いてくれた。これが、そのまま、この草庵を記念するものになった。
(最終稿以前には、裏に「芭蕉」という名を書き、のちにこれを見る人に昔を思う(芭蕉がいたという)よすがにしてもらえれば。と書いた。しかし、最終的には「額そのものが庵の名を伝えることになる」と変えた。)
本 文=すべて、山居といひ、旅寝といひ、さる器たくはふべくもなし。木曾の檜笠、越の菅蓑ばかり、枕の上の柱にかけたり。昼はまれまれ訪ふ人々に心を動か し、或は宮守の翁、里の男ども入り来たり て、「猪の稲食ひ荒し、兎の豆畑に通ふ」など、わが聞き知らぬ農談、日すでに山の端にかかれば、夜座静かに、月を待ちては影を 伴ひ、燈火を取りては罔両(もうりょう)に是非をこらす。
<解釈>
そもそも山での暮らしであり、旅寝の一端なのだから何もいらない。あるものといえば木曽の檜笠、越の菅蓑ばかりである=これらは芭蕉たちにとって「旅」を象徴するもの=枕もとの柱にかけてある。
昼はまれまれにたずねて来る人々の話に感動し、神社を守る老人や里の男たちの猪やウサギの話など、予にとっては聞いたことのない話で新鮮なのだった。
夜になって自分の場所で月の出を待てば、その月によって私の姿に影が生じ、灯火をつければもうりょう=影の外側の薄い影があらわれるのだった。
今週は、ここまででした♪