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テーマ:本日の1冊(3685)
カテゴリ:チェロキー
「僕の叔父さん 網野善彦」 中沢新一 2004/11 集英社 新書 186p No.833★★★★☆ 池田信夫の「ウェブは資本主義を超える」を読んでいて、いきなりマルチチュードという言葉がでてきて、しかも中沢新一の言葉として語られていて、その取り合わせの妙に、なんだかとても気になっていた一冊。確かに、チベット密教流れや麻原集団事件の流れ、あるいはカイエソバージュの流れからは、なかなかこの本にまで読み進めない流れであったことが、この本を読んでから分った。まずは池田が指摘していた部分を抜書きしておく。 そしてなによりも、近代の「底」を抜いたところに生まれてくる「民衆」という大地的概念には、親鸞のような宗教者が出現してくることを許す条件が整っている。あらゆる真実の宗教は、トランセンデンタルに触れる体験から生み出されてくるが、網野史学の根底にすえられることになるこの「民衆」という概念は、それ自体が上からの超越とは正反対の、大地性への内在によって超越を果たしていく親鸞のような宗教的思考を、自分にふさわしい思想として、迎えることができる。この意味で、網野さんが創造した「民衆」の概念は、ドゥルーズ=ガタリによって創造されて、今日ではネグリによって新しい展開が試みられている「マルチチュード」のきわめて近いところにいるわけだ。網野史学は、その誕生を画すこの『蒙古襲来』において、緻密な実証をとおして実証主義的歴史学を乗り越えていくという、かつてない歴史学の冒険に踏み出したのだった。p64 網野は中沢の叔父さんだ。しかもそうとうに深い情を結んだ叔父さんだ。網野あって中沢があり、網野いわんとするところが中沢を通じて表現されてきたところもあったのかもしれない。今回、他に同時期の中沢の共著「網野善彦を継ぐ。」という類書があることもわかった。中沢が網野の何をどう継ごうとしているのかは、そちらを読むとして、中沢もまぁ、しかし、あちこちうろうろとしてきたものだなぁ、と思う。 歴史学のスーパースターとなった網野さんは、これまっでのようにじっくりと雄牛の歩みでものを考え、本を書くということがしだいに難しくなっていった。私は私で世間に追いまくられていた。私が煩瑣な仕事ややっかいな事件に引きずり回されているうちに、あんなにも透明な通路の中を、なんの障害もなく二人のあいだを自由に行き来していた言葉が、なんとなく通じ合えなくなることが多くなった。そんな不幸な状態が何年も続いているうちに、網野さんは重い病気になってしまった。p176 ここで、中沢が「やっかいな事件」というのは、まさに一連の「あの」事件であることは間違いない。しかし、中沢が「やっかい」と言ってしまうことに、私はちょっと自分勝手な無責任さを感じる。そのやっかいな事件は自分が蒔いた種であり、また、それを「やっかい」と言ってしまっていいのか。むしろ、ヤブをつついて蛇を出してしまったなら、率先してその蛇に噛まれるか、その蛇を使って見世物でもやるか、自らが蛇そのものになるかの覚悟が必要だったのではないかと思う。すくなくとも、「やっかい」と言ってしまうことによって、中沢は自らが引き起こした「事件」からスタコラサッサと逃げ出したい気分をむんむんと表現している。 私がネパールへ出かけてチベット人の伝えている密教をひととおり学んで戻ってくると、網野さんはたいへんに面白がって、その頃の会話はもっぱら密教のことに集中した。1983年か84年の頃である。p143 20世紀後半の日本の精神世界の潮流の中で、中沢の存在は決して小さなものではなかった。むしろ話題提供者としては、常にその中心にいたかもしれないとさえ思える。しかし、なぜ、彼はチベット密教に近づき、いまやその顛末を「やっかいな」問題、と断定してしまうのだろうか。 そして網野さんの内部で展開していたこの思考の転位は、沖縄の研究から突如チベット密教の研究に転向していった私の内部でおこっていた、未発の思考の展開と、不思議に共鳴し合うものをもっていた。父親でさえ、チベットの宗教の研究に突然転身していった私の真意は、とうとう亡くなるまでほんとうには理解してくれなかった。ところが、網野さんにはそれが直感的にわかっているように感じられた。p157 なぜ中沢は「沖縄の研究から突如チベット密教の研究に転向していった」のだろうか。その理由について、前段で網野の思想的経緯になぞらえて語られているが、私にはあまり説得力がない。なにはともあれ、グルがいて、パンディットがいて、探求者がいる、とする場合、中沢は、何かのパンディットにはなりたかったのだろうが、パンディットでさえあれば、「何」はあまり問われないのかもしれない。もちろん、それではパンディットとさえ呼ばれないのであるが。 いまだに「虹の階梯」を聖典のように読んでいる「探求者」たちもいることだろうし、アアイウ史浩などはいまだに、中沢「先生」を高く評価している。苫米地英人とかいう人物も「スピリチュアリズム 」 の中で、中沢を「確信犯」呼ばわりをしている。もちろん島田裕巳の「中沢新一批判」にまともに中沢が答えた形跡もまだないようだ。「チベット密教」など多くの著書のある正木晃が、一連の麻原集団事件で一審、二審ともに死刑判決を受けた早川紀代秀の弁護をした、という事実を知るにつけ、中沢の80年代初版の「突然の転向」のあとの、さらなる「逃走」は、納得しかねるものがある。 網野が探求し、中沢が継続しようとしているものにアジール(避難地)研究がある。麻原集団において、その「教団」はアジールだったのかもしれない。また、中沢における「芸術人類学研究所」もまたひとつのアジールとなっている可能性がある。なんのかんのといいながら、この本を読みながら、誰もいなくなった実家で、かつて盛んに議論していた父や叔父達の情景を思い出しながらこの文章を書いている中沢の姿を想像したとき、なんだか私の両の目頭もぬれていた。 この本を読みながら森健の「グーグル・アマゾン化する社会」を思い出していた。たしか、あの本でもマルチチュードに触れていたはず。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.02.11 09:56:08
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