知る
人は、自身が持っている基準(記憶、知識、言葉・・・)と、それを比べることで、基準との違いでもって、それを知ろうとする。しかし、比べることで、それそのものを知ることはできない。それを知るには、自身の持っている基準(記憶、知識、言葉・・・)を持ち込まず、比べることをせず、それを観察することである。知ることへのアプローチは、観察が極限かと思われるが、観察という行為も、また、それをそのまま知ることにはならない。観察されるそれのデータを蓄積することを知ると言っているだけなのかもしれない。ここでいうデータは主観的(受け取る人によって違う)なものであり、それをそのまま知るということは、できないのではないかと思われる。