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本日のテレビ映画である。 すでにビデオで観たが、テレビで観れるとは思わなかった。ローカルだし… 私も阪急今津線に住んでいるので興味をもって観たが、涙あり、楽しい映画であった。 今津線といっても宝塚から西宮北口までで、今津へは乗り換えて2駅。間には阪神国道という駅がある。 私の住んでいる駅には降りてくれてなかったように記憶する。駅の中の看板も映っていたが、実際とは違う。 私の出た大学も映っている。校門からの桜の道が奇麗だが、もう散っている。 今から、もう一度みるつもりである。
去年の夏が終わることから、総入れ歯を外していた母。 私のではないと言い張っていた。 昨日は、入れ歯をはめていた。綺麗になったといえば、少し機嫌がよい。 その後の昼寝の時も、入れ歯をしたまま。 認知症の母が、外見を気にするのは良いことだと思う。 しかし、今日はまた外していた。 話題にすれば、気が高まるので、この話はそっとしていた。
敗戦を知り、こわいもの知らずの母たち(女学校時代)は私たちだけでも戦うと言っていたという。 戦争末期母は、どこかの田舎で軍需物資を作る作業に駆りだされていた。 その時の母と祖母の手紙はそれぞれ「愛しい愛しいお母様」に対し「恋しい恋しい○○ちゃん」で始まっていたらしい。 その実、母の家族全員は、母が家からいなくなってほっとしていた。 わがままで横暴な長女がいなくなったからである。 しかし、手紙のやりとりが済んですぐ終戦。 母がもどってくるとなり7人家族は絶句。 食糧もなく、甲子園から松山まで買出しも拒否して、幼い2人の妹たちに行かせた。叔母たちは今でもこの頃の話をよくする。 好き嫌いが多く、大豆製品がだめ。卵がだめ。 唯一きな粉だけが食べることができるので、祖母は母のためにきな粉をせっせと作っていたらしい。 認知症になり、その頃の性格が出てきているのか、わがままである。 おなかが減ったいうので料理を並べる頃には気が変わっている。 一口も食べずに捨てて頂戴。 そんな母に、先日卵の白味を食べさせてやった。 目が悪くなっているのと、認知症のためか知らずに食べていた。
聖徳太子との関わりを記述するために、聖徳太子非実在説への言及もされている。簡単なご挨拶。 「日本書紀の厩戸皇子記述について道慈の恣意的な筆が入っていたとしても書かれている事件の存在自体あるいは書かれている要素全部がねつ造ということにはならない。文章上に表現されている様相と部分分では違っていたとしても、そのもとになる事件そしてその史料・記憶は存在したと考えられるのである。 私は森氏の研究はもちろん、大山氏らの研究の有用性を疑うものではない。また日本書紀の厩戸皇子記事にかなりの造作が入っていることを否定するつもりもない。だが上記の理由からして、それらがまったく何もないところから創作されたと断定するには躊躇せざるを得ない。」 (客観的事実関係知らないことの方が多い。これは歴史の本のすべてに言えることだろうから、著者の立場で読むべき本だからそれはそれでよいのでしょう。) 仏教公伝から半世紀。推古大王の時代。彼女は仏教の教えや信仰には好意的であった。 しかし、仏教界は野放し状態であった。そのため僧侶の傷害事件などが起こる。激怒した推古大王が仏教界粛清を断行しようとするが、観勒の弁明で回避される。 (この弁明も僧尼の無法ぶりを裏打ちする。「今時に当たりて、僧尼いまだ法律を習わぬを以て、たやすく悪逆なることを犯す」。観勒もいつ僧尼が犯罪を犯してもおかしくないと認識していたらしいという。) 代わりに大王が命じたのが、僧尼や寺々を監督する機関の創設と現状の総点検。 日本書紀巻22推古天皇32年4月13日条 詔して曰く、「それ道人も、なお法を犯す。何を以てか俗人をおしえむ。故、今よりのち、僧正・僧都を任して、なお僧尼を検校うべし。」 (国の管理に入る経緯の一面を見るようで興味深い。) 盂蘭盆経にもとづいて前世7世の父母を餓鬼道から救うために僧尼に飲食を布施する盂蘭盆会は、推古大王14年(606)に見えている。倭国に旧来から存在した祖霊崇拝と結びつくかたちで、早くから受容されていたためであろう。大化改新後も斉明大王3年(657)に見えている。ただ僧侶も含め斎会参加者のほとんどは、典拠経典を知らなかったと考えられる。斉明5年の講経は、倭国社会に流布し始めた斎会の典拠経典を僧尼に認知させる目的で行われたのであろう。 (「倭国に旧来から存在した祖霊崇拝」?邪馬台国九州説の論者が批判するところによれば考古学上大和には先祖崇拝を認める「物」がない、というのがある。著者はこのあたりの見解も知りたいところである。また山本夏彦氏は、「孝」は音だけあって訓がないので外来思想だと言っていた(「誰か明治を知らないか」という本)。) そんな仏教の中味はというと、 「神仏習合以前から、というより「仏教公伝」からずっと仏と在来神とを質的に区別しなかった。出身を別にすれば、仏も初めから神々の一族として受容したのである。つまり神仏習合とは神と仏の異質性を認識したうえで双方を融合させるものではなかった。「蕃(となりぐに)」の形容詞が付く「神」と認知された仏から形容詞を取り払う、もしくは「仏」という名で在来神と区別される「仏神」から仏=神としての仏神へシフトするだけの運動だったのである。」 「仏は時代とともに新たな機能を付加され、祈願内容は肥大化していく。だがその本質についての認識は、飛鳥仏教における「蕃神」「仏神」からさして変わらなかったのである。」 (仏様にお願いするとき、お釈迦様を想定はしていないなー。) (聖徳太子の仏教理解もそれほど、というところか。)
中世の仏教革命 著者は、松尾剛次(けんじ)氏。 アマゾンでは評価が高い。 表紙裏の記述 「日本では中世まで、亡くなった人は、 河原や浜、道路わきの溝などに捨てられていた。 死は穢れとして、忌み避けられていたからだ。 そんななか、人々が弔いを託したのが仏教である。 葬式と、墓石を建てる習俗の起源を探りながら、日本人が仏教に求めたことと、仏教が果たした意義を探る。 日本人は仏教革命によって、 死者を悼む「かたち」を獲得した。」 (長い長い縄文時代には住居のそばにお墓が作られていた。飛鳥・奈良時代にも死が穢れだからといって捨てられるのなら、古墳やお墓に関しての令が出ることもないと思うのに、ここでの文章の理由と結論が合点が行かない。) あとがきには、 「千の風」の歌詞は、墓に詣で、手を合わせる習俗に対する挑発的な内容である。 とある。 (お墓の前で嘆き悲しむ人を慰める歌詞であったよ。挑発なんて読解が不思議。日本には、墓を持たない村もあるが、それも1つの習俗であり、上の習俗を挑発するものではないと思う。それにこの歌は死を嘆き悲しむなという仏教にも通じる。) 「穢れを規定した早い史料である「延喜式」によれば、日本古代における穢れには、人の死・酸、家畜の死・産、肉食、改葬、流産、懐妊、月事、失火、埋葬などがある。 中心となるのは、人の死穢と産穢、家畜(6畜で野生獣ではない点注意)の死穢と産穢、失火の穢れである。」 (各種の本で引用される場所である。注意としながら根拠を示していない。私は穢れの恣意性を読み込んだ。本来タブーとはそのようなものなのだ。) 「1220年代に庶民の間でも死体遺棄や風葬が減少したらしい。 著者によると、鎌倉仏教(遁世僧教団)の成立と境内墓地の成立が重要な背景であったと考えれている。 すなわち、死穢を憚らず葬式に従事する鎌倉仏教教団が成立し、それと連動した動きの結果として大規模共同墓地が成長し、京都清水坂の非人の組織化があったと見ている。」 (「死穢を憚らず…鎌倉仏教団が成立」は突然のことではないだろう。それまでにも死穢を憚らない仏教僧たちがいたのだと思う。少数だったのかもしれないが、変化は少数から始まる。ここでは少数とされる僧の階層に注目した議論をして欲しかった。そして本当は少数でなかったのかもしれない。死穢のタブーという表層が先行して事実が見えてないのかもしれない。) (求められた葬送) 発心集第4第10話、八幡愚童訓乙下巻第3話、宝物集、沙石集巻1第4話などの例を出し、次のように結論付ける。 「こうした話にも、葬式を望む人々の存在と、慈悲のために穢れを憚らず葬式を行う僧侶の存在、すなわち、慈悲のために穢れ忌避のタブーを敢えて犯す僧侶の出現がわかる。 実にそうした願いに応え、組織として葬送に従事し、教団を形成したのが鎌倉仏教の僧(遁世僧)たちであった。」 (上記、例に出されたのは、なぜか、家族に先立たれ女ひとりになってしまったため故人を葬地へ運べないという同じシチュエーションばかりであった。) 法然が弥勒信仰を警戒していたのに、 藤原道長は、浄土信仰と弥勒信仰と混合して信仰していた。 (この混合がどうして出来たのか分析されている。藤原道真がそれほどの信仰がなく合理主義者であったことを考えれば良いとこどりをしたと思う。現在の我々が神社や寺や教会で通過儀礼をするように。) 説話集には、神社に参詣しようとした僧侶が、参詣の途中で若い女に母親の葬儀をたのまれ、葬送を引き受けた後で参詣しようとし、御神体が現れて賞賛される、という類型の説話がある。 覚乗の話も覚乗個人の穢れが無とされただけでなく、「円明寺から来るもの」といった具合に、いわば叡尊教団の僧侶集団が穢れていないとされている点である。すなわち、叡尊教団の律僧たち全体が、「清浄の戒は汚染なし」という論理によって、穢れのタブーから自由であったことを示している。 この論理により律僧たちは、官僧たちが囚われていた死穢というタブーを乗り越え、それを操作可能なものとする画期的な論理を打ち立てていた。 (「画期的な論理」というよりそもそも穢れのタブーが決定的でなかったと私は読む。結論が先にあって、理由をあとからさも論理的なように云っただけに思える。正直な感想として論理なんて大層なものでもない。) 斎戒衆は、俗人でありながらも、斎戒を護持する人々であり、俗人と律僧との境界的な存在で、律僧たちが、直接関与しにくい活動、たとえば、戒律で禁止されているお金に関することなどに従事した。こうした組織を有したことにも、官僧が穢れに触れるとして忌避した活動(葬式従事もその1つ)に組織として取り込もうとした律僧たちの決意が現れている。 (汚いものを拾うとき箸を使うがごときをこのように説明するのはどうか。要はお金が必要であり、欲しいのである。こんな戒律あったのかも疑問。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 著者が書かなかったことが多々あると思うが、大事なのはそちらの方な気がします。 これも「葬式なんて要らない」に対抗して書かれた本。 議論が足りず、結論だけがあってそれを支える事実を探して記したのではないか?というのが感想。 但し、アマゾンでは評価は悪くない。
主演は、ナタリー・ウッドとウォーレン・ベイティ ハイウッド映画で初めてディープキスをした映画らしい。 ナタリー・ウッドの入院シーンがあり、素顔に近い彼女が見れた。 高校生の恋愛を扱う。 ナタリー・ウッドとウォーレン・ベイティは、恋愛中で両者とも相手に夢中。 もう一歩進みたいのだが、どちらの両親もそれぞれに理由は違うが、それを望まない。 一歩進まないまま、ウォーレン・ベイティの父親から2人は離されてしまう。ナタリー・ウッドの精神が壊れる。 それほどまでに好きになってしまったようだ。 やがて病院から退院して、心の整理のためにすでに大学を卒業し結婚もし子供もいるウォーレン・ベイティに会いに行く。 ここでは、ナタリーウッドの過去と別れを告げた表情が映し出される。 ここで下の詞。 Though nothing can bring back the hour of splendor in the grass, of glory in the flower, we will grieve not. Rather find strength in what remains behind. 草原の輝き 花の栄光 再びそれは還(かえ)らずとも なげくなかれ その奥に秘められたる力を見い出すべし 翻訳:高瀬鎮夫 原作がSVO構文になっているのを日本語らしく訳している。そのため、we will grieve notの主体的な感じが消えている。 映画では、高校時代の女友達も現場に同伴させており、We の感じが出ており、私自身も参加することになり応援したくなる。 あんな男と深い関係にならなくて、よかったね。 ナタリーウッド、浮名を流していたようだけれど、わかる気がする。 下記の本で紹介のあった映画。
配役は豪華。 デボラ・カー ジーン・セバーグ デイヴィッド・ニーヴン ミレーヌ・ドモンジョ 主役の女の子は、「勝手にしやがれ」でも出ている。 映画自体の結末は、後味が悪い。 ハッピーエンドではないが、それでもお勧め。他者を「少し」傷つけるつもりが、大きく影響を与えてしまうことは今でもある。 あらすじは、http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD14656/story.html デボラ・カーの役どころは良かった。 ジーン・セバーグの父と結婚の約束をし、とたんに親としての責任感が芽生え、主人公に母親面する。 しかし、婚約者(主人公の父)が浮気相手と自分の悪口を言っているのを聞いて、泣きながら車に乗って帰る。 そこで事故死(自殺かも)。 このデボラ・カーの傷心を企んだのが、娘。 泣いて帰ろうとするデボラ・カーに言い訳をしようとするが、ヒステリックになった彼女は聞こうともせずに車で帰る。 「めぐり逢い」とは違う彼女を見せてもらった。固そうでいて壊れやすいのは同じだが、ここではもっと泣き虫。 ジーン・セバーグ。こんな娘、あかんやろ!と思いつつも、どこにでもいそう。 ミレーユ・ドモンジョの名前は知っていたが、若い時はかわいい。 結論として、サガンは好きになれない。これが言いたい。
「黄泉の国の考古学」 著者は、辰巳和弘氏。 古墳について、首長継承の場である見解があるが、著者はこれを否定。 もしそんな場があるとしたらモガリの場しかないと指摘する。 古墳はすでに異界なのだそうだ。それが下の理解。 前方後円墳は、天「円」地「方」の思想に基づくとされるが当然これも否定する。 前方後円墳は、「壺形墳」とされるべきで、不老不死の神仙界と理解される。 (壺形にはそのような意味があるらしく、根拠の一つだがここでは省略。考古学上、前方後円墳では継続した祭祀がされていなかったことに照らすと、私には理解しやすい。祭祀の調度品がいきなり形骸化(底のない容器などの出土)することも理解の助けになる。また先祖崇拝という観念をいれて説明しない点も説得力を増す。) 考古学上、黄泉の国を横穴式石室と定着した観がある。著者もかつては同じ。 しかし現在、 石室への追葬時に経験する玄室の暗い空間に灯した明かりのなかで、先に納められた死体が腐乱するさまを目にした体験や、死の汚れを振り払いながら長い羨道を明るい現世へとひたすら急ぎ、やがて石室の入り口を石で閉塞するまでの光景とこころの動きが神話化されたものとみている。 そして石室内から出土する食物を供献した土器や、小型のかまどやこしきといった炊飯具に黄泉戸喫の儀礼を墓室を閉塞する際に「ことどわたす」儀礼とされる。 これはモガリの場であったり、臨終の場であったりの出来事。 西郷信綱氏の「黄泉の国」とは死人の往く国ではなく、神話化された一つの通過儀礼の表象である、というのに従うとされる。 火葬について。 「続日本紀」には700年3月、道昭が火葬をしたとさる。これが文献での最初の火葬記事。 考古学は進んでいる。 6世紀後半から7世紀前半、大阪・兵庫・三重・静岡など木材を用いて横穴式石室と同じ構造に構築し、それを粘土で覆った後遺骸を納め、内部から埋葬施設に火をかけて火葬する葬法が明らかにされている。 そしてまさに古墳時代、洞穴葬が行われている。有力者かその家族かと思われるような出土品もあり、葬法は火葬。三浦半島や日本海側、出雲大社の背後などにある。 古墳から5世紀にヤマト王権のもとに統一され、同じ様式の墓(古墳)を築いていたとされるが、実際にはかけ離れた葬法が多い。 古墳時代埋葬施設を構築するいくつかの段階で邪霊を払う意味を込めて赤色の顔料が塗られている。 色に関して古代人は他界を「青」の世界と認識し、霊魂も青と認識していたようだ。 ーーーーーーーーーーーーー この本、古墳に描かれた絵解きをかなりページを割き熱心に説明されている。 今年読んだ本のなかで後悔しなかった珍しい本。 日本列島の文化が一様でなかった点を再確認した。
副題は、韓半島と日本列島の考古学 著者は、朴 天秀氏。 韓国国内では日本列島に伝播したもののみを強調するだけで、なぜ加耶、百済、新羅、さらには高句麗までも倭に対して先進文物を提供しなければならなかったのかという、歴史的背景についての議論が絶対的に不足している。 両地域間の文物と人の移動は、韓半島から日本列島への一方的な流れのみでは理解できない。…文物と人の移動が一方通行ではなく、ある程度相互的であったことを示している。 (著者は、墓制について横穴墓を日本列島系としている) 文献史学では、4世紀後半における百済と倭の通交以降、古代の韓日関係について百済を中心に把握してきた。しかし、実際のところ、3世紀から5世紀まで日本列島との交流の中心はあくまでも加耶であり、百済との交流が本格的に始まるのは6世紀からにすぎない。 さらに今まで文献資料に依拠して敵対関係としてのみ把握されてきた新羅と倭の交渉が、考古資料からみると5世紀前半と6世紀後半に活発に行われていたことが明らかである。(6世紀後半の藤の木古墳の出土品などの馬具が新羅産であることを明確にしてくれる) 宋書「倭国伝」の都督諸軍事を単なる形式的呼称としてその実在性を否定しているようだ。 栄山江流域の前方後円墳が、いわゆる「任那日本府」が成立し、発展したとする4世紀後半から5世紀代には造営されず、むしろ消滅する時期に出現し、その出現背景が百済王権と関連していることを明確にし、逆に栄山江流域の前方後円墳が任那日本府の存在を否定するものであることをあきらかにしたい、とのこと。 任那日本府が成立し展開したという、4世紀後半から5世紀代には栄山江流域に前方後円墳が存在せず、それが撤退したと考えられている時期(512~532年)に、突如出現するためである。加えて、この地域の前方後円墳は一世代という限られた期間に分散配置されるのであり、任那日本府という政治的な中心地の存在を示す古墳群を形成していない。 (そもそも日本国内の前方後円墳も、一世代という限られた期間の配置、築造である。中国や韓国のような祖先崇拝が日本では行われていなかった点見逃してはダメだと思う。。) 百済と倭の本格的な交流が6世紀初頭を前後する時期に開始され、北陸、近江地域に百済系文物が集中することから見ると、継体勢力は、従来河内勢力と伝統的に密接な交流があった加耶勢力を排除し、百済を窓口に先進文物を導入し、河内勢力の差別化を図ることによって畿内における優位性を確保したものと思われる。 この時期に出現する栄山江流域の前方後円墳の被葬者は、この地域の前方後円墳が周辺の在地首長系列とまったく無関係に出現すること、一世代に限って築造されることと、墳形、埴輪祭式、石室、副葬品のような倭人固有の墓制などからみて、在地首長とみることはできない。 (被葬者は倭系百済官人と判断されている。ここそこで説明の証とされるのは、「朝鮮半島にある日本固有の前方後円墳が一世代に限られている」という点を繰り返し述べ、したがって在地の首長系列ではないというにあった。それなら日本国内の前方後円墳もそういうことになるが、そんな説明をする日本人学者のお話を知らない。たぶん在地首長のお墓であるというのが定説になっていると思う。) ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 任那日本府があったのかなかったのかは分からなかった。
著者は、衣川仁氏。 9世紀後半から10世紀初頭にかけてクローズアップされた僧侶問題がある。 彼らの「邪濫」「不法」である。 最初は、僧侶の姿を借りた百姓のしわざと考えられ、寺院と外界の隔離で解消されると考えられていた。 10世紀の後半にこの認識が変化する。 原因は、師僧の「過差」に求められている。(「朝野群載」) 寺院内部の師弟関係(門流)の内側に発生するという理解が生まれる。 平雅行によれば、私度僧の禁制と民間伝道への警戒を特徴とする律令体制下の仏教政策(僧尼令的秩序)は、10世紀中葉までに放棄されたという。 この政策転換が自律を促したと思われるが、その背景にはやはり財政問題という世俗的な要素が関係していた。 『仏教の社会化、社会の仏教化』 集積された荘園の支配・運営には、それを遂行する寺院組織の充実など現実世界と向きあうための様々な仕組みを整備することが必要になる。 寺院は、もはや鎮護国家の祈りと教義の研鑽のみを行っていればいいような、純粋に宗教的な空間ではなくなっており、非宗教的な要素で武装しなければならなかった。 それは社会勢力としての成長であり、…そこには純粋な宗教空間とは異質な世界が広がっていた。 世俗化と言い換えてもよいこの仏教と社会の関係は、しかしながら宗教性の喪失を意味するものではない。中世においては、仏教が単に世俗的になったということではなく、、一方でより宗教的な要素を増し、それを社会の側が前代にもまして積極的に受容するようになったことが重要である。 (「宗教性」「宗教的」という曖昧な言葉で重要性を説かれても分かりにくく、正確な表現とも思えない。また、「社会」という言葉についても同じである。要はコミュニケーションが取れていなかった者同士のコミュニケーションが取れ出したということでは?そうすると次の文章に繋がり易くなる。交流ができて、さらに自分の立場を守ろうとするようになる。「宗教的要素」というのもそのように表現できる熱情があっただけでは?と思える。) 仏教と社会を隔てる垣根が低くなると同時に、門流という師弟関係を軸とした仏教界独自の秩序も形成された。そこで展開された論理は、もはや世俗権力であっても容易には立ち入ることのできないものになっていた。 (なめられないように努力していったのでしょう。) 『僧による僧への呪詛』 1013年4月の事件。 延暦寺の遍救が自らの僧房で祈願成就の護摩をしていた。そこに刀杖・弓箭で武装した40人余りの者が乱入し、房内の仏像・経綸を破壊、その場にいた者を捕らえた。 僧房の雑物は奪われ、護摩壇が「糞穢」で塗り汚される。 これは、遍救が懐寿に対して呪詛をした行為に対して行われたもの。しかし、実際には呪詛したという事実はなさそう。 ただ、もし事実あれば上の行為は仕方がないという正当化の認識もあった。 著者は言う。 「しかし、呪詛という冥顕の力が現実世界に影響を及ぼすのだという体裁は確かなものとして存在している。そしてこの体裁は道長や頼長のような例外を除いて中世世界に共有されていた。したがって、非難されるべき不当な行為ではあるが、神仏にあらがうことができなかった中世の人々に対し、呪詛は非常に効果的であった。」 (この事件をこのように評価されているが、私には名誉を侵害されたこと(言論の自由などという概念のない時代!)に対し、報復した事件なだけの気もする。道長(飛礫事件)や頼長(林光家放免事件)を例外とするが、むしろ一般の意識ではないか。 「神仏にあらがうことができなかった中世の人々」というが、神仏を持ち出す勢力にあらがうことができなかったという面もあるのではなかったか、と思うのである。) ーーーーーーーーーーーーーー 今昔物語集巻28-20 湯屋で僧侶たちが湯を沸かして入浴していたという記事がある。 平安期在地寺院の様子である。 物語は、寺が賑わうと周辺の民家が増え、郷もにぎわうようになる、というお話。 ーーーーーー いろんな事件を紹介してくれており、楽しく読めました。 │<< 前のページへ │一覧 │ 一番上に戻る │ |
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