ウツウツとしたウツに
さて、テーマの「ウツ」でありますが、もうそろそろ日本もこの、精神的風邪とでもいえるほど、誰もがなりうる可能性のある「病」に対してオープンになり、もっと医学も分析学も発達していい頃なのではないかと思うのであります。朝青龍は別として。あ、あの人の場合は、精神的病ではなく、「仮病」という病気カモシレナイケレドモ。私は今まで、3度ほど鬱を経験したことがる。最初の2回はニューヨークでだった。その最初の時ほど恐ろしかったことはなかった。何しろ、目が覚めたとたんに、それまで感じた事のない不安感というか自己喪失というか、一番恐ろしかったのは、自分はそうしたくないのに、自分はちゃんと生きていたいのに、発作的に台所に言って包丁を取り出して自決してしまいそうな、そんな肉体的、心理的不安に包まれた時だった。もちろん頭の中も、心の中も「死にたい」などとは全く思っていないのに、自分が自分でコントロールできないような感じがして、何をしでかすかわからない、という感じがして自分で自分を抱きしめて震えていた。ただ、私の本来持つ性格なのか、他人を傷つけたりするような、そんな不安は全くなく、ただ、全てが自分に向かっていたのを覚えている。鬱自体、本来「自分を責める」ものなので、他人に危害をくわえるような危険性は殆どないし、そんな気力もないのが鬱状態とも言える。そこで、まず、ブルックリンに住む親友の一人に電話して助けを求めた。彼女は主婦なので家にいるのを知っていたので彼女にまず電話をかけた。彼女はすぐに行くけど、ブルックリンからだと少なくとも1~2時間かかるから、とにかくじっとして待つように言ってくれた。だけど、電話を切って彼女を待つ間、もしかしたら、私は自分で自分を殺してしまうかもしれない...というもの凄い恐怖心に包まれ、電話帳でしらべて、ある先生のとこに電話をかけた。ラッキーなことに先生が直接電話に出てくれて、私が最初に言ったことは今でも覚えているけれども、「私は死にたくないのに、自分が何をするかわからなくて怖くてしかたないです」ということだった。そこまで「鬱」がたっするには、それなりの理由があったし、それなりの時間が沢山あった。先生はさすがにプロで、非常に落ち着いた声で(男の先生だった)『いいですかあ。あなた、大丈夫だからね。いいですか、絶対に受話器を離してはダメですからね。とにかく、大丈夫だから、電話を切ってはダメですよ。』から、話しが始まった。つまり、受話器をもって電話で離している間は、少なくとも安全を確保できるからだった。そして、友人が向かっている事を知って、先生は非常に安堵したようで、それから命綱につかまるようにして、受話器を握って、その先生と話しをしていた。その後、その時のことを思い出すと、世の中には自殺者が多いけれども、もしかしたら、その多くが、本当は死にたくないのに、自分をコントロールできない精神状態になって、死んでしまうのではないだろういか、ということだった。死のう、と思って意を決して死ぬ人も多いだろうけれども、自分の経験から、もしかしたら、「鬱」の本当の恐さというのは、その「死にたくないのに、自分で自分を傷つけてしまう」ことにあるような気がする。と、こう書いていても、鬱というのは、よく言われるように『なったことのある者にしかわからない』とても複雑で、その状態も個人差があり、皆が皆、同じ方法で元気を取り戻せるものでもなく、また、薬ひとつにしても、合う、合わない、効く効かないという個人差があり、カウンセリングにしても、カウンセラーとの相性が合う、合わないという、とてもデリケートなものだったりする。人は皆底辺には「鬱」を抱えている。ただ、それがどれくらのところまで出て来ているか、どれくらい水が溜まっているか・・・というのに似たところにある。そのことは、本丸の「最後の一滴」というタイトルに書いている。「ウツ」については、かなり経験を重ねて行ったせいで、詳しくなってしまっているけれども、もしあなたの知り合いや友達に「鬱」で苦しんでいる人がいて、もし、あなたに「もう死んでしまいたい」と言うようなことを言った時は、どんな状態であれ、とにかく、それはしては行けないことだと、止める事です。面倒だと思ったとしても、とにかく、引き止める事。よく「じゃあ、いっそ死んじゃえば?」と言えば、反動で元気を出して生きるだろう、なんて考える人もいるようだけれども、はっきり言うとそれは健康な人にだけ通用する手で、「鬱」の人には通用しません。通用しないどころか、本当に死んでしまったら、あなたは「自殺幇助」という罪を犯すことになるのです。橋の欄干から身を投げようとしている人を見かけて、止めないのと同じです。止めないどころか、「あ、飛び降りるんですか?じゃあ、手伝いましょう。」と言ってその人の足を抱えて、飛び降りやすく手伝うことと同じ事になりうるからです。「鬱」というのは目に見えない病気で、骨折や怪我なら、見た目で痛そうだとわかるけれども、鬱は見えないだけ、誤解されやすく、理解されにくい病です。そして、誰がいつなってもおかしくないという点では風邪と同じなのです。ただ、風邪と違うのは、ウィルスなどでないので、移ったりしません。人ごとだと思っている、アナタにも、突然、起こりえることなのです。ニューヨークで2度目の鬱がやってきた!と思った時(体の感覚として私の場合はすぐにわかるようになっていたので)知り合いのカウンセラーに電話して助けを求めた。しかし、カウンセリングは予約でいっぱいで(つまりそれだけ患者が多い訳で)一週間以降しか空いてないと言う。『とにかく、お薬をもらうのが先』とカウンセラーの人が言い、総合病院の救急に行ってお薬だけでも先に処方して飲みなさい、ということだった。なぜなら、抗鬱剤というのは効果が出始めるまでに1週間ほど時間がかかる。そして、なんとなくおかしくて、なんとなく、ああ、アメリカだなあ…と思ったのは、「例え死にたい気分でも、絶対に、死にたいとか、自分を傷つけそうな気がするなんて言っちゃだめだからね!」ということだった。何故かと言うと、アメリカのシステムで、「命を守ること」が何よりも優先されるので、そんな事を言おうものなら、どんなに抵抗しようと反対しようと、「家で犬が待ってますから!」と叫ぼうと、強制的に即座にそのまま入院させられて家に帰れなくなるからなのだ。そして、案外知られてないことは、鬱というのは、本当に症状が重い時は死んだりしないもので、つまり、それだけの気力もなく体が重く感じて「死んでられない」という状態なのだけど、徐々に元気を取り戻し始めた頃が本当は一番モロく、壊れやすく、自殺の危険性が高い。なぜなら、それだけの気力と体力がついているので、「死ぬ事」ができる状態になってしまっていて、心はモロイままで不安定な状態だから。過去、鬱で自殺した有名人の多くは、将来について明るく語っていたり、色々なプランを立てたりして元気になったかのように他人には「元気そう」に見えていた時に、だいたい、亡くなっている。最近は有名人が続々と「自分は鬱で苦しんでいたことあった」と平然と言うようになったので、少しは世間的に馴染みやすくなったよーーーな気もしないではないけど、しかし、日本人ほど「鬱」を抱えつつ、我慢している人口が多い国はないような気もしないでもない。そういう私が今、一番つらいのは...日本の家にいると、両親という「宮内庁」にいつも見られていることで、レベルは違うけれども、ある種、皇太子妃の気持ちに似たようなものがあったりすることで、トーーーちゃん!私宛の小包の送り主と内容物をひとつひとつチェックするのやめてーな!....というところです。