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喜怒哀楽の喜と楽の区別を説明できません。
使い方から考えて、結果を喜び、経過を楽しむということでしょうか。さらに、誰か(自分も含め)のせいであれば怒り、誰か(自分も含め)が不幸であれば哀しむということでしょうか。 喜と楽が増えるのは幸せです。怒と哀がなくなるのも幸せです。 いつ来るのでしょう、その日は。 でも、脊髄損傷の身にとって、その日とはどんな日でしょう。 はがき通信を始められた向坊弘道氏は、頸髄損傷の身で47年暮らされ、癌で亡くなられました。最後のメッセージにこうあります; "これは長い間の私の油断でもありますが、第1回目の手術のときにすでに私は第2回目の手術はやめておこう、そして心静かに故郷の海を見ながら数日間でも暮らせたらそれでよしとしようと決心していましたので全く後手に回った後悔の念はありませんでした。長い人生を考えるに、これで十分だし、また身障者としてつらい人生をもう少し続けろということも酷な話だと思っていました。あるいは、始めからそう考えることによって最初の手術から回避する方法を選択すべきだったかもしれないのです。" "私の場合は、あきらめるものはあきらめ、残すものは残し、そのけじめを早くからつけて、その手続きに時間を費やすことを、そのためにはあと1ヶ月の命であっても、突然倒れる高血圧の人の場合よりも、はるかに長い事後処理のための時間が恵まれているということをありがたく思っています。" 氏の偉大さに直接触れる機会はありませんでしたが、この文章で氏の正直さに触れることができました。 手術を受けたのも正直。 受けてしまったことを反省するのも正直。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.03.08 09:35:06
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