<9>よりつづく
「私が愛した本」 OSHO <10>
G・E・ムーアの「倫理学原理」だ。私はこの本を愛してきた。これは大いなる論理の実践の書だ。彼は「善とは何か?」という問題を考えるだけのために200ページを費やし、「善」は定義不可能だという結論に達する。大したものだ! だが彼は宿題をやってのけた。神秘家がやるように、ただ結論に跳躍したわけではない。彼は哲学者だった。彼は一歩一歩段階を追って進んだが、神秘家と同じ結論に達した。
「善」とは定義不可能だ。「美」もそうであり、「神」もそうだ。実際は、何らかの価値あるものはすべて定義不可能だ。それを記録しておきなさい! 何かがもし定義できるようなら、それは無価値だということだ。定義不可能なものに行き当たらないかぎり、何ひとつ価値のあるものに出会ってはいない。p241
何はともあれ、突然、思い立ってリストアップしたOshoの愛した本「西洋哲学」編17冊のトピックは全部読んだことになる。ニーチェに始まって、ムーアに終わった西洋哲学編。「善」とは定義不可能だ。「美」もそうであり、「神」もそうだ。実際は、何らかの価値あるものはすべて定義不可能だ。ああ、結局最後にこういわれては、結局、このブログでの「探求」の努力など、最終的にすべて「無」に帰すことになりそうだ。結局、Osho「十戒(笑)」の十番も、探求をやめよ、在るところのものは在る。立ち止り、そして見よ。が結論だった。
「私が愛した本」には他に151冊がリストアップされているのだから、結論めいたことはいえないが、少なくともOshoは大学で哲学教授をしていただけあって、哲学を無視はしていないけど、「好き」ではないことがわかった。もっとも、彼が哲学を愛していたら、大学に残って静かな「生活」を送ったのではなかっただろうか。
彼が「好き」というものは、カテゴリとしては西洋哲学と見られていても、結局そこから踏み出して神秘的傾向を帯びたり、東洋哲学へと歩みだしたものに限られているようだ。あるいは、部分的ではあっても、技法やスタイルが特段に芸術的にすぐれていたり、稀有な方法であったり、人類としてはじめて試みたようなところを評価してのことのようだ。
<11>その1甲につづく