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子供の頃は暗号ものが好きでした。
モーリス・ルブランの「奇巌城」、コナン・ドイルの「マスグレーヴ家の儀式」、同じくドイルの「失われた世界」なんかをわくわくしながら読みました。 暗号ですから、わかりにくいものです。多くの人は、目にしたところで、その重要性に気づきません。中途半端に理解して、王家の秘宝や恐竜の生きている世界の存在を口にした途端に、非難と嘲笑の的になります。 暗号ですから、多くは語られていません。この通りに進めばたどり着く、あるいは、このように進んでたどり着いたという限定的情報が記録されているだけです。面的情報を網羅した地図ではありませんので別ルートを探す手助けにはなりません。 なんだか、歩行を目指したセキソンのリハビリの記録と似ています。 その場所に行き着いた人数自体が多くないので、残された記録の数はもっと少なくなります。 自分にあったリハビリを見つけるために「観察、記録、考察」の自然科学的アプローチをとっている場合でも、基本的に自分だけが理解できればいいわけですから、他人から見れば暗号で書いてあるとしか思えません。 歩行リハビリに挑むようなセキソンは、文字通り、前向きな性格ですから、自分の足跡を振り返ったりしません。運良くその場所にたどり着いたとして自分が歩んできた足跡を振り返ったとしても、その道のりがあまりにも長かったので、始めの頃のことは覚えていません。 他人への道しるべとして記録を公開するのでなく、自分の偉業をアピールするために記録を公表する場合、実用的情報に乏しく、心情的・感情的表現に満ちた人情話になりかねません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.12.06 12:07:03
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