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カテゴリ:探訪 [再録]
![]() [注記:探訪時期・2014年5月末。2016年11月、正遷宮が執り行われました。] 世界遺産であることを明示した石碑が最初に目に入りました。 ![]() ![]() ![]() そして、幾つも奉納されている石灯籠の中には、その竿の部分を獅子に象った石灯籠が1基建てられています。そして、狛犬。基壇には神紋がレリーフされています。 ![]() 参道の側面には石灯籠がびっしりと林立しています。 ![]() 石段を登ると、西回廊の「慶賀門」です。ここから回廊内部に入ります。 ![]() 慶賀門から北方向の西回廊外側の眺め 回廊内の案内図は、春日大社公式サイトの「御本殿(回廊内)」をご覧いただくと全体の配置がよくわかります。こちらからご覧ください。 公式サイトも参照しながら、ご紹介したいと思います。 ![]() 慶賀門を入り、直会殿(なおらいでん)の建物傍(南側面)から門を眺めたところ。 ![]() 南回廊との間には、「砂ずりの藤」の藤棚があります。 ![]() 左の建物が「直会殿」。南北8間、東西4間の建物で、東側が正面で東の2間が母屋です。 春日祭では、この建物で勅使・弁以下の直会(なおらい)の儀式が行われるそうです。そこから建物の名称が由来するのでしょう。 正面に大杉の大樹の幹が見え、右側が「幣殿」の西端です。 ![]() この写真は角度を変えて眺めた直会殿内部の景色です。東2間の意味がよくわかります。 ![]() ![]() 「幣殿・舞殿」と案合図に表記される建物 東側2間が幣殿、西側3間が舞殿と呼ばれています。 ![]() 幣殿は天皇からのお供え物(御幣物)を一旦納める建物として使われていたのです。現在は参拝所として使われているそうです。幣殿は貞観元年(859)創建です。 春日祭の祭場となる場所だとか。 ![]() 大杉の背後に見えるのは、本殿への中門とつながる西側の御廊部分です。この回廊の向こう側が本殿です。特別参拝をした場合も、この回廊につながる「中門」の前まで進み参拝する形のようです(今回特別参拝はしていません)。 ![]() 南門の内側から眺めた幣殿・舞殿。現在は参拝所として使われています。 右手前が、特別拝観受付所。 ![]() この石段の先が、本殿の直前にある「中門」(楼門)です。高さ約10mで、中門正面の唐破風は明治時代に取り付けられたそうです。左右に延びる御廊(おろう)はそれぞれ約13mだとか。 御廊は祭典の折に神職の坐る場所になるといいます。 春日大社は、神護景雲3年(768)11月9日、御蓋山(みかさやま)の西麓に、藤原氏の氏神社として創祀されました。祭神は4座の神々が祀られています。 藤原氏の氏神 武甕槌命(常陸国鹿島大神)、経津主命(下総国香取大神) 藤原氏の祖神 天児屋根命(河内国枚岡大神)、比売神 藤原光明子(光明皇后)を母に、藤原不比等を外祖父とする称徳天皇の意を受ける形で、時の左大臣藤原永手が建立にあたったようです。それ以前すでに、この地は御蓋山に対し西面した庭上祭祀の場「神地」となっていた記録が残されています(天平勝宝8年銘「東大寺山堺四至図」・756年)。 平安時代前期、承和8年(841)、太政官符により、御蓋山後方の春日山での狩猟・伐採の禁止が発布され、御蓋山・春日山の神山化を進め、神域として整備されていきます。 春日祭の盛大化に伴って、建物や境内の整備が進められ、貞観年間(859~877)にほぼ現在と同じ景観に整えられたといいます。(資料1) 神社建築としては、神社本殿について「春日造」と称される様式が確立されるのです。 春日大社の景観は、「20年毎に斎行される式年造替という制度により、社殿の御修繕、御調度の新調」(資料2)されることで連綿として整備・維持管理されてきたのです。 ![]() 南門の内側から、南回廊の東方向を眺めた景色。突き当たりが東回廊の始まりです。 ![]() 内側から見た南門の一部 ![]() ![]() 表参道から見た南門 ![]() ![]() 南門の石段下手前にある「神石」。説明には、「磐座」「出現石」「額塚」等諸説があるようです。 ![]() 南回廊の外側、西方向の眺め。 ![]() 境内には約3000基の灯籠が奉納されているといいます。石灯籠が約2000基、釣灯籠が約1000基だとか。 ![]() 南回廊の外側、西端に近いところに、摂社「榎本神社」が祀られています。 ![]() ![]() 祭神は猿田彦命です。 ![]() ![]() こちらは西回廊の内部側で、慶賀門の傍から、北方向の眺め 釣灯籠がびっしりと並んでいます。右側は「直会殿」です。 ![]() 南回廊から東回廊の外側回廊を歩き、「慶賀門」から北に進むと「清浄門」、「内侍門」とさらに2つの門があります。 ![]() 「内侍門」から中を覗くと、正面に見えるのが「宝庫」。右側は「移殿(内侍殿)」です。 ![]() 左側に見える鳥居は末社「多賀神社」です。「宝庫」の背後にわずかに朱色で建物があることがわかる程度ですが、北に「椿本神社」(祭神:角振神)、南に「風宮神社」(祭神:級長津彦命・級長津姫命)が祀られています。後殿御門への石段があります。 ![]() 椿本神社の北、多賀神社の東の方には、江戸時代までは神職の詰所だった「藤浪之屋」という由緒ある建物があるそうです。現在はこの建物で「万燈篭再現」が行われているようです。 特別参拝の手続きをして中門まで進まないと、春日造の四神殿を含む内院部分は遠望できません。 今回ご紹介したのは回廊で囲まれた中院部分です。この回廊が垣となり、その垣外が外院という位置づけです。春日大社の建物群は三重構造になっているのです。 春日大社の歴史的な側面について付記しておきましょう。(資料1,3) *藤原兼家が氏長者の時代に、藤原摂関家として春日詣を始めた。 *永祚元年(989)藤原兼家の娘詮子を母にもつ一条天皇が春日社に最初の行幸を行う。 *春日大社は平安時代中期に二十二社制の一社となる。 *春日社には、藤原氏出身の未婚の女性から選ばれた斎女(いつきめ)が置かれた。 貞観8年に任命された藤原須恵子がその始まりである。 *春日祭は国家公的祭祀と位置づけられていた。 春日祭には朝廷より近衛使として春日祭使が派遣された。祭使は藤原一族から任命。 春日祭は平安時代には旧暦2月と11月の上申日に二度実施。明治19年(1886)に年1度の祭りとして、新暦3月13日に定められた。例祭3月13日として現在に至る。 *藤原忠通が保延元年(1135)に春日若宮社を創建。翌年9月に若宮祭を始めた。 *平安時代後期からは、神仏習合思想を基盤にして、「春日曼荼羅」の信仰が流布した。 *平安時代後期には、春日御塔と呼ばれた五重塔が2基建立されていた。 西塔を永久4年(1116)に関白藤原忠実が、東塔は保延6年(1140)に鳥羽上皇が建立。*中世には、興福寺が春日大社の別当寺(信仰的な世話をする寺)となっていた。 興福寺は藤原氏の氏寺として建立された寺。 *春日大社の祭神四神の中の比売命は春日社につかえる斎女の霊であるとのこと(資料3)。(枚岡神社では祭神比売御神[ひめみかみ]は天児屋根命の后神と説明されている。) ![]() 次回は、外院をご紹介します。 つづく 参照資料 1) 『事典 神社の歴史と祭り』 岡田荘司・笹生衛[編] 吉川弘文館 p139-146 2) ご由緒 :「春日大社」(公式サイト) 3) 『奈良県の歴史散歩(上)』 奈良県歴史学会 山川出版社 p22-25 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。 補遺 春日大社 公式サイト 鹿島神宮 ホームページ 香取神宮 ホームページ 枚岡神社 ホームページ 春日祭 :ウィキペディア 春日祭 :「奈良観光おすすめガイド」 春日大社「春日祭」勅使参向行列 :YouTube 春日大社の中元万灯籠 :「春日野奈良観光」 春日の万燈篭 :「奈良ストーリー」 奈良 春日大社 中元万燈籠 平成二十五年八月十五日 :YouTube 春日曼荼羅 :ウィキペディア 春日鹿曼荼羅 :「奈良国立博物館」 春日宮曼荼羅 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。 その点、ご寛恕ください。) スポット探訪 [再録] 奈良・氷室神社 へ スポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -1 大仏殿交差点から境内へ(憶良の歌碑、石灯籠さまざま、萬葉植物園、壺神神社、車舎) へ スポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -3 外院(桂昌殿、酒殿、竃殿、着到殿など)へ スポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -4 表参道から鷺原道へ、そして一の鳥居まで へ スポット探訪 春日大社を巡る[再訪] -1 春日東西両塔跡・参道・春日若宮神社 へ スポット探訪 春日大社を巡る[再訪] -2 春日若宮神社周辺:若宮15社めぐり へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2016.12.12 20:23:06
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