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「自分でできないから他人にやってもらう(のは当たり前)」はケイソンにとってある種の切り札です。毎回のっけからこの切り札で勝負するケイソンもいれば、なかなか使わないケイソンもいます。後者は更に、行動自体を諦めるタイプと自分で処理する道を探すタイプの二通りです。もちろんケイソンには残存機能の差があります。しかし、この分類は健常者の社会にも当てはまります。
本当にできないのか、と考えます。私が大工職人の息子だからでしょうか、知恵を絞り工夫して成し遂げたいと思います。できるかできないかの境界領域は常に変動します。できる領域を広げるよう努力することが生きることです。その手段が学習であり、それを向上心が支えます。ケイソンになってできなくなったことでも、自分にあった方法を見つけて練習を重ねてできるようになったことがいくつかあります。"人間死ぬまで勉強だ"を思い出します。やっていることは児戯にも等しいのですが。 もちろん、どうあがいてもできないことがあることも学習しました。思い知らされました。 油断できないのは、元来怠け者である人間の生体は不使用を学習することです。覚えたことでも思い出さないでいると脳はその記憶を失います。身につけた動きでも使わないでいると身体はその運動を再現できなくなります。 "人間死ぬまで勉強だ"に関連してこんなエピソードを聞いたことがあります。ある方のお父上は余命幾ばくもない状態で入院されていても枕元に広辞苑を置いていたそうです。「こんなところにいても一日に一つや二つは知らない言葉に出くわすものさ」と仰ったそうです。その方の向上心の強さに圧倒されると同時に、向上心を捨てきれないことの窮屈さにも思いが至りました。知らない言葉を死ぬ間際に耳にしたらと思うと怖くなります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.09.29 14:50:44
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