地球人スピリット・ジャーナル2.0につづく
「知恵の遙かな頂」 <初読> ラマ・ケツン・サンポ著 中沢新一・編訳 1997/7 角川書店
1990年前後に麻原は中沢新一にあっている。その中沢は、1979年にネパールのボードナートでラマ・ケツン・サンポに会ってイニシエートを受けている。このケツン・リンポチェは、1960年ヒマラヤの奥地のカリンポンで多田等観にあって、日本のチベット学のための協力を要請されている。多田等観は、1912年にダライ・ラマ13世にあっている。
ばらばらに読み進めていても、決して広すぎるということのないチベット・シンジケートのこと、どこかここかで接触がでてくる。ましてや、日本文化とチベット文化の交流となると、かなり範囲は狭まってくるといえる。チベット関係を読んでいると、カタカナ表記の人名や地名がおびただしい数で出てくるので、ひとつひとつは記憶する気力はないのだが、ふとそれぞれに重なる部分を追いかけていくと、意外と狭い範囲でオーバーラップしていることに気づかされる。
これほど私がチベット文化の歴史に無知なのは、別に特別なことではないかも知れない。中沢新一が、最初にケツン・リンポチェに会ったとき、このチベット僧が過去に、すでに10年間日本に滞在していたこと知らなかったのである。中沢の「虹の階梯」は20世紀の日本の精神文化に多いなるエポック・メイキングな登場の仕方をした。しかし、それはひとり中沢の才能や機縁に限られたものではなく、もっともっと大いなる見えざる神の手が、なにごとかのドラマを演出しているかのようにも見える。
それにしても、なんというあざやかな光景だろう。あたりはおびただしい光の滴(ティクレ)と虹の五彩(ジャツォン)に包まれ、その中に五色の光のマンダラが静かにあらわれる。海に底から際限もなく泡がわきあがってくるように、透明な空性からは、とぎれなく、光の滴がわきあがってくるのだ。「テクチュウ」の瞑想によって、人間という生き物の条件に縛られて、自分の本性を隠されていた裸の心が、ありありと体験される。そのまっただ中から、今度は「トゥカル」の瞑想が、空性のはらむダイナミックな運動の本性を、光の体験として、私たちの前にしめすのである。
なんという自由。なんという豊かさ。そしてなんという透明感だろう。日の出の前から日が沈むまで、私は完全にこのゾクチェンの瞑想に打ち込む日々を送った。そのときの幸福感といったらなかった。私は人として生れたことの本当の意味を、いまこそ丸ごと、直感によってつかみとることができるようになった! p150
1949年、ケツン・サンポ、29才の時、人里はなれたヒマラヤ山中で瞑想修行中の心境である。しかし、彼の語るチベットや、彼自身の人生は、決して薔薇色に彩られた幸せそのものだけではない。いや、むしろ、人間にとっての真理を求めようという真摯な姿があるからこそ、それを阻むかのよう次から次へと登場してくる障害や難問題は、チベットやラマたちが必ずしも理想そのものの人生を送っているわけではないことを教えてくれる。
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<再読>2008/09/22 <2>につづく