さぱてぃ♪うぽ~さんに捧ぐ<本丸編>一部のみ
続かないもどかしさ西日がやっとビルの向こうに沈み、部屋の明かりを灯すと同時に、ブラインドを閉めようと窓に行く。ふと見渡す空は、一度も同じだったことがない。今日、一度下ろしたブラインドの隙間から見えた空は、絵の具のように青く、帯のように伸びた雲は、優しいローズ色をしていた。見とれていた時間が長過ぎたのか、机の上のカメラを取りに行き、レンズキャップを外す僅かな時間の間に、もう、その青は色を変えていた。もう二度と、その青に戻ることなく、雲の色だけが、ますます濃くなりながら、スローモーションで形を変えていた。*時間は、留まることがない。気持ちも、留まることがない。愛しい人の声を聞けば、その瞬間と、それから暫くの時間、永遠に幸せに包まれるような気になってしまう。気持ちはそれほど、愛おしいものには、哀れなほど、単純。けれど、時間が留まることがないように、あんなに、もう何があっても、強く生きてゆけるようなそんな力強さを与えてくれた瞬間が、だんだんと、まるで、放電する電池のように、からっぽになっていく。何も変わっていないのに、時間が過ぎただけなのに、こころの電池は "Empty" のライトを点滅させる。*光は、真空空間を1年に約9兆4605億km進む。人がどんな精度のいい天体望遠鏡を駆使して遥か遠い、アンドロメダ星雲を見ることが出来たとしても、それは、光の速さをもってして、250万年前の過去の姿を捕まえたに過ぎない。ほんとうは、もうとっくの昔に、何もかも、消えているかも知れないのに。太陽に照らされた、たった今の地球の姿を、200万年後に、見ている“生き物”がいるかも知れない。永遠に思えたものがたとえ続かないとしても、光が届き続けさえすれば、それが幻の光であっても、ずっとそこにあると、信じられるものなのに。追記:本丸から抜粋です。Enjoy.最近、頻繁に、同情してくださっているのか、書き込みしてくださっているさぱてぃ♪うぽ~さんが気に入ってくださったブログの大元になっている、本丸のひとつを載せました。本来、ここと本丸は気質が違うのですが、時々、私の本当のルーツである「詩人」が顔を出す時がある。「言葉」には「ちから」があって、だから、そうそう簡単に「言葉」を壊したり、乱したり、また、投げつけたりするものではないと、私は思っている。さっきまで、10数年ぶりに「フリーウィーリー」を最後まで見て、おいおいと泣いていたのでした。ああいう泣く映画というのは、心理学的に言って、「必要」なのだそうです。「泣く」という行為で、人の体から「ストレスホルモン」が排出されます。それで、泣いた後というのは多少のつかれと一緒に、なんとなくすっきりしたりするのはそのせいなのです。いかにも泣かせますって映画がいつの時代になっても作られ、また、愛されるのはその辺りに理由があるのかもしれません。わたし達は泣くようにできている。泣けないのは、本当につらいときです。私は涙すらでなかったほど悲しいことを経てきているので、泣くことがどれくらい大事か、なんとなくわかる。