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カテゴリ:マーケットプレイス
<1>より続く
大体において、「司牧活動を行う人々」とは誰か。彼らが「ニューエイジのスピリチュアリティを理解」することなどあり得るのか。それに「対応」して、なぜに「導か」なければならないのか。「導く」とは「思想的影響をあたえる」ことではないのか。であれば、ある「人」対して、「ニューエイジ」的影響を受けることは「悪」で、カトリック的影響を受けることは「善」なのか?? それは何故か? Oshoの「十戒(笑)」の第一「内部から来るもの以外どんな命令にも従うべからず」を下敷きにした場合、ニューエイジ思想の影響を受けるより、カトリックの「導き」を受けるほうが、より強い強制力を感じる。むしろそれは命令と言っていいかもしれない。Oshoに言わせれば、その「思想」の内容そのものよりも、「その」強制力には従うな、と聞こえる。お互いに影響しあい、響き合うほうがまだましだ。 もし、ニューエイジ側に意見というものがあるとすれば、この「導き」という方法自体に「×」マークを出しているのではないか。おせっかいすぎる。知ったかぶりすぎる。この辺に、人々はカトリックにまずは拒否感を示し、いわゆる「ニューエイジ」的なスピリチュアリティに誘われていくのではないか。なぜ、人々は「宗教は信じていないけど、スピリチュアル」というのか。ここをまずはカトリックは分っていない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.01.18 20:58:26
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