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日本は蒸し暑いそうですが、ロンドンは急に涼しくなりました。北京オリンピックの開幕は、豪華でしたね。さすが人海戦術の国。イギリスの新聞でもニュースでも「私たちも(2012年はロンドンオリンピック)も、こんなレベルの開幕ができるだろうか。」とみんな口をそろえて心配していました。 ただ、ある新聞にはその後に「しかし、私たちは中国と違って、他の国がどう私たちを見るかを気にしないから、私たちなりにやるだけだ。」と書いてありました。このへんが、イギリスの楽なところです。みんなが他人がどう思っているかをあまり気にしないから、日本ほど他者の目の圧力がないんです。 ということで、今日のテーマとつながりました。多くの方が同僚や家族の目があると、なかなか自分をOKとしてみる事が難しいとコメントに書いてくださっていましたね。(またもたくさんのコメントありがとうございます!) これはいくつかの要素が含まれていますので、ものすごくいろいろなことがいろいろな角度から書けます。また、きちんと分って頂くには、いくつかの生のケースが必要かなと思います。ですので、このブログのスペースに書けることだけ、なんとか工夫して書きま~す。(ブログにはどうしても限界があります。ブログを読むだけで、問題を解決しようとしないでくださいね。) さてそれで、最初にあまり嬉しくないニュースから書いてしまうと、「すべての人を納得させることはできない」ということです。ですから、自分を真に受け入れるまで、どうしてもある人の言葉に傷ついたり、落ち込んだり、苦しんだりしてしまうでしょう。 また、これに関して、「こうすれば一切人の言葉が気にならなくなる!」という魔法の杖もないんですね。しかし、ここには無条件に自分を愛するということがどういうことなのか、頭と体と魂で悟るというとても深いテーマがあります。魔法の杖で、周りの人たちが自分を認めてくれて、自分に優しくなってくれれば楽ですが、その代わりこの深遠なテーマ、ある意味すべての魂(私たち)に共通したテーマを成し遂げられないでしょう。 さて、ある方が、自分の部屋にいるときだけは、自分に優しくなれるというようなことを書いてくださっていました。それは小さなことのようですが、とても大きなことです。自分ひとりになったときだけでも、充分に自分をいつくしみ、優しい言葉をかけてあげ、ポジティブに見てあげること。その瞬間だけでも、真に自分を受け入れてあげることは変化への流れになります。 でも、一歩部屋の外に出ると、批判の嵐に負けてしまうということですね。しかし、真に自分を受け入れることが深まれば、深まるほど、他者の目も批判の嵐もそれほど痛くなくなります。 他者の言葉に反応してしまうのは、実は深いところで自分も同じことを思っていたりするからです。ですから、他者の言葉は、ある意味自分が自分をどれぐらい受け入れているかのバロメーターにもなります。 私も例えば、どこかに夕食会の呼ばれた後に、パートナーに「今日は、やけに静かだったね。なんでぜんぜん話さなかったの?」と批判的な口調で言われると、落ち込み、自己否定に陥ってしまうときがあります。そんなときは、落ち込む一方で、「っていうことは、私はまだそのへんの自分を受けれていないんだ」と分かります。 つまり、「社交の場では、もっと積極的に話をすべき。話せない私はダメ」と思っていて、自分ではそんな自分も受け入れていたつもりだったけど、言われてこんなに痛いということは、やっぱりまだまだ受け入れていないんだぁと分かるわけです。 そんなとき自分の中で「社交的に明るく振舞う人になって、パートナーに気まずい思いをさせないようにしたい」という思いと「子供のときからの人見知りを激しくする私を受け入れてあげたい」という気持ちが葛藤をはじめます。 で、大きく深呼吸をし「今の時点の私は誰?」と自分に尋ねます。すると「シャイになってしまい、話せなかった私」が浮き出てきます。すると、この私を受け入れずに、どうして「社交的な私」になれるだろう? 今の私を受け入れずに、どうして前に進めるだろう?とはっきり見えてくるのです。 そして、今の自分を受け入れたときみぞおちにあった固いものがなくなり、すっと楽になります。パートナーは相変わらず不服そうな顔をし、私がどうすべきだったか、なぜ話しができないのかしつこく聞いてきます。(本人としては、私を助けているつもり)自分を受け入れていなかったら、たぶんどんどん落ち込んで行ったり、パートナーに腹が立ったりするかもしれません。しかし、受け入れてしまったので、私の心はだいぶ穏やかになっています。 自分を認めていないとき、私たちは他者から認めてもらいたいと強く思います。同じように、自分を許していないとき、愛していないとき、または、自分に優しくしていないとき、私たちは他者からの許し、愛、優しさがとても必要になります。 しかし、その他者がそういったものを与えてくれないばかりか、批判のまなざしや厳しい言葉ばかりで接してくると、愛がどこにもない!という状態になり、大変苦しくなります。どっちを向いても、厳しい言葉だらけ状態です。 でも、自分を向いたとき、自分は自分に優しい言葉をかけてあげれば、そこには愛があります。また、エゴの声ではなく、ハイヤーセルフ(または、宇宙の愛、ガーディアンエンジェルの愛)の声に耳を傾ければ、自分が実は、いつも無限で無条件の愛に囲まれていることに気付くでしょう。 くり返しになりますが、そうやって少しづつ自分を許し、愛し、受け入れていくことで、周りの批判、否定の声が少づつ痛くなくなります。ですから「私は自分を許しているけど、みんながどうしても許してくれなくて辛い」のであれば、それは自分を許していない部分がまだたくさんあるということです。 言い換えれば、他者の目は自分の目でもあります。他者の目が厳しく感じるときは、自分も自分を厳しく見ているということです。 ただ、相手に自分の気持ちを素直に表現することも手です。私の場合、「私もとても気にしていて落ち込んでいる。(自分の気持ちを素直に言う)なんとかしたいと思っているから、もっと優しい言葉で励まして欲しい(相手にして欲しいことを言う)」などといいます。このときのコツは、怒りながら言わないことです。 これで、相手が態度を変えてくれることも多いですが、基本的に相手次第。態度が変わらなくても、少なくとも相手はあなたの気持ちを知っています。 あぁ、長くなった。このテーマは、ほんとに書けることがたくさんあるんですぅ。こんどセミナーのなかで取り上げてみようかなと思います。生のケースでやるのが一番かと思いますので お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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