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地球人スピリット・ジャーナル1.0

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2009年4月1日

地球人スピリット
・ジャーナル2.0


へ引越しました。

2007.05.08
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「スピリチュアリティの興隆」 新霊性文化とその周辺 
島薗進 2007/1 岩波書店 

 宗教社会学、あるいは社会宗教学などといわれるジャンルは、こころ魅かれるものがあるが、いまひとつ納得するものを感じない。「宗教社会学のすすめ」の井上順多孝などにも、とてもまどろっこしいものを感じるのは、1995年前後の麻原集団事件に対する汲々とした態度に終始した姿、野次馬根性を決め込んだ無責任な姿、そういったものが、このジャンルの人々の姿として目の裏に強烈に焼きついてしまっているからだ。

 その宗教社会学というジャンルにおいて島薗は、2007年現在、日本の最高峰のひとりと言ってもいいのだろう。個人的にはなんのうらみもないが、正直言って、新刊コーナーに入っていたこの一冊を借りてはきたものの、読む気がなくて、最後送りになっていた。そのような期待感のなさの中で読んだからか、いままでの宗教社会学の本よりかは、いくらか血の通った、より説得力のある一冊だ、と感じた。

 日本的な精神世界という言葉、アメリカ的なニューエイジという言葉、これらに自らの概念を含ませきれない島薗は、「新霊性」文化、あるいは運動、という言葉を編み出した。まぁ、その経緯はともかくとして、私はこの言葉は好きではない。少なくとも世間的にも、精神世界やニューエイジという言葉のようには愛されていないだろう。宗教社会学者たちが、ために編み出した狭小な概念であり、ごくごく小さな仲間内の陰湿なギョーカイ用語のようなものである。

 しかしながら、そのジャンルこそ、このブログでも追求したい重要なテーマであることは間違いない。1970年代以降の、特に日本社会において、その新霊性文化の担い手として、島薗はオリジナリティあふれる4人として、次の人々の存在を挙げる。山尾三省船井幸雄柏木哲夫田中美津

 山尾三省は、このブログでこそ一冊も取り上げたことはないが、私の蔵書の中ではかなりの冊数を数えることができる。ヒッピー新聞「部族」、「なまえのない新聞」のあぱっちが編集したミニコミ「DEAD」に再掲された「部族宣言」、プラサード書店のキコリが、感涙とともに世に送り出した三省の処女本「聖老人」。ひとつひとつが、私の人生のなかの宝石だ。三省という人がいなかったら、今の私はいなかったかも知れない、とさえ思う。どこでどう影響を受けたかなどということは、書き出すことさえ無駄な感じがする。

 山尾三省がいる、ということは、「常識」だった。山尾三省がいる、ということは、大地があり、空があり、風が吹いて、雨がふる日もある、というくらい、私にとっては「常識」だった。三省は、精神世界でも、ニューエイジでも、新霊性でも、なんと評価されても、キチンとそれを受け取ってくれるだろう。しかし、彼は、そんなカテゴリ分けはいらない。山尾三省は山尾三省という、独立したカテゴリをもっている。

 山尾三省を語るときは、サカキナナオ山田塊也(ポン)などの人々との関わりの中でこそ、語られる必要があるだろう。

 船井幸雄については、正直言って、私はあまり好きではない。「人類と地球のアセンション」 とか「イヤシロチ」などは、かなり無理しながら読んでいる。このブログを書く段になって、しかたなく読んでいるところもある。いや、もっとも、このブログは、そのような苦手な分野も一応読んでみようとスタートしたところもあるので、それはそれでいい。これからもどんどん読むだろう。出来れば、全部読んでしまってから、さらに論破してやりたい気持ちもないではないが、そんなことをしているエネルギーが勿体ない。

 もともとカタログ雑誌の名前だった「ニューエイジ」の流れはともかくとして、日本的「精神世界」は、どこかフニャけたところがある。ニート的で引きこもり的だ。三省やナナオやポンから、ビジネスをひねり出すことは困難だ。いやむしろ、そのような商業主義を廃したからこそ、彼ら日本ヒッピー元祖とさえ言われた潮流ができあがったのだ。しかし、それは一面的だ。多くの社会人たる私たちはビジネスをし、生活を支えていく必要がある。その点、日本の経営コンサルタントの黎明期に位置しながら、なお、「貪欲」に精神世界を自らの世界に取り込んだ船井幸雄は、やはり、一目おかれる存在なのだろう。

 船井幸雄を、私が嫌いなのは、あの文章だ。鼻持ちならない、尊大さ、売らんかなの姿勢。しかし、また、三省を私が大好きなのは、あの文章ゆえなのだが、しかし「悲の道」の人、「涙の道」の人、山尾三省は、船井幸雄の「貪欲」さを、学ぶ必要があったのかもしれない。いや、このお二人は、もうどうでもいい。私は山尾三省を生きることもできないし、船井幸雄になることなどできるわけもない。私は私の道をいくしかない。そして三省を遥か遠くの山並みに仰ぎながら、お隣の船井ワールドの「お手本」を見習いつつ、生きていくことになるのだろう。

 柏木哲夫については、私はまったく知らない。今のところ、これからチャンスがあったら読みたい、とも、実は思っていない。その存在すら知らない。しかし、もし彼が生や死にかかわり、ホスピスをテーマに何事かを切り開いている、とするならば、これは、当然、今後、遭遇しなくてはならない存在となろう。私の枕元には、キューブラ・ロスの一連の著作が積まれている。これから、このブログの向かうところは、この死であり、生である。もとより「チベットの死者の書」なども、ホスピスのホスピスたる中心核となるような部分ではある。

 田中美津は、この4人の中では、一番古くから知っている。ウィメンズ・リベレーションの日本的草分けとも言っていいだろう。10代なかばにして、私自身が、中身はともかくとして「フェミニスト」つまり女権拡大主義者を自称するようになったのは、ひとつには彼女の存在が大きかった。その後、彼女の自宅出産のドキュメンタリーを見たりした。前後して、私たちも学習して、コミューン内での何組かの自宅出産を体験したりした。

 それから彼女は、針灸師やボディワーカーとして活躍しているということは、聞いてはいたが、もう30年以上もその動向を詳しく知ることはなかった。この島薗の「新霊性」文化の中に登場すること自体、意外な気もするが、彼女がこのような形で再評価されるのであれば、同慶に耐えない。

 天河弁才天も取り上げられている。実は、このブログでのテーマでもあるビジョンは、天河への道すがら見たものである。1985年に「精神世界の六本木」と天河が言われていた、というのは初めて知ったが、私が天河に行ったのも85年86年だった。関連して、鎌田東二と津村喬が紹介されている。お二人とも1991年の「スピリット・オブ・プレイス」のゲストにお招きした人たちだ。ここで語られることは、多いに賛同できる。鎌田については、これからこのブログに読んでいくリストに入っている。

 「2」において、フィールド・ワーク的側面から、名もなき(仮名)個々人のインタビュー記事が紹介されている。トランスパーソナル心理学、などの文字が踊る。

 「3」においては、グノーシス主義に光を当てる。さまざまなシンボリズムについては特に目新いものはないが、神智学、薔薇十字会、エソテリズム、オカルトなどへの言及がある。この辺は、なんの手がかりもなく、お気軽ハイキングコースで足を踏み入れることは、私にはできない。高峰を踏破するか、谷底深く、光とて漏れこない底なしの洞窟でも探検するほどの重装備が準備できた時にこそ踏み込んで行きたい領域ではある。コリン・ウィルソンなども引き合いに出されている。

 人類史は七つの「根源人種」のサイクルをたどって進んでいくが、第三のレムーリア人、第四のアトランティス人に続いて、現在は第五のアーリア人(ナチス以後の現在は、これは通常の意味の「アーリア人」とは合致しないと強調される)とよばれる根源人種の途中段階にある。p260

 などと引用されている部分もあるが、島薗にレムリアを案内されるとは、こそばかゆい。宗教社会学者たちは、他人や第三者の衣服を無残に剥ぎ取ることは一生懸命だが、自らを開示することは珍しい。次の部分はわずかだが、その珍しい部分なので引用しておく。

 私的な回想に及んで恐縮だが、私自身はこのような潮流の中の変化に知らず知らず影響されながら、1970年に医学の道を捨てて宗教学の門をくぐった。「祭りと儀礼の宗教学」(柳川1987)の著者・柳川啓一の宗教学演習「柳田国夫と折口信夫」に導かれ、72--73年には、詩人にして民俗学者であり、日本の近代への根源的批判者であると思われた、折口信夫の生涯と学と思想の研究に取り組んでいた。p8

 「恐縮」しながらの自己開示と言ってもせいぜい、この程度のことである。宗教学者たちの世界においては、マジックのタネを見せまいとして、作り笑顔をつづけている手品師のようなスタイルが一番「お上品」である、というような通念でもあるのだろうか。自動販売機に「いらっしゃいませ」と無機質に繰り返されているようで、ちっともこちらの感性を打たない。「宗教」という言葉に、「学者」たちが何をみようとしているのか、いまだに私は理解していない。

 最後のページにおいて、島薗は「上廣倫理財団・上廣栄治会長、上廣倫理財団関係者各位」に「あつくお礼を申し上げ」ている。p314 なんで??? なんでスピリチュアリティの未来を問うような一冊が、このような一団体である「実践倫理宏正会」などに頭をさげなくてはならないのか。それは、この団体から資金供与を受けているからだろう。これは「スピリチュアリティの現在」を読んだ時も疑問に思ったことだが、いくら金に縁のない宗教学者たちとは言え、この辺はあまりいただけたものではない。島薗センセイもすこしは船井ワールドで勉強して、経済的に自立することを考えてみたらどうか、と皮肉の一つも言いたくなる。

 これら宗教社会学の本を読む時に、いつも思うことは、誰の、誰による、誰のための、研究なのか、ということだ。間違っても、裏に隠れた陰湿な覗き見屋たちの、冷淡な視点に徹する頭でっかち達による、一部物好き支援好きの体制維持者たちのための、研究に成り下がることだけはやめて欲しい。

 本来、宗教学は、探究者の、探究者による、探究者のための、探究でなければならない。あるいは、ブッタ達の、ブッタ達による、ブッタ達のための賛歌でなくてはならない。





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Last updated  2009.02.10 13:05:34
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