西に傾いた日に映える鶴ヶ城(会津若松城)。
来年の大河ドラマは会津のハンサムウーマン新島八重が主人公の「八重の桜」、楽しみ~♪
「京都守護職拝命150年と新島八重」企画展は鶴ヶ城天守閣にて11/4まで。
当時治安が悪かった京都(なぜでしょ。笑)の守護を孝明天皇は会津藩主松平容保に託し、
その功績に感謝して送られた書状や下賜の品々もたくさん展示されていました。
しっかし、薩長のとんでもなさはつとに有名ですが岩倉具視も旗泥棒やら天皇毒殺説やら
かなり卑しい人物だったようで・・・ ゲロゲロ。
太鼓門右手の石垣には鶴ヶ城で使われている中でいちばん大きいと言われる石が。
石を運ぶ時に美しい遊女を乗せ勢いをつけて運んだと伝えられ「遊女石」と呼ばれています。
男の人って昔も今も美女の前では頑張っちゃう愛すべき生き物なのねぇ・・・
柱や扉が全て鉄で覆われ艶やかに輝く鉄門(くろがねもん)は本丸へ通じる表門。
鶴ヶ城公園内にある「茶室麟閣(りんかく)」は千利休の子・少庵が建てたと言われています。
天正19年(1591)、千利休が豊臣秀吉の逆鱗に触れて切腹させられた後、
利休の息子・少庵を会津若松城主・蒲生氏郷がかくまいました。
会津若松城主・蒲生氏郷は利休の弟子で文化人でもあり、
「利休七哲」の筆頭にあげられるほどの茶人だったそうです。
かくまわれている間に少庵が蒲生氏郷のために造ったといわれているのが、
亡き千利休好みの草庵風の茶室「麟閣」。
その後、蒲生氏郷は徳川家康らとともに千家復興を秀吉に働きかけ、
その甲斐あって「少庵」は京に戻ることを許されて茶道の千家を再興しました。
少庵の孫たちにより表千家、裏千家、武者小路の三家が興り、
現在へと継がれる茶道の礎ができたそうです。
あれだね、三家の皆様は大型バスを連ね
事あるごとに会津を訪れてもいいくらいのご恩だね。
-苔むした屋根-
明治になり物の価値を解せぬ閥より鶴ヶ城の取り壊しが命じられたとき、
貴重な茶室が失われるのを惜しんだ森川善兵衛(指月庵宗久)が自宅の敷地へ移築し、
森川家はその後なんと120年に渡って「麟閣」を守り続けました。
-会津藩の6歳~9歳までの教育に用いられた「什の誓ひ」の一部-
一、虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。
一、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。
一、弱いものをいぢめてはなりませぬ。
ならぬことはならぬものです
だから、守るべきものを守ったのかもしれませんね。
都合のいいように歴史を捻じ曲げた「薩長史観」により伝えられることのなかった名君、
会津松平家初代藩主・保科正之の凄さに今注目が集まっています。
時代が、私たちがやっと保科正之に追いついたのかもしれません(笑
会津若松市はこの氏郷と少庵ゆかりの茶室を後世へ伝えるため、
平成2年の市制90年を記念して鶴ヶ城内の「麟閣」があったこの場所へ移築しました。
茶室麟閣では一席500円でお抹茶とお菓子を楽しめます。
供される薯藷饅頭は、膨張剤や添加物を使わずすりおろした「つくねいも」と米粉の皮、
小豆の皮を取り除き炊きあげた皮むき餡を包んだ上品な甘さの和菓子♪
作法にはこだわらず、ということだったので凸凹親子も一服。
お茶碗を片手で持ち腰に手を当ててゴクゴク。蝦夷家ヒグマ流とでも呼んでくださいっ(汗
お抹茶効果で旅の疲れもふっ飛びシャキッ、親子でお抹茶の美味しさに目覚めました。
会津周辺、喫茶店や食事処・甘味処でも気取らずお抹茶を提供しているところが多く、
この後コーヒーには目もくれずお抹茶頼んではゴクゴク(笑
大きな石をくぐったところが天守閣入り口。
城の五層まで登ると、2011年に黒瓦から明治以前と同じ赤瓦に葺き替えられた
趣きある屋根越しに周囲を360度見渡せます。
あゝ、お日さまがだいぶ西に傾きました。
帰り際、売店前のベンチでひと休み、目を上げると桜の枝越しに鶴ヶ城が。
ひいひい爺ちゃんが水沢藩から北海道に入植するとき持ってきた日本刀二振、
研ぎに出すたびに「随分と血を吸ってますねぇ」って言われるものだから、
ここしばらくは納戸の奥にしまいこみ見ないようにしています。
ひいひい爺ちゃん、いったい何があったんだい・・・
会ったことないひいひい爺ちゃんが「会津の様子、またちょっと見てきてけろ」と思ったら、
またここに来れるような気がする。