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カテゴリ:地球人スピリット
「美しい国へ」 安倍晋三 2006/07 文藝春秋 新書 232p ★★☆☆☆ この人の父がもう少しで総理大臣になりそうな時に、私はどこか心の中で応援していたような気がする。それは、日本の総理大臣の名前が、私のリーガル・ネームと同じだとすると、どこか外国にでもいった時、自分の名前を覚えてくれるようになるのではないだろうか、親しみをもってくれるのではないだろうか、という、単純な下心からであった。 その父が、志半ばにして倒れたというのは、ある意味とても残念であった。しかしながら、自分の名前が、サトウ、スズキ、タナカという名前だから、外国に行って大変得したなどというレポートをみたこともないから、多分、アベ氏が総理大臣になんかなったって、すぐその名前は忘れられてしまうに違いない。現在の総理大臣の名前さえ分かってもらえないのだから、アベ総理大臣が誕生しても、名前の上で私が得するなんてことはないだろうなぁ、うん、これは断言できる。 私のファーストネームは、時計のメーカーの名前と同じなので、よく自分の名前を初対面の外国人に説明する時は、自分の腕時計を指し示しながら、同じ名前だから覚えてね、という。だが、どうも、SEIKOというブランドは、世界的に有名だ、というほどでもなさそうだ。外国人はたいがい小首をかしげる。 さて、日本国の政治家においては、この人はブランド品というかサラブレットと言っていいだろう。岸信介、佐藤栄作、安倍晋太郎につながる血脈だ。いまや日本の政界は、この人を中心になにごとかあらんと大騒ぎになっている。この本は、今年の7月にでたことになっている。もちろん、ゴーストライターが書いたものを監修したにすぎないだろうが、自分の名前で出す以上、いい加減なことは書いていないだろう。 ニワカ新書本評論家としては、書店の新書本コーナーに顔写真つきででているこの本を一応紹介しておかなくてはなるまい。この人もまた、私と同じ年に生まれているが、学年は私よりひとつ下だ。だが、戦後生まれの総理大臣が生まれそうだ、というのだから、これは大変なことだ。戦後生まれの午年生まれ。コイズミさんも午年生まれだから、干支でいうと、まるっきりひと回り若返ることになる。 しかし、その感性は本当に若いのだろうか。旧保守基盤から、年齢の若い一名がでてきた、というだけで、本来はなんの変わり映えしない勢力がうごめいている、というイメージはぬぐいきれない。北朝鮮への対応とか、アジアへの対応とか、あるいはアメリカへの対応とか、地方政治への視線とか、本当にどう変えようとしているのか、という意味では、政策的には、もぬけの空っぽという印象はぬぐえない。 美しいことに何の異論もない。美しいほうへ行こうとすることも異論はない。日本という国が美しいということも異論はない。しかしなぜ、いま「美しい国、日本」なのか。それは市会議員に立候補する時は、美しい**区、とか、美しい%%市となるだろうし、県会議員立候補の時は、美しい@@県、となるだろう。今回もそれ以上の意味はない。 国民、県民、市民、区民、地域住民、町内会員、家族の一員、いろいろレベルがあるだろうが、その時その時で呼び名は変わる。この本の中に「『地球市民』は信用できるか」という章がある。地球市民という概念は、まだ未来のものであり、当然、まだ実態のあるものではない。しかし、そのような概念を使わないと、未来が見えてこなくなっているのも事実なのだ。 現実的な国政を司っていくには、日本「国」という概念や、神話などで彩られた天皇家などを大事にしながら、ひとつひとつ対処していかなくてはならない、というのは、多分そのとおりなのだと思う。しかし、私がこのブログで書こうとしているのは、ある意味、それとは真っ向から反対のことなのだ。どのように反対か、というと、線引きの位置を変えるだけで、いろいろ変わってしまうので、一概には言えないが、新しい価値観、未来に向かって開かれた科学的な論理的な価値観が必要になってきているのだ、ということだ。 そういう漠然とした想いをとりあえず「地球スピリット」となずけておくが、それは、記紀神話や島国日本列島という地域ミーイズムから、すこしづつ離れた、新しい価値観ということだ。それは私の独創でもなければ、世界の異端でもない。明らかにつながりつつあり、顔をだしつつある、新しい価値観である。新しき政治家たちが、どうかそのような新しい価値観を了と認めて、うまく自らの政策に織り込んでいってほしいものだと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.03.30 08:31:43
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