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カテゴリ:マルチチュード
<2>からつづく
「善悪の彼岸へ」 <3> 宮内勝典 2000/9 集英社 初出「すばる」1998/4~2000/6 <第19章~第27章 & 付録> 本書を読み終わってみて、全体の印象は、著者特有の論理の運びに納得できないところもあるが、90年代半ばにして、日本社会におきた事象と全うに取り組もうとしている姿勢は、素直に評価できるものであると思う。文章が書かれた時間的背景を割り引いた(あるいは加算した)上でも、なお、著者の誠意というものを汲み取らなければならないと思う。 いま私たちは、麻原彰晃の「教義」を一つ一つ論破しようと試みている。p186 この一文は、もともと連載の記事だったひとつひとつの文章をつなぐために、あとから編集の段階で書かれたものかもしれない。それにしても「私たち」というのは、宮内本人が読者に語りかけている、というスタイルなのであって、一緒に「論破」しようと誘いかけている、と見ることができるだろう。それにしても、この「教義」という言葉やカテゴリについては、私自身はひとことある。 島田裕巳もたびたび参照していた内部的な麻原発言集「教学システム教本」の中から、無差別殺人につながりそうな一説を取り出して、「大蔵経」のなかから「善巧方便経」「大宝積経」を引き合いにだし、「教義の誤り」を列挙する。ポワという言葉、タントラ、殺人肯定、全宇宙の構造、(194p)などなどについて「論破」する。そして、「犀(さい)の角のように、ただ独り歩め」というブッダの言葉を示している。さて、それでは、宮内自身はどう進むのか。 文学の衰退と、オウムの台頭は通低しているように思われる。そこが無念なのだ。p227 ここで宮内は、当然、文学の力を信じ、文学の復権を望んでいる。 これ以上は、語れない。次なる世界をどのように構築していけばいいのか答えなければならないからだ。そんな力量など、私にはない。どのような社会にあっても、かならず犯罪は発生する。カルトも発生する。意味への渇きもやむことはない。理想社会もありえない。では、どうすればいいのかと若者たちに問いつめられるならば、こうくり返すしかない。p262 このように素直に自問するところに、単にいわゆるカルトからの脱会カウンセリングを進める旧態以前とした教団の牧師達とは、一線画すものが感じられる。たしかに、どこか宮内には、「精神世界の先輩」的、ちょっとおしつけがましいお節介さがある。そこまで言うなら、あなたはこの道以外の何を提示できるのか、そう問われてもしかたない。しかし、宮内に答えがないことは、すでに対峙している「若者」たちは見透かしている。それでも、宮内は、前段に続けてこういう。 これから先、どこへ向かえばいいのか途方に暮れたまま、私たちは宙吊りになっている。だが、先進国の恩恵を享受している以上、しばらくはこの宙吊り状態に耐えるしかない。安易な希望など、だれにも語れないだろう。語ればオウムのように嘘になってしまう。大切なのは回答ではなく、問いそのものだろう。まず、私たちの脳裏になんらかの問いが浮上してくること。それがすべてなのだ。問いが現れた以上、意識はかならず、それに対応していく。きたるべき理念も、夢も、まず私たちの脳裏に浮上してくる。その浮上した共有の思いが、強度をそなえているならば、それはやがて形になっていくだろう。p262 これが、本文の結句である。おいおい、ちょっと待ってくれ。それでは「文学的」に美しい(かどうか)結論でいいかもしれないが、これは小説ではない。今回この本で宮内が提示しているのは、そんな曖昧な形で結論を出せるようなバーチャルな世界ではない。これでは、次から次と凶器を振りかざしてくる悪役レスラーに、自ら、まったく効き目がないと知っている、カラテチョップを袈裟懸けに振りかざす大木金太郎みたいな、滑稽さだけが残ってしまう。後は、伝家宝刀の「頭突き」の自爆テロしかないではないか。晩年、大木はその「頭突き」の後遺症に悩んだ。さぁ、さすがにこれで思いが切れなかったのか、宮内は、長い長い43ページの「付録」をつけている。 私は高校生の時、このまま大学に行ってこの日本という社会のシステムに組み込まれていく生き方しかないのかという疑問をもった。そして大学にいかないと決めた。自分自身で歩こう、自分自身で生き方を探そうと思った。p279 ここで、私は、私自身の人生と類似性を見る。著者お得意の「そっくり同じである」という言辞を、送っておく。彼がどことなく粗忽であるが純粋なものをもっており、私の中のなにかが自動的に共鳴してしまうとすれば、ここに原点があるに違いない。もっともその後の歩み方は、当然のことながらそれぞれである。 私は小説家だが、オウムの信者たちは文芸書などは見向きもせず、麻原彰晃の本を選んだのだ。文学者の一人として、私は敗北していると感じる。p284 ああ、この部分はどう読むべきか。誠意ある文学者の述懐、と見るべきか、あまりに大時代がかった自意識過剰な悪乗りと見るか。勝手に敗北するのはいいが、麻原集団に小説ひとつで対峙しようとした著者の「敗北」の原因はどこにあるのか。事件当時、著者が書き進めていたという「奇妙な聖地」。そのうち機会があったら、読んでみようと思う。 <4>につづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.01 21:59:44
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