「仏教と瞑想」 チョギャム・トゥルンパ 1996/4 UNIO 青雲社 原著 MEDITATION IN ACTION 1969
「チベットに生まれて」とこの「仏教と瞑想」の二冊をもって西洋社会に対峙したチョギャム・トゥルンパ。薄くて横組みで読みやすそうな一冊ではあるが、深い。1969年に英語版がでているのに、日本語訳はそれから27年後にでている。西洋、とりわけアメリカ社会では広く知られているというものの、日本においては、麻原集団からみでのチベット密教文化の見直しの中で、出版された、ということか。出版社UNIOからはOshoの本が何冊かでている。
この本がでた1969年という時代を考えてみる。日本社会においては団塊の世代を中心とした「政治の時代」だった。「70年安保」という「共犯幻想」と「敗北感」を通じて、日本のカウンターカルチャーは一気に「心の時代」へと変貌していく。その時代性を考えてみても、このチョギャム・トゥルンパの活動は、丁度時期を得ていた、ということもできるかもしれない。
チベットにおいて活仏の転生化身として、幼時から徹底した教育を受けながら、青年期に中国共産党に追われる形でインドに逃れ、ダライラマのもとで若い僧たちの教育にあたる。その後、英国オックスフォードで比較宗教学などを学び、ブータン王家の個人教師などをつとめながら、アメリカに渡って瞑想センターを設立した、という経緯は、それが30歳までの人生の中で行なわれた、とするなら、まさに怒涛のようなドラマチックな人生であったに違いない。
仏教と瞑想、というテーマは、2007年の現在なら、ごくごく普遍的なテーマであると思えるが、この本が出た当時はまだまだ一般的にはものめずらしいテーマであったかもしれない。日本社会においては、マジで「仏教と瞑想はべつものだ」という主張さえ見られた。瞑想、という言葉さえごくごく限定した意味で使われていた。そういった意味において、この本が西洋社会にあたえたインパクトは想像することは容易にできる。
山折哲雄は、「神秘体験」(講談社)の中で、「彼がもう少し長生きしていれば、第二の鈴木大拙になったのではないかとふと思う」と書いているという。実際の文脈で見なくてはならないが、たしかに、この本を読んでいると、西洋人たちの論理を使いながら、東洋の仏教を必至になって説こうとする青年トゥルンパの汗水が感じられる。
ふつう瞑想の教授は、クラスで教えることはできない。師と弟子のあいだに個人的な関わり合いがなくてはならない。そしてまた、”呼吸の気づき”のような基礎的なテクニックのそれぞれに、多少のヴァリエーションが存在する。だが、ここでは基本的な瞑想のありかたについて簡単にふれるべきだろう。もっと先に進みたいのであれば、あなたはそうすることができるし、瞑想の師からさらなる教授を受けることができると確信している。p111
プラジュニャー、とは知恵、wisdom。おそらくこの英語には、すこし違った意味あいがある。
だがチベット語で使われている「シェーラプ」という言葉はぴったりの意味を持っている。「シェー」は認識、知であり、「ラプ」は究極を意味する。つまり第一義的な、第一の認識、高次の認識だ。だから「シェーラプ」は、仏教の教学を知るとか、あるものごとをどのようにして行なうかを知るとか、教えの形而上学的側面を知るとかいったことの、専門的あるいは教養的な意味における特殊な知識などではない。
ここでの認識とは状況を知ることであり、実際の知識というよりは”知ること”といったほうがいい。それは自己のない認識だ。自分が知っているという自己中心的意識---それらはエゴに結びついている---のない認識だ。だからこの認識、プラジュニャーあるいはシェーラプは、広大であり遠くまで見通せる。それは同時にとほうもなく鋭く正確であり、私たちの生のあらゆる側面にゆきわたる。p119
なすべき唯一のことは、それを実行し、プラジュニャーという対象に瞑想をはじめることだ。ここにおいてプラジュニャーだけが、私たちを自己中心性から、エゴから解放することができるからだ。プラジュニャーを欠いた教えは、サンサーラの世界、混乱の世界を増すだけであり、依然として私たちを束縛することになる。p129
瞑想修行のすべてはこのような地盤の上に立っている。そしてここにおいて、あなたは瞑想が生から逃避しようとするものではなく、心の理想境(ユートピア)的な状態に達しようとするものではなく、また精神的な体操といったものでもないことを、まったく明晰に見ることができる。瞑想とは、ただ”在るもの”を見ようとすることであり、そこには謎めいたものなど存在しない。p134
これは少々漠然として聞こえるかもしれない。だが、それをそんなふうにしておくのはいいことだと思う。というのも、瞑想の細部に関するかぎり、一般化することが役にたつとは思わないからだ。テクニックは、その人が必要としてるものしだいなのだから、それらは個人的に論じることしかできない。瞑想の修行に関しては、集団(クラス)を指導することはできないのだ。p135