厚い緑の向こうに鳥居の「朱」が見えなかったら、
いくらタクシーの運転手さんに、「たぶんそこを登ったところにあると思います」と言われても、
「うそだべ~」と半信半疑だったかも。
岩手県盛岡市新庄町にある盛岡天満宮、学問の神・菅原道真公が祀られているそうです。
町を見下ろす丘の上に建つ静かな神社でした。
こちらがお会いしたかった盛岡天満宮の「阿吽(あうん)」の狛犬の、口の形からすると、
「あ」
「あ、酒気帯びのオバサンがやって来た」
こちらが阿吽(あうん)の狛犬の、口の形からすると、
「うん」
「うん、私たちにお酒を持って来ないとは、まったく気が回らないオバサンだ」
ね、疲弊したココロとカラダに効果絶大そうな、心持ちが柔らか~くなる狛犬でしょう♪
1903(明治36)年に高畑源次郎という方が、病気の回復の祈りが叶えられたお礼に、
自分でこの狛犬を彫って奉納したと伝えられているので、100年以上も前の狛犬なのですが、
現代の芸術家の作品と言われても、外国の作家の作品と言われても信じてしまう佇まいです。
誰の真似でもなく、誰かに注文された訳でもない、
この作者が他人の評価を気にせず「心から感謝して奉納したくて自発的に彫った」から、
素直で親しみやすく近づきやすい、なんかホッとするあたたかさが伝わってくるのかなぁ。
ゆるゆると考えをめぐらしていそうな「阿(あ)」。
子供たちがよく背中に乗って馬(石馬)に見立てて遊んでいたとか、微笑ましいです。
狛犬たちもさぞかし嬉しくて、ポーカーフェイスを保つのに難儀しただろうなぁ。
明治28年(9才)から8年間ほど学校に通うために盛岡で暮らした石川啄木は、
よくここへ読書やお散歩に来ていたとか。いい風が吹いてるもん!
狛犬は啄木が訪れていた頃には地面にじかに置かれていたそうですが、
昭和8年に啄木の歌を刻んだ台座の上に置きなおされました。
「葬列」という啄木の小説の中の「俺は生まれてから未だ世の中といふものが
西にあるのか東にあるか知らないのだ、と云つた様な顔だ」という一文は、
ここの狛犬のことではないかと言われています。
盛岡天満宮のあたりは「天神山」と呼ばれていたそうで、そうそう「小樽にワープしたべか?」
と、一瞬不安になるような細く曲がりくねった坂が続いていました。
気は優しくて力持ち、意思が強そうな「吽(うん)」
「夏木立中の社の石馬も汗する日なり君をゆめみむ」
「松の風夜昼ひびきぬ人訪はぬ山の祠の石馬の耳に」
啄木が盛岡天満宮の狛犬を詠んだ二首。愛着をこめて狛犬を「石馬」と呼んでいます。
(あのー、この狛犬を眺めてると、むかし好きでずっと見てた増田龍治さんのアニメ
「ポピーザぱフォーマー」が脳裏をチラチラ行ったり来たりするのは何故だろう。)
左後ろの首筋のあたりに「ちょいと、ちょいと」と呼ぶ気配を感じて、その方へ歩いていくと、
ありゃ~、撫牛(なでうし)さま~。撫でると願いが叶います。
札幌の丑年代表として「どこの国からやってきたのか明らかにならない所がかなり怪しい
口蹄疫がどうか終息しますように!」と、「牛には牛の力を!」と撫で回してきました。
菅原道真公も牛をこよなく愛され、「大宰府へ流される道真を牛が泣いて見送った」、
「牛が刺客から道真を守った」など、たくさんの逸話が残されています。
本殿の前は工事中。
「すいませーん、見せていただきまーす!」と声をかけると、
やっぱり「え、なに?そんなにめずらしいものあるの?」と逆に訊かれました。
いやいや、実は「まだ岩手行きのキャンセル間に合うなぁー」と弱気になっていたとき、
ぼやら~っとテレビのスイッチを点けたら「いぃ~わ~てんぽ♪」というゆる~い音と共に
NHK盛岡放送局制作の「いわてんぽ」が、BShi「ふるさとから、あなたへ」で放送されてて、
こちらの狛犬さまとプラズマ越しに目が合って「やっぱり行こう!」となった次第で。
「工事中で申し訳ないねぇ」とおっしゃるけど、
えへへ、なかなか本殿前の床下なんて観られるものではありません♪
こういう屋根の曲線も大好きです。
ちがう季節の、ちがう日の、ちがう時間の、ちがう風の吹く刻に、
ちがう心持ちでまた訪れたなら、まったくちがう表情を見せて下さるんだろうな。