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朝吹龍一朗の目・眼・芽

朝吹龍一朗の目・眼・芽

柳絮とぶ

柳絮とぶ その1
                            朝吹龍一朗

 Buono!(美味しい!)と、人差指で押した頬の凹みががゆっくりと戻る。
 二人して都心のイタリアンレストランでとびきりのワインを傾ける。銘柄はエストエストエスト。直訳すると、ここ、ここ、ここ、という感じかな。ぼくの恋人は70歳のおばあちゃんだ。

 ある年の遅い春、土曜日の朝。お誂え向きの霞がかかり、日差しは暑くもなく淋しくもない。風速1メートル、何もしなければ感じないが、もし汗でもかいていればすうっと乾かしてくれる程度の絶妙な塩梅。そんな日、ぼくは世田谷の中小河川を暗渠にした緑道を散歩していた。

 道の真ん中に土の島があり、高さ20メートルくらいのかなり大きな木が、巨体の割に優しい雰囲気を見せて育っていた。赤くて繊細な花が咲いている。樹木全体が穏やかな表情をしているのはこの不似合いなほどかわいい花のせいだと思う。
 根元を見ると、「ベニバナ栃の木」と書いた札が刺さっている。ふうん、ぼくは初めて見るそのベニバナ栃の木という名前の木を、花を見上げていた。別に急ぐわけでもない、散歩のついでである。ただ珍しいから気が抜けたように見ていた。

「あら、きれいな花、なんていうかご存じ?」
 少し高めの、そう、歳とってキーが下がったソプラノ歌手くらいの声。振り向くと白いつば広の帽子を少しあみだにかぶって薄いピンクのレース柄のブラウスを羽織り、やはり白い重ねロングスカートをはいたご婦人が自転車から降りてぼくに微笑んでいた、首を右にかしげて。
「ベニバナ栃の木です」
「よくご存じですね」
「いや、下に、名札が」
「あら。でも何年も通っているのにこんなにきれいな花が咲くなんて知らなかった」
「パリに行けばマロニエ、ですよね」
「あら、マロニエは鈴掛けの木じゃ」
「スズカケはプラタナスですね」
「あ、そうかそうか、デイケアセンターの前にあったっけ。これからどちらへ?」
「散歩ですから。この辺は初めて足を向けたので、どこへどうというあてはありません」
「じゃあ、お茶でもいかが。うちはすぐそばなんだけど、何なら行きつけの喫茶店でも。ああ、もちろんわたしがごちそうするから」

 大学院の後期課程に進学したばかりのころだった。たしかにお金には縁のなさそうな顔をしていたかもしれないが、それにしても、とおもいつつ、しかし下手するとぼくのおばあちゃんに相当するかもしれない年齢に見えたから、ごくごく明るく返事をして自転車の後をついて行った。
 彼女の夫はしばらく前に脳卒中で倒れ、老老介護の日々だそうである。週に何度か、近くにある介護施設に預け、自分は束の間の休日を楽しむのだという。

「結婚してからもしかしたら初めての休日かもしれないのよ、だって主人は居職(いじょく)だったから、毎日毎日、家にいたしね。結構旅行もしたけど、ほとんどは主人の取材を兼ねてるから、ほうぼうでいろんな人と会ったりするの。そのたんびにわたしはきちんと和服を着ておもてなしをしなきゃいけないしね、休日だよって、主人は言うんだけど、わたしにはちっともお休みっていう感じがしなかったな」
 行きつけ、というコーヒーショップは経堂駅のそばにあった。彼女は初対面のぼくに向って屈託なくそんな話をした。ぼくはぼくで、およそ就職口がなさそうな文系の博士課程に進学したこと、九州の親元から離れてもう3年も帰っていないこと、正月はともかくお盆に帰らないので今では友人たちも含めてぼくのことを非国民扱いしていること、そして、この歳になっても心を許せる異性の友達がいないこと、などを、なぜか屈託なく話してしまった。

 別れ際、
「今度、電話していいかな、携帯の番号教えてくれるかな」
 病人ほど青白くはないが、透き通って向こうが見えてしまいそうなほど白い頬を桃色に染めながら彼女が言った。切れ長の目は少女のように輝き、手入れはしていないと思われるのにすべすべとした肌には老人斑も出ていない。ちょっと薄暗くて老眼だと本を読むには苦労しそうな店内にはぼくたちのほかには誰もいない。
 ぼくは、低めのテーブルの上に右を上にしてきちんと揃えられた手を取って、
「君の名前と住所と連絡方法を教えて欲しい」
 と言った。
 喫茶店の外はもう夕陽に近かった。                 


   
柳絮とぶ その2
                       朝吹龍一朗

「中国に行ってきたの。柳絮(りゅうじょ)って知ってるかしら。名前に柳が冠されているから、ついつい柳だとおもっていたんだけど、実際は“毛白楊”って、中国では呼んでいて、日本でいえばポプラの一種なんですって」
ぼくは黙っていた。
「どうしていきなり中国かって、聞かないの?どうしてすっぽかしたか、聞かないの?」

出会ってからもう2年になる。ぼくはなんだかんだ言いながらジャーナルに掲載する論文を3本仕上げ、博士論文自身の作成も峠を越えつつあった。必要に駆られて始めたイタリア語の勉強だったが、彼女もいっしょにやるんだと言い張るので、二人が一番通いやすい渋谷にあるイタリア文化センターに週一回通学した。覚えたてのイタリア語をレストランで使うのが彼女の茶目っけだったが、好奇心と向上心と努力と年齢は比例しない。下手にBuono! なんてやると、人差指で押した頬がへこんだままなかなか戻ってこないのだが、本人は気付かない。ぼくだってかっこ悪いからやめろとは言えない。

ぼくたちのデートコース、それをデートと呼んでいいなら、は、いつも決まって世田谷の緑道だった。ご主人をデイケアセンターに送り届けた後、授業(コースワーク)なんてとっくに取り終わっているぼくのほうは時間的制約がないから彼女の家までお迎えに行った。自転車を広い庭先に無造作に止めると、ぼくが待っているのを横目で見ながら通り過ぎ、そのまま10分、冬ならざっくりしたとっくりのセーターだったり、夏ならことさらブラジャーが透けて見える絹地のブラウスを、しかも上のほうのボタンを外したまま出てきたりした。春先は、緑道のあちらこちらに咲いているジャスミンの甘い、しかし強い匂いに酔ってしまいそうになりながら、
「自転車じゃ、味わえない経験ね。きみといっしょに歩く機会ができたからこそのご褒美かもね」
と言った。

1ヶ月ほどそういう呼び出しのない日が続いた。たしかに押すとへこむけれど、真っ白ですべすべした肌と骨の細い身体、ごま塩は嫌だからとあえて脱色して銀いろにしてしまった肩より長い髪に触れられないのが少しだけ気になる時間を過ごした。

不意に携帯電話が鳴り、今日はイタリア語のレッスンに行けるから付き合えと言う。彼女はぼくよりしっかり予習してきていて、ぼくより楽しそうにイタリア人の
若い女の先生と笑い転げていた。もちろん、日本語でだけれど。

帰りがけ、渋谷の串揚げ屋で精進落し(勉強に精進したのだから、というのが彼女の言い訳だ)をしているとき、とうとうご主人が入院することになったと知らされた。
「さすがに、あと保って5年ですって、お医者さんに言われたときは、わたしもぽろりとこぼれちゃった」
 まったく湿っぽくないトーンだったから、ぼくはやっぱり結婚するならこんな人がいいなと、ご主人をちょっとだけうらやましく思った。

 ある日、丸ビルの35階にあるイタリアンで夕食を食べようと誘われた。が、なぜか彼女は定刻を過ぎても現れなかった。電話をしても誰も出ない。だれも、と言っても、彼女しかいないのだから、彼女が家にいないということ以外の何事をも明示しない。
の晩はキャンセル料だけ払ってぼくはアパートに引き揚げた。

「遺書にね、こんな漢詩が書いてあったの。

油壁香車不再逢 峽雲無跡任西東
梨花院落溶溶月 柳絮池塘淡淡風
幾日寂寥傷酒後 一番蕭瑟禁煙中
魚書欲寄何由達 水遠山長處處同  

でね、この中の『柳絮』が気になって、さ。だから主人の葬式を済ませてすぐに中国へ行ったってわけ。すっぽかした日に彼の容態が突然悪くなっちゃって、そのままになっちゃったの。きみは、不倫相手だからね、後回し、よ。ふふ。怒ってるでしょ。」

 運転しながらもうぼくは笑い始めている。彼女が、好きだし、ご主人の呪縛がきれいに取れたように、少なくともぼくにはそう見えるように、振舞ってくれている。丸ビルですっぽかされてから1か月以上音信不通だったのだが、今日になっていきなり呼び出しの電話がかかり、これから軽井沢に行くから運転しろと言ってきたのだ。たぶん、電話口の向こうで彼女は柳絮ならぬ柳眉を逆立てているはずだ、ぼくが優柔不断な返事をしたものだから。でも逆らっても仕方ない、いつものことだ、ぼくはこれからある国立の研究所の人事担当者と会う予定があるんだけど、という言葉を飲み込んで、どこへ行けばいいのかをたずねた。家に来いとのお達しだった。

 門の前には濃い緑色のジャガーが停まっていた。練馬から関越に乗り、さしたる渋滞もなく万平ホテルに付け、車のキーはドアボーイに預けてさっさとチェックインする。何度か来たことのある部屋に通されたが、彼女はぼくに運ばせた海外旅行にでも持っていけるような大きなスーツケースから振袖を取り出して着付けを始める。こうなると何を聞いても満足な答えが返って来そうにないので、ぼくは窓際のソファに深く腰をおろして、見事な手際で痩せた、しかしそれなりに出るところは出、引っ込むべきところは引っ込んでいる肉体が赤い地に白と金で織り出された鶴が羽ばたいている絹で飾られていく様を見ていた。でもところどころにタオルやふくらませものを挿まざるを得ないのが、なんとなく滑稽で、これを脱がせる時はぼろぼろと余計なものがまき散らされるのだろうかと想像してくすくすと笑った。

 いきなりの呼び出しだったからぼくのほうは普段着だ。と言っても、それなりにぼくだって20代後半なのだから、背広にネクタイくらいは持って来ている。彼女の変身が終わりそうになった頃を見計らってぼくも着替えようとした。
「待って、きみには着てもらうものがあるから。あわてないで座ってて、ああ、ごめんなさいね、バーからウイスキーか何か飲んでてくれないかな」
 そう言いながら帯を結ぶのを中断してあの大型スーツケースをひっくり返すと、手品のようにタキシードが現れた。
「これ、たぶん君にちょうど合うサイズ。着てみてくれないかな。これが男の正装だから」

 正装、ね。これから彼女がしようとしていることがなんとなくわかってきた。ぼくたちはこれから軽井沢の、たとえばここ万平ホテルのようなところへ乗り込んで正式のディナーを食べるんだな。ええと、エスコートの作法、これは彼女にずいぶん教えてもらった。しつけられたというほうがマッチしそうだけど。一つずつ手順を思い出しながら、一つずつ衣装を身にまとっていく。

                           柳絮とぶ 続く


漢詩の注:「無題」 晏殊 作
北宋の著名な詞人(漢詩に対して、宋の時代は「宋詞」と呼ぶ)。宰相にまで
上り詰めた。息子の晏幾道と並び、「二晏」と称する。

油壁香車:漆で塗った華麗な車というほどの意味で、女性が乗っていたことから、
     ここでは女性を指す。
禁烟:当時の風習として清明の前の二日間は火を燃やさず、冷たいものを食べることから
   「禁煙」と表現する。
魚書:ここでは手紙のこと。

油壁香車不再逢,峽雲無跡任西東。
車に乗った美しい女性とは再び会うことができなかった。
巫山の雲が西や東へと風に運ばれ跡を残さないのと同じこと。

梨花院落溶溶月,柳絮池塘淡淡風。
春、梨の花が香る中庭、月の光が満ちる。
わずかに吹く風に柳絮が飛ぶ池のほとり。

幾日寂寥傷酒後,一番蕭瑟禁煙中。
ずっとさびしく毎日思い続け、酒で気を紛らわせているうちに、
温かいものが食べられない時期がめぐってきてしまって、いっそうさびしい。

魚書欲寄何由達,水遠山長處處同。
手紙を書きたいけれど、どうやって送るのかわからない。
川を隔て、山のかなたで、あなたも思いは同じなのだろうか。


柳絮とぶ その3
                                  朝吹龍一朗

 実はタキシードの時に着るワイシャツの着方や蝶ネクタイの結び方なんてぼくは全然知らない。まごまごしていると、着付けを終わった彼女がさっきまでとはまるで別人のような態度で世話をやき始めた。「朱鷺哉(ときや)さん、わたしが、結んで差し上げます。背をのばして、両手を少し前へ、そう、その姿勢で着付けると動き回っても型崩れしません」

 ぼくの父親が東京勤務だったときに、ぼくは生まれた。だから、トキオ、トキヤ、と名付けたのだという。朱鷺が鳥の名前だったことから、小さい頃はいつも恥ずかしい思いをしていた。でもどこかのお姫様のような彼女にそう呼ばれると、満更でもない気がしてくる。もちろん、彼女がそう呼ぶときは、特別の場合に限られる。たとえばベッドの上にいる時とか。

 二人揃って、もちろんぼくが彼女の手を取って、万平ホテルの正面階段を降りていくと、コンシェルジェが小走りに寄ってくる。外には既にタクシーが待っていて、和服の彼女を左から乗せ、僕が右から滑り込む。ほんの5分で着いたのは、日本語にすれば「1階」というほどの名前の、別荘みたいなイタリアンレストランだった。

 貸し切りにしたその店の料理は実はあまり高価ではないそうだが、二人だけにしたぶんだけ、たぶん相当の出費になったはずだ。味は、もしかすると丸ビルのイタリアンよりおいしいかも知れない。

「彼が死んだとき、わたしなりのバケットリストを作ったんです」
 彼女は、『主人』と言わなかった。初めてかもしれない。でもそれは置いておこう。
 それより、『バケットリスト』って、何だ?

「死ぬ前にやっておきたいことのリストのこと。バケットって、棺桶のことですよ」
 かんおけ、という語彙はぼくの人生の中で初登場だった。祖父祖母はぼくがものごころつく前に身罷っていたので葬儀の記憶がない。逆にぼくが半世紀近くも年上の女性と付き合っているなんて知らないに決まっているぼくの父親も母親も、幸いなことにまだ健在だ。

「バケットリスト、ね。何が書いてあるの?」
「ジャガーを乗り回すことでしょ、振袖をもう一回着ることでしょ、軽井沢でおいしいイタリアンを食べることでしょ、不倫することでしょ」
「もう不倫じゃないよね」
「そう、かも」
「だって、『かれ』って」
 死んじゃったじゃない、という言葉を辛うじて飲み込んだ。
「そう、ね、朱鷺哉さん、でも、わたしの恋人になっていただくには、ちょっと、わたしが、おばあちゃん過ぎますしね」
「不倫と思えば不倫だし、そうじゃなきゃ、そうじゃないさ、きれい、だしね」
 ぼくは支離滅裂な答え方をした。
「わたし、メナポーズ(menopause)が早かったんです。50くらいだったかな。だから老後がすごく長い気がして。たぶん彼は全く気がつかなかったでしょうけど」
「ぼくなんか始まったばっかりだったりして」
「あは、男の人にはありませんのよ」
「男性ホルモンの低下はゆっくりだからね、たしかに男は気がつかないことが多いかもしれないね」


 二人で2本のワインが空になった。ほとんどはぼくが飲んだのだが、彼女も珍しく杯を重ねてくれた。帰りのタクシーに乗せるのにちょっと手間取ったくらいだ。万平ホテルに戻るとドアボーイに氷を運ぶように言いつける。彼女の気配りは徹底している。注文が早いから、千鳥足で部屋に着くころには後ろにボーイが大きなボウルに透き通った氷を山盛りにして待機していた。

「朱鷺哉さん、わたしを対等に扱ってくださいました」
 氷を置いて出て行こうとするボーイにいつの間にか取り出した大きめのコインを握らせると、ドアを後ろ手に閉め、ゆっくりとぼくに近づきながら声をかけてきた。
 ぼくは黙って窓際のソファに腰をおろした。
「世界が、ひろがりました。知ってることを、惜しげもなく、教えてくださる。どうせわからないくせに、とか、見下さない」

 なんだか話の向きがぼくを誉める方に行きそうなのでちょっと気になった。
「だって、人生の後輩として先輩を尊敬しなきゃ」
 ぼくはおどけて言ったが、まじめなトーン、彼女にしては余裕のない、いささか切羽詰まったような声に乗って答えが返ってきた。
「肝臓がんでね、5年くらいはって医者から言われてぞっとしました、文字通り。だからね、虎ノ門病院の個室にせっせと運んだんです」

 ぼくをまっすぐ見ている。彼女は大きな姿見のついた机に向って半座りになり、上半身をぼくの方に向けてからだをひねっている。贅肉がないね、とお世辞を言うと決まって、肉も脂肪もそげ落ちちゃっただけよ、と笑っていたのを思い出す。きっと、何を病室に運んだか、ぼくに想像しろと迫っているのだろうが、完全にぼくは思考停止している。ぼけ老人のように彼女を見つめたまま黙っている。
「お酒とかね、求肥とかね。薬が効かなくなるようにとか、のどに詰まるようにとか、死期がわざと早まるようにってね、願いながら」

 彼女はぼくを見つめる視線を落とした。肩ががっくりと下がったように見える。
「若くないお医者だったんですが、『お気を落とさずに、残りの時間を有意義に過ごさせてあげてください』って。わたしが気落ちしている理由を間違って、まるで反対に受け取って。その誤解はそのまま放って置きましたけど」

 のどにセロファンが張り付いたようで、ぼくは声が出ないどころか、息もできないくらいだった。でも、彼女から視線を外さずに、ただし焦点が合わないまま、ぼくは彼女がいる『方向』を見ていた。デスクの照明が逆光になっているのだが、彼女の頬はたしかに青ざめている。
 やがて小さく咳払いをしてから、なんとなく整理をつける感じを漂わせて彼女が言った。
「わたし、彼を葬ったんです、朱鷺哉さんのために、そしてわたし自身のために」

『葬った』、というのが、『殺した』という意味に聞こえた。

 長い沈黙が続いた。普段なら、風が通ったね、とか気の利いたことを言ってもいいのだが、とてもそんな科白を吐く雰囲気ではない。水が過冷却になって、やがて凍り始めるくらいねっとりとしてくるように、だんだん空気の粘性が上がって、二人とも身動きが取れなくなってきたような気がする。気分を変えたのは、彼女の言葉だった。立ち上がってぼくの方に来た。衣ずれの音がする。

「ところで、ベニバナ栃の木の花に気がついたときが、わたしの不倫の始まり?」
 これでぼくは正気に戻った。そして、すべてを受け入れる踏ん切りがついた、彼を殺したというのは絶対嘘だし、だけどぼくと彼女のためには準備されていた偶然だったに違いないと解釈することにした。だから、いつものぼくのペースに戻って、すこし韜晦してみた。
「いや、あの花はぼく。ぼくが、ぼくに気がついたのが、あの時のような気がする」
 彼女はこのくらいの目くらましには乗ってこない。ただ自分が聞きたいことを、しかも遠まわしに、遠慮せず、聞いてくる。いくつかのやり取りのあと、彼女が言った。
「イタリアンに凝ったのは?」

 別にイタリアなんてどうでもいいのだが、ぼくはとうとう逃げ回る余地を失った気がした。だから、ソファから体を起して正直に答えた。
「愛情、だよ、きみの。志乃、残念かもしれないけど、もう、不倫じゃないから、きみのバケットリストの一つは達成できず、だな。その代り、ぼくとの、恋、ね」「わかりました。あきらめましょう、その項目は。もう、朱鷺哉さん以外は考えられないから、もう、朱鷺哉さん以外の人と不倫は、できませんから」

 彼女は、志乃は、ぼくの目の前で馬鹿みたいに涙をためている。
「で、そのほかには何がリストに載ってるのかな」
 わざと皮肉っぽく、ぼくの肩よりちょっと大きいくらいしかない志乃をそっと抱き取って言った。こんなとき、涙なんて見たくない。

 志乃は、何もいわずに体を離すと、帯を解き始めた。予想と違って、詰め物類はボロボロとはこぼれ落ちなかった。すべて計算済みの志乃の手にきちんと回収され、テーブルの上に行儀よく並べられていった。気がつかないほど手際よく消された薄暗い照明の下で、すべすべした白い肌が露わになる。バカな想像をした。志乃は、柳絮の化身かもしれないと思った。
 ぼくは、志乃がタキシードを脱がせてくれるのを待っている。バケットリストの残りを想像しながら。


                              柳絮とぶ 完

注:menopause『閉経』のこと

              
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