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カテゴリ:ブッダ達の心理学1.0
「存在の詩」第一号<2>
<1>より続く 「死ぬことを学べ、されば汝は生きることを学ぶであろう。」 チベットの死者の書、バルドソドル経典は”目醒めて死ぬ”ことを教えています。そして人をして正しくその”死”に至らしめ、様々な全く混沌とした修羅場をのりきる勇気と知恵を与えて復活へと導くことのできる力量を持った存在のみがグルの名に値するのです。 そういう意味でバグワン・シュリ・ラジネーシは現代に生きる本当に数少ないグルのひとりに違いありません。 1931年に北インドのクチワーダで生まれたラジネーシは21才の春、ちょうど花が咲くように自然に正覚に達し、その後大学の哲学科を首席で卒業したあともひき続き約10年間を哲学の教授として過ごします。幾多の過去生に渡って様々な教えや道をさまよい歩き、きわめてつくした後、最後の生として今生を生きる彼の悟境は深くまた奔放で、とても凡庸なインドの知識人たちの受け入れられるところではありません。結局彼もセックスや政治に関するあまりにもラディカルな発言のために大学を追われ、インド中を旅しながら宗教や政治の欺瞞に対して論議をかもし、同時に多くの人々の心を観察するというフィールドワークにはいります。 太古の秘教から現代の精神科学の最先端までを縦横に駆使する彼の磨きぬかれた知性と、人間の精神心理に関する深い洞察はこうしたキャリアに負うところも大きいようです。その間しかし彼は自分の悟りなど一切口にせず、長い間ただ”アチャリア・ラジネーシ(ラジネーシ先生)”として心ある人々に親しまれてきました。それが、それでもなおかつ何かを感じ取り彼を慕って集まる人々に押されて腰を落ち着け、弟子を取って教え始めるようになったのはごく最近のことです。まして口づたえに続々とふくれ上がる西欧諸国からの探究者たちの切望に応えて英語の講義を始めたのはつい数年前。本格的なアシュラム(修道場)を現在のマハラシュトラ州プーナにすえて、コンスタントな講義や瞑想プログラムを始めたのは昨年の夏からにすぎません。我々はバグワン・シュリ(聖なる神というような意味で、インドでも最高の大聖を呼ぶときにしか用いません)としてのグル・ラジネーシのほんの黎明期を目のあたりにしているわけです。 彼の口からは超能力も奇跡も、神霊や因縁(カルマ)も語られることはありません。それらを含めて我々の<世界>を構成しているありとあらゆる体験---幻覚と夢と---を超えた究極のリアリティーは、その体験を体験している物、幻覚を幻覚している者、つまり仏教タントラでただ「光明」と呼ばれる存在の大海の中にあって、いやその大海そのものであって、過去、現在、未来永劫決して死滅することも汚されることも犯されることもなく久々として在り続けるところのもの、仏教が悉有の仏性と呼び、臨在が無位の真人と呼び、ヒンドゥー教徒が真我則梵と呼ぶそのもの、そのほかの何ものでもないからです。 それ以外のすべては生々流転、寄せては返しあらわれては消え、実体を持たない<夢>にたがわず海原の波のような浮き沈みを繰り返しています。太古の<混沌>を水のひとしずくから人間としての現生に到るまで、幾千億の生を経て巡り巡るそうした夢のその回転の中心にあってただひとつ微動だにせず、すべてを見守り続け、生き続け、存在し続けてきた我々の実在の根源、その根源への帰還こそ古今東西あらゆる覚者たちが説いてやまない永遠の生命、大自在の道の本質なのです。 いつも我々が「私」だと思いこんでいる自己意識など実は心によって投影されたひとつの幻にすぎません。私を超え、私を超え、そのまた私を超えて行った無限ドロップアウトの果てに、心という自我機能のメカニズムをふりきりつくした果てに残るもの、いやむしろ残らないものと言うべきでしょうか、それが「空」と呼ばれる我々の本性なのです。バクワンは言います、「ゲシュタルトを転ぜよ」と。だまし絵の地と柄とを見る見方をくるりと逆転するように、夢に注意を払うのではなくして、その夢を見ている者に気づけと言うのです。 我々の生が一抹の幻覚(マーヤ)であり夢であろうと、それは我々の関与すべきところではありません。ただその幻覚にぬきさしならないまでに巻き込まれ、夢を現実(リアリティー)と錯覚してしまっていることだけが我々の責任なのです。カルマをカルマとして成り立たせているのも我々のこの眠りなのであって、そこに覚醒の炎が持ち込まれたとき、実体を持たない闇として見抜かれたカルマという幻覚にはすでに我々を拘束する力はありません。夢に巻き込まれ、自己移入してしまっている我々こそ、その夢に力を持たせ、我々に作用せしめている張本人なのです。 同様にちみもうりょうからから神霊守護霊に至るまで、究極的にはすべていまだ仏教で六道輪廻といわれる、<世界>という夢の一部にしかすぎません。悟りとはその閉じられた円環から完全に抜け出してしまうことだったはずです。それぞれの幻覚の現実味の多少や美醜苦楽にかかわらず、どのみち実体を持たない<映像>にすぎないものに不必要なまでに注意を払い、本気になってそれと戦ったり、反対に同調したりすることほど馬鹿気たことはないでしょう。覚醒の道を歩こうとする我々の「はじめのいーっぽ」は、ゲシュタルトをその幻覚の光景あるは映像から、それを見ている者へと転ずることなのです。 バグワンによれば、そのゲシュタルト転換を契機とする我々の実在の根源への帰還の旅こそ、瞑想あるいは禅定と漢訳されたディアーナの真に意味するところであるといいます。それ以外のあらゆるテクニックや方法論は、あくまでもその本質的な瞑想が起こるときまでの過渡的な手段であり、決して本来瞑想などと呼ばれる筋合いのものではないのです。------- しかし彼は我々に瞑想法を与えます。それも世にも珍なる跳んだりはねたり、阿鼻叫喚大騒ぎのユニークな方法の数々を。なぜでしょうか?・・・・・・・・それは橋なのです。 昏睡状態で眠りこけている我々が無為の覚醒というタントラのメッセージを聞いて、「あ、やっぱり」と、したり顔で眠り続けることの欺瞞は彼は許してくれないのです。それはやばい。我々自身をぎりぎりいっぱい開いておくこと。目を醒ましておくこと。悟りが我々の扉を叩くそのとき、その声を聞くことのできる感受性をとぎすましておくこと。それは我々の仕事です。究極の真理をつねに心にとめながら、なお道の第一歩から歩き始めること。そして、いろいろな方法によって自らを覚醒させてゆく作業をしながら、決して無為の安らぎという最終句を忘れないこと。それがバグワンの課す道なのです。 そこで我々は、この雑誌を中心にしてバグワンが様々な題材を使って説く「道」の究極を聞きながら、定期的あるいは不定期の瞑想の集りを続けて行こうと思います。 バグワンはこれから紹介しようとするティロパの講義でわかる通りの中味の濃い話を彼の居処シュリ・ラジネーシ・アシュラムで1年365日休みなく続けていますから、日本語に訳すべき材料もいくらでもあります。とりあえず、これから10回に渡ってマハムドラーの詩にもとづく講話録「存在の詩」を載せていく予定です。この誌上に掲載した題材の「マハムドラーの詩」が生きたマスターの手によっていかに生き生きとした教えへと錬金術的な変態を見せるものか、楽しみにしていてください。 そしてなによりも、この雑誌を通じて何かを感じる人がいれば、ぜひ瞑想にも参加してみてください。いまのところ東京では毎週火曜日の午後7時から高田馬場の毎日新聞早稲田別館の五階(詳細は巻末に)集まっています。また、八・九月は自然の中で瞑想するチャンスもできそうです。 p5~p11 ------------------------------------ <3>につづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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