「善悪の彼岸へ」
宮内勝典 2000/9 集英社 初出「すばる」1998/4~2000/6
<第1章~第9章>
正直言って、この方の名前を聞くと、頓珍漢な人だなぁ、というイメージが湧いてくる。というのも、この方についても、私は多くを知らないが、例の95年当時、いくつかのマスメディアに登場した彼のコメントにおいて、非常に奇妙な印象を受けていたからである。1944年生まれ、ということだから、かろうじて戦前派、というべきか。60年安保の時は16歳。70年安保の時は26歳という、ある意味、端境期に生まれてしまった悲哀を感じる人、と言ってもいいかも知れない。
今回、決意してこの方の本を読み始めてみた。そうしてみると、出だしはまずまず、意外と読みやすい。私が感じていたような、奇妙な感覚は、やや薄れていた。もっとも、どんな小説や文章でも、出だしのところは吟味に吟味を重ねるだろうから、当たり前といえば当たり前か。
麻原集団の話題になる前に、シャロンテート事件や、人民寺院の集団自決事件などについての自説を繰り出す。まぁ、それはそれでいいだろう。しかし、シャロンテートはだいぶ昔の話だし、人民寺院ですら、時間的には20年のずれがある。どうも、読み進めていくと、この人の大時代がかったところが、次第次第に鼻についてくるのである。
人民寺院の集団自決事件は、78年の初冬にあったことだ。その時、私はインドでの一年間の旅を終えて帰国したばかりだった。坊主刈の頭とブルージーンズの上下で出発した私は、帰国する段においては、長髪・あご髭で、全身オレンジ色に染め上がったいた。翌朝、宿泊していた「Nまえのなしんぶん」のAぱっちのところで、ふと開いた朝刊で、人民寺院の事件を知った。
初めての海外滞在だった私には、正直言ってOshoの全貌は見えていなかった。言語の壁があり、カルチャーの壁がある。そして、全貌を知るには、彼の活動はすでにあまりにも世界各地に拡大しすぎていた。なにせ時間が足りない。もっともっと時間が必要だろうと思った。だから、これから日本の地方都市で瞑想センターをやろうとする自分には、Oshoに対する強烈にインスピレーションはあったが、はて、本当にどの程度の人物なのか、どの程度のムーブメントなのか、ということは計り知れないところがあった。
帰国後の最初の洗礼としての人民寺院事件は、内面の世界と外面の社会的世界との接点での出来事として、私にとってもたしかに気になる出来事ではあった。当時からこの事件について見聞きしてきたが、私自身にはまったくの杞憂であった、と断言できる。
さて、ここで著者が人民寺院を持ち出してきたことは、1998年当時のスキャンダリズムとしては、ありそうなことだが、あまりにカテゴライズされていて、なんだか流行りに乗っているようで、居心地がわるい。著者は、自らを文学者と呼んでいるようだが、確かに科学者やジャーナリストではないようだ。例えばこういう文章がある。
そんなコンプレックスがあったせいか、人民寺院では高学歴だけが幹部として抜粋された。(この点も、オウム真理教とまったく同じだった。)p44
まず、「高学歴」と「幹部」という単語の抜き出し方。何をもって、「高学歴」というのか。大卒をいうのか、一部の名のある大学を出たものをいうのか、あるいは大学院をでたものをいうのか。何をもって「幹部」というのか。取り巻きということか、主要メンバーということか、目立つ人間、ということか。その辺が、かなり曖昧だ。
少なくとも、麻原集団においては、確かに名のある大学や大学院に在学した者が意図的に重用された気配はあるが、「高学歴<だけ>」が抜粋されていたわけではない。ほぼ義務教育だけを卒業しただけのものもおり、施設で育ったような存在もいる。あるいは、専門学校や短大をでているような者も重要視されていることは、調べて見ればわかる。高学歴がよいの悪いのということは、一概に言えないが、ここで宮内は「まったく同じだった」という表現を使っている。あまりに筆が走りすぎているのではないだろうか。
「まったく同じ」だった、という表現は、どの世界なら使えるのだろう。数学的な概念ならまったく同じという表現は有り得るかも知れない。だが、人民寺院=麻原集団、と簡単に等号で結べるだろうか。時間も空間も違う。外面的に現れてきたものも相当に違う。それらの中に類似性や共通項のひとつや二つは見つけることも可能だろう。しかし、いかに文学的表現だとしても、この「まったく同じ」という表現は、まったくもっていただけない。
私がこの言葉に反応するのは、かつて、この人に、この安易な類推でもって、麻原集団=Oshoということをやられたからだ。手元に当時の資料はあるが、今は詳細は書かない。しかし、この杜撰なアナロジーを使うところに、この方のアバウトさがある。だから、物事に対する真摯な取り組み方は伝わってくるのだが、その全てが、このアバウトなアナロジーに乗っかっているために、彼の作品全体が危うい耐震強度不足の建築物になっているように思うのだ。彼のそのような筆が、さまざまな悶着を引き起こす。
事件の直後、Sという雑誌のインタビューを受けた。この事件は決して外部にあるのではない、他人事ではない、ナチスのユダヤ人虐殺や、南京事件のように、わたしたちの内部にある直視すべき狂気なのだといった意味のことを話した。ところが送られてきた雑誌をひらくと、真っ赤な文字で、
「20世紀最後の妄想『オウム』は、600万人を虐殺した『ナチス』と同質である」
というセンセーショナルな見出しになっていた。p74
このことによって、彼と彼の家族は大変迷惑するのであるが、このような誤解のされ方をするのは、宮内本人の表現の仕方に原因があると思われる。すくなくとも、宮内がこのような表現をした、と報道されても、ああ、彼なら、そういうかもなぁ、と思わせるところがある。今回読んでいる「善悪の彼岸へ」は少なくとも98年以降に書かれ、なおのことそれに加筆された上で、2000年に出されている。その時点でさえも彼はこういう表現をしている。
こうして群集の興奮は、爆発寸前まで高まっていく。原始キリスト教を思わせる「信仰治療」の始まりであった。教祖誕生の瞬間でもあった。たちまち噂がひろがり、どっと群集が押し寄せてくる。この時期、おそらくかれ(ジム・ジョーンズ)は自分に特殊な能力があり、人びとを意のままに動かし、癒し、操ることができると自負したはずだ。(初期の麻原彰晃にも、これに似た力が多少あったのかもかもしれない。)p46
ジム・ジョーンズについての推理も杜撰だが、その杜撰さを安易に麻原にも持っていくというのはどうなのか。しかも「初期」の、という表現もいかがなものか。当時40歳の男を捕まえて、初期、とはいつのことを言うのか。これに「似た力」とは何か。類推に継ぐ類推。アナロジーに継ぐアナロジーである。
信者たちは大型バスを連ねてサンフランシスコやロサンジェルスへ出向き、布教活動を行ない、献金を募らなければならなかった。信者の子供たちまで街頭募金に立たされた。むろん教祖に強制されたのだ。ざくざくと金が集まってくる。オウム真理教を思わせる、すさまじい集金力であった。そうして潤沢な資金を貯え、サンフランシス一等地に大きな教会を買い取った。p56
ここで、人民寺院に対する表現もかなり杜撰だ。「ざくざくと金が集まってくる。」などと表現するのは、人民寺院がすでに「悪」と決め付けられていたからできることなのだろうか。それとも、宮内は、ジム・ジョーンズが生きている時から、そのような表現をしていたのだろうか。この表現と、なぜに、麻原集団がダイレクトに「思わせる」ようにくっつかなくはならないのだろうか。この時点で、すでに宮内の頭の中には、「人民寺院=麻原集団」という図式が出来上がっている。だから、なんとかその図式を補強できるような情報を後付け後付けで探してくる。ここでも「一等地」とさらりと言ってしまっているが、そのあまりに安易な表現におどろく。
そうして人民寺院は、急激に変質していく。好ましくない信者たちを地下室に閉じ込め、体罰やリンチが頻繁に行なわれるようになった。耐え切れずに、脱会しようとする者が出てくる。その信者は殺害される。まったくオウムと同じだった。坂本堤弁護士一家の殺害に良く似た事件も、このころ表面化しかかっている。p58
もう、ここまでくると必死だ。強引付会。「まったくオウムと同じだった」と断定する。「よく似た事件」と勝手に予断を与える。ひとつひとつは、まったく別な事象なのである。そこに共通項をみつけ、類似性を指摘することは可能だろう。しかし、彼の筆は、そのところを書き出す精緻さに欠ける。こうなってくると、糞も味噌も同じことになる。薬も毒も同じことになる。その差を見いだすことができなくなる。ある種の狂気だ。
当時、私は「奇妙な聖地」という長編小説を「群像」に連載している最中だった。フィクション上のある教団が武装して、警察の強制捜査が入るシーンを書いて、それから三ヶ月後に、地下鉄サリン事件が起こった。p72
なんであれ、当時、小説家の想像力を借りないまでも、麻原集団危うし、という予感はしただろう。あるいは、警察の強制捜査が入ることまでは、だれでも想像していたに違いない。しかし、宮内は「地下鉄サリン事件」を想像していたのだろうか。私が、宮内のこの筆の甘さを指摘するのは、その「奇妙な聖地」と言われる長編小説にはモデルがあると言われているからだ。私はまだこの小説を読んでいない。だが、このような杜撰な筆で書かれてしまえば、モデルになったもともとの事象全体がゆがめられてしまっているのではないか、と危惧する。
<2>につづく