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地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

2006.11.08
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カテゴリ:地球人スピリット

地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく



「和尚との至高の瞬間(とき)」 
マ・プレム・マニーシャ 1998


 枕元に20数冊のこれから読まれるべき本を並べながら、なお、新たに別な本を探しているなんて、いったい最近の私はどうしたことなのだろうか。この10年ほど、ネットに夢中になって、回りくどい古びた本など、目を通すのも億劫だなぁ、と思っていたのに。新しい図書館を三つも四つも開拓しておきながら、書店を経巡り、今日はなんと、街で一番大きな古本書店に足を伸ばしていた。

 その古本書店は、とてつもなく大きく、通常の書店よりなお大きい。地下もある。ほとんどすべてのジャンルがそろっている。私は、いままでも何回もこの書店に足を運んだが、ほとんどは、Oshoの本の売れ行きを見るためにやってきていた。売れ行きというか、逆にどれほどOshoの本は古本屋に流れるものだろう、という逆マーケティングのためだった。

 どういうわけか、Oshoの本は、一部の本を除いてあまり流通していない。もともと発行部数が少ないのか、あるいは、手元においておくだけで手放す人が少ないのか。あるいは、人気がないので書店が店頭に並べないのか。いくつかの可能性を考えながら、いつものコーナーに来ると、そこは精神世界やニューエイジ、亜流心理学の本の棚の中に、今日も数冊のOshoがあった。

 今日、私はいつになく、このOshoの本がかわいそうになった。実際、このような形でこの本があるべきなのだろうか? 疑問が湧いてきた。通常の書店に行ってもOshoは宗教のコーナーなどにおいてある。そして、その棚を眺めたりしていると、とんでもない本と並んでいたりしてがっかりすることがよくある。

 私が最近、図書館から本を借りて読むようになったのは、すこし訳がある。私はどちらかというと自分の好きなものは徹底的に読むけど、他のものに目がいかなくところがある。すこし偏執狂的にかたよりすぎるところがあるのだ。私がOshoが好きなことは、その蔵書の多くがOshoの関連本であることで判断できる。しかし、私は反省することがある。私は論語読みの論語知らずになっているのではないか。贔屓の贔屓倒しになっているのではないか。

 そのような反省から、最近は、通常の図書館で、通常の市民が、日常的に触れる本の中で、Oshoに触れてみたいと思ったのだ。いや、最初から意図していたわけではないが、今考えてみると、どうやらそういうことになっていたらしい。つまり、精神世界やニューエイジというカテゴリつながりでOshoを読むのではなく、宗教や哲学つながりでOshoを読むのではなく、新聞や雑誌や社会学や政治学つながりでOshoを読んでみたいと思ったのだ。
 
 いわゆる書店の中でOshoの本が飾られているコーナーというのは、はっきり言って目をそらしたくなるようなトンデモ本が多い。通常なら絶対手を触れないような本の中にOshoがジャンル分けされていることが多い。ああ、このようにOshoが見られているのか、と思うと、ちょっとがっかりすることが多い。

 私はこのところ、新刊新書本を中心にして、いろいろな今日的テーマの本に目を通してみた。社会学やネットワークに関する本を100冊、人間や心理学に関する本を100冊、宗教や哲学に関する本を100冊、これらの本のほとんどは21世紀になってから書かれた本だ。つまり9.11などが一つの分水嶺となって、読み手も書き手も大きく変化しており、またテーマ自体がまったく21世紀的になっている。

 しかしながら、私の大好きなOshoは20世紀の人であり、そのほとんどが20世紀に書かれている。このマニーシャが書いた本は、県の図書館から借りてきたものだが、この本もまた1998年に書かれたものだった。私が今関心あるのは、21世紀という時代になって、これらの一連のOshoの本というものはどのように読まれていくのだろうか、ということだ。

 この本、オーストラリア人が、たぶん英語で書いたであろう文章だが、書き下ろしで日本語に訳されているのが面白い。ネットで検索してみたが、どうやら、これは日本語しかでていないような節がある。さらに面白いのは、この本は、16年間に渡るOshoと著者のことについてなのに、ほとんどが年月日について書いていない。最後の1990年の数日についての記述が詳しく書かれているだけだ。

 だから、この本は一冊の私小説のようでもあり、分かる人には分かるけど、分からない人には何もわからないような固有名詞などが多く並べられている。私は幸いにして、そのほとんどの意味がわかる。そういった意味では、私もほぼ同時代を同時に体験してのだから当たり前のことだが、このように一人のサニヤシンによって「証言」されると、いままで知らなかったことが、新たな意味を持って理解できることも多くある。

 それからおもむろに和尚が、私たち21人は光明を得ているので、呼んだのだと公表したとき、私の涙は相変わらず溢れるように流れ続け、ずっと自問してきたすべての問題は、涙とともに流れて消えてしまう。男性はサムブッダ、女性はサムボディと呼ばれると、和尚が説明している。私たちのグループは、彼が肉体を離れたときに発足する三つの委員会(コミッティー)のひとつでサンサードと呼ばれる。ふたつめのグループはーーーメンバーは、これから発表されるのだがーーーマハサットバと呼ばれ、彼らは和尚が肉体を離れたあと、光明を得ることになっている。三番目のグループはボディサットバと呼ばれ、彼ら自身が肉体を離れるときに光明を得るだろうとのことだった。
 私たちのグループの役目は、ほかの人々が光明を得ているかどうかを確かめるというような、スピリチュラルな事柄の決定に関することになるだろう。彼は、私たちがそれをどう執り行うべきかを説明してくれる。私たち21人は、その人が光明を得ているかどうかに関して、全員一致の決定に至る必要がある。もし、全員一致に至らないときは、暗くした部屋でゆったりと受容的な状態でともに座る。しばらくすると、グループのメンバー全員の内側から、肯定(イエス)か否定(ノー)がやってくる。それは非常に明確なので、全員が合意に達するだろうというのことだった。(後略)
p66

 この時とは1980年代初半の米国オレゴン州のコミューンにおいてのことだろうが、この21人の中の一人の言葉として語られるのは珍しいのではないだろうか。しかしOshoはOshoで、どこまでもOshoだ。ドラマは続く。

 数ヶ月のうちに、和尚は公の講話を再開し、あれからほぼきっかり四ヶ月たった日、あるサニヤシンからの質問に答えて、「光明のリスト」は冗談だと宣言する。p70

 21人は「公式に光明を取り消された」(^o^)/のだが、このようなジョークというかエピソードは、Oshoの周りにおいては常に起こり続けていた。マヌーバーとしてOshoはこのような手段を好んで使った。いずれが真実であるのかは、おのおのが自分で確かめるしかない。

 いずれにせよ、今回、この本を選んだことで、すこしづつ、このブログの論調というか波長がすこしづつ変化していく可能性がある。





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Last updated  2009.03.30 08:14:31
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