ナーラダ・バクティ・スートラ(81)
『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第81節 永遠の神理の中で、ただバクティだけが愛おしい、まことにバクティだけが愛おしいのだ。 (要旨解説) 心と体と言葉の三つ(トリ・サッチャ)を使って主への「バクティ」を行ったならば、それは主にとって最も愛おしいものとなる。「ナーラダ・ムニはヴィーナを奏でながらラーディカ・ラマナの御名を唱え三界を旅して、会う人全てにバクティを配る」と謳われている。また、主は五百年前に最も堕落した魂を救うために、主チャイタンニャと主ニッチャーナンダのお姿で現れた。そして全ての者にバクティ・ラサを配られた。私達も、主や主の純粋な献身者の足跡に従って会う人全てに「バクティ」のみが崇高な宝であると説教すれば、主にとって最も愛おしい人になる。 「自らの心と言葉、行為を用いて、全ての被造物を私の顕現と見なすこと、これこそが私へと通じる教えの中で最高のものであると、私は宣言する」『シュリーマド・バーガヴァタム』第11巻29章18節行為を用いる方法はユクタと呼ばれ、ルーパ・ゴースワミーはそれをユクタ・ヴァイラーギャと呼んでいる。心身を用いて「バクティ」に従事すれば物質との結び目(アハンカーラ)がなくなるという教えである。行為を用いてこそ人に模範が示せる。人は瞑想と称する無行為の詐欺師にだまされ、実際は心を制御できない輩の教えを受け入れ混乱する。規定原則を守り、主の御名を唱え、謙虚に献身者に、全ての生命体に仕える行為の中に生きている人こそ聖者なのである。シクシャ・グルの権化であるルーパー・ゴースワミーに従う者こそ真の「バクティ」が与えられる。 「バクティ」のみが森羅万象の中に主を見る眼を与えてくれる。そして全ての生命体の中に主を見て、主を忘れている人に主を思い出させようと奮闘努力する。主の御名を唱えてもらうように懇願する。2016年12月7,8,9日とインド・クルクシェートラ大学のセミナーに出席します。